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Ⅱ章 好きとさよなら

誰よりも、何よりも

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 どうしたのだろうと不安になっていると、彼女から電話がかかってきた。急いで出て、声を聞く。彼女がまだ生きていることに安堵した。
『おはようございます、薫先輩』
「桜子ちゃん! 良かった。今どこに――桜子ちゃん。泣いてるの? どうした?」
 電話の向こうから、愛しいひとの泣く声が聞こえた。
 彼女は何を悲しんでいるのだろう。早く慰めてやらないと。俺が助けてやらないと。
 そう思っていると、彼女が涙声で話しはじめる。
『薫先輩、大好きです。……大好き、でした』
 まるで、遠距離恋愛になる直前の恋人への告白のようだった。これから離れてしまう、そんな予感。なにか悪いことが起こる。そんな気もした。
 押しのけるように、俺は普通の調子で彼女に話しかける。今日も、明日も、これからも。俺と桜子ちゃんが、普通に生きていけることを願って。
「俺も、桜子ちゃんのこと大好きだけど。んなことより、どこいるの? 一緒に学校行こうって言ったじゃん」
『約束破って、ごめんなさい。でも、先輩に会ったら……死にたくないって、思っちゃいそうだから』
 途端に鼓動が速くなる。彼女が示しているのは――彼女は、今、死にたがっているということ。俺と会うと死にたくないと思いそうだから、会わない、ということは。
 ――最悪の可能性が、頭をよぎった。
「……ねえ、まさか――自殺、なんて、しないよね? ねっ?」
 どうか、否定してくれ。援交してても良いから、他に何か隠してることがあっても良いから。全部まとめて許すから。受け容れるから。
 お願いだから、死ぬことだけは、やめてくれ。
『愛してました。誰よりも、何よりも』
 願いは、静かに虚しく拒絶される。諦めた色をした声で、彼女は冷めた愛を告げた。
 予想した最悪の結末を否定してくれることもなく、最後の言葉を口にする。
『薫先輩っ』
 澄み渡った明るさで、夏の木漏れ日みたいな声だった。
『わたしのこと、好きになってくれて、ありがとう。先輩と……できなくて、ごめんなさい。ほんとうは、あなたと、愛しあいたかったんだよ。でも……』
 電話の向こうの彼女はたしかに、誰よりも強かに生きていた。最後のひとときは、離れていてもわかるほどに輝いていた。最後まで、彼女の声はキレイだった。
『…………さようなら、ね。薫先輩』
「――桜子ちゃん!」
 さようなら。はっきりとした別れの言葉。引きとめる暇さえ与えずに、電話の向こうでガツンと音がした。……なんにも聞こえない。風の音さえも聞こえない、無音になる。
「……桜子、ちゃん……?」
 彼女の声が返ってこない。俺のスマホの画面は、通話時間のカウントアップを続けてる。まだ終わってないんだ。まだ、まだ……ああ、そうか。スマホのマイクが壊れたのかも。そうだ、スマホが壊れただけなんだ。それだけだ。
 早足で歩き、やがては走っていく。早く彼女を止めないと。早く会いにいかないと。
 ひとりで電車に乗って学校へと向かう。まだ生きてるはずだ。まだ終わってない。
 カウントアップは止まらない。彼女との電話という繋がりを切ることが怖くて、通話状態はキープしていた。言い聞かせたって怖かった。
 息を切らして学校に着くと、救急車が停まっている。絶望しかけて止まったのは、前とは違う光景だと気づいたからだ。前の彼女は即死だったから、救急車はいなかった。来たのは警察車両だった。もしかしたら大丈夫なのではないかと、淡い期待を抱いてしまう。彼女の生を願った。

 九月一日、金曜日。学校はまた臨時休校になった。
 その日の午後、インターネット上に、とある情報が拡散された。
 校内での集団性的暴行事件。その場面を収めた動画と、犯人のひとりである男子生徒による謝罪動画。彼は自殺を宣言し、その後自宅のマンションから飛び降りた。彼は、未遂で済んだ。
 同日、ひとりの女子生徒が自殺した。四階建ての高校校舎の屋上から飛び降りた。彼女の名前は、紫月桜子。十五歳の高校一年生。暴行事件の被害者だ。
 複数人の男子生徒に金銭を渡して暴行を命じた女子生徒は、『動画を送れば、別れてくれると思った』と供述した。SNSに拡散された情報によると、彼女の名前は青柳秋穂。高校三年生。被害者の恋人に恋慕しており、嫉妬により暴行事件を企てた。
 自殺した女子生徒は、家庭でも虐待をされていた。母親は彼女の性的な画像をSNSに上げるアカウントを持ち、彼女に援助交際をさせていた。
 女子生徒は妊娠しており、重い悪阻つわりも自殺の原因として考えられた。

 ――彼女が死んだときのことは、いつのことであっても、思い出したくない。
 記憶にこびりついて離れないけれど、できるなら見たくない。
 二度目の彼女は、即死ではなかった。彼女は一度目と違って、併設大学の十六階からではなく、四階建ての高校の屋上から飛び降りた。
 高さも勢いも足りなかったから、すぐには死ねなかったらしい。意識があったのかどうかはわからないが、地面に落下しても、しばらく生きていた。
 いくつかの骨が折れて、内臓も傷つき、たくさんの血が出たのだとは聞いている。前よりも早く学校に着いたせいで、彼女からあふれ出した赤色をまともに見た。こんなにも流れるのかと驚くほどにたくさんの血潮を流して、彼女はそれが原因で死亡した。
 病院でさらにわかったのは、桜子ちゃんが妊娠していたことだった。もちろん、彼女が死ぬと同時にその小さな命も潰えている。
 俺とはそういうことをしていないから、他の男との子どもだ。
 彼女はいろんな男と体を交えていたから、誰の子なのか、わからなかった。
 桜子ちゃんは、自殺した。でも、それは、ほとんど殺されたようなものだった。
 俺は、後から知ったことだけれど。
 桜子ちゃんは、学校で性的暴行を受けていた。いわゆる集団……というやつだ。青柳秋穂は桜子ちゃんにも俺と別れるように言っていて、けれど彼女も俺も応じなかったから、酷い手段を取ったのだった。
 青柳という女の情報を、俺はできうるかぎりシャットアウトしていた。ゆえに彼女が、〝逆らってはいけない女王様〟として一部の生徒らの間に君臨しているのも知らなかった。
 親の寄付金のおかげか、教師も彼女を野放しにしていたらしい。彼女は手駒をいくらか抱え、それらを使うことに慣れていた。好き放題にやっていた。
 俺は愚かにも、あの女の本性を忘れていた。彼女が中学のときにいじめの主犯をしていたこと、俺に危害を加えるようなデマを流したこと。それらを頭の片隅に情報としては覚えていたが、日常に影響する実感としては持っていなかった。
 一回目の高一の夏を乗り越えて、二回目を過ごして、桜子ちゃんへの恋に溺れて。
 その過程で、青柳のことを忘れていたのだ。他のトラウマも、遠い記憶になっていた。
 覚えているままでは、普通の高校生活は送れなかった。また不登校になっていた可能性もある。だから回復した隙に遠ざけ、別のものに夢中になって逃げ、綺麗サッパリ忘れ去った。つらい記憶を無意識に封じ込めていた。
 今では全部、まざまざと思い出せる。人の視線と女性に怯える日々が帰ってきた。恋人の死と結びつけられたこの記憶は、この先ずっと消されることはないだろう。この恐怖を忘れられる日は、おそらくもう二度と訪れない。
 あの女は――数人の男子生徒に命じて、桜子ちゃんのことを襲わせた。加担した男子生徒は脅しに屈してしまったと証言したが、襲う代わりに多額の金を受け取っていたとのこと。金に目が眩んだ節もあったのだろう。金まで使って、あの女が彼女を襲わせた理由はと言えば。
『花くんに寝取られ動画を送りつければ、別れてくれると思った』
 そう、たったそれだけのことだった。
 俺と桜子ちゃんを別れさせるためのものでしかなかった。

 あの女は桜子ちゃんの動画をLIENで俺に送りつけたが、俺が彼女のアカウントをブロックしていたせいで既読がつかなかった。彼女も、つい忘れていた。俺という「想い人」に拒絶された、彼女にとっての「つらい記憶」を。
 思い出した彼女は、怒った。憤りのままに、動画をインターネット上に晒した。クラスでの性的嫌がらせの画像も改めて拡散した。
 傷ついていた桜子ちゃんを、さらに追い詰める行為だった。
 桜子ちゃんの母親もまた、頭のおかしい女だった。彼女に暴力を振るうだけでは飽き足らず、援助交際をさせることで金を稼がせていた。バイトをしていないなら身体で稼いでこい、ということだった。彼女の卑猥な画像を撮ってSNSに上げるということも、彼女の母親はやっていた。俺は……本当に、気づけていなかった。
 つまり、桜子ちゃんは。
 学校で性的暴行を受け、母親に援交をさせられ、妊娠して自殺した。

 桜子ちゃんの葬儀の日。泣いているクラスメイトがふたりいた。彼女のクラスの代表委員と文化祭委員の子だったらしい。自殺者や犯罪者が出たせいで、文化祭は中止になるらしいけど。
 彼女がいじめられていたときには、何もしなかったくせに。ただの傍観者だったくせに、彼女が自殺したら泣くのか。直接いじめていたわけではない、ただのクラスメイトに対してさえ腹が立つ。
 何の役にも立たなかったのは、俺も同じなのに。彼女の自殺を止められなかったのは、俺もなのに。むしろ、俺の方が酷かったかもしれない。
 ……俺と付き合わなければ、彼女は襲われなかったのだろうか。性的な嫌がらせをされても、あの動画ほどに酷いことはされなかったのだろうか。
 彼女が死を選ぶ理由を作り出したのは、俺なのか。また、俺のせいなのか。俺なんかと関わったから、彼女はあんなにも傷ついたのか。
 わからない。どうすれば彼女が死ななかったのか、わからない。
 ――なんで、きみはそんなに約束を破るんだ。一緒に学校行こうって、約束したじゃん。しばらく会えなくても、俺はずっと好きだって。絶対好きだって、言ったじゃん。なんで、信じてくれないの。なんで相談してくれないの。俺は……俺は、きみにとって、どうでもいい存在だった?
 桜子ちゃんが死んだ今だって、俺は桜子ちゃんが好きだ。好きだからつらい。大好きなひとが、もうこの世にいないことが。自ら命を絶ってしまったことが、つらい。

『なあ。薫?』
「……なに、陽一」
 陽一が、俺に電話をかけてきた。きょうは何日だろう。
『学校、来ないの?』
「うん、いかない」
『ごめん』
「なにが」
『おまえのカノジョの噂、デタラメだったんだな。俺、見極められてなかった。ごめん』
「うん。うん……。でも、おまえは悪くないよ」
 陽一が、学校内外の噂に詳しい理由。噂を流すことに関しても、強い影響力を持っている理由。全部ぜんぶ、俺のせいなんだ。噂のせいで俺が傷ついたことがあるから、守ってくれようとしてただけなんだ。だから陽一は、悪くない。悪いのは、救えなかった俺だ。
 彼女の葬儀の何日か後。久しぶりに学校に行った。担任から電話があったから、仕方なく。人と関わりたくなくて、俺は登校拒否になっていた。授業を受けても何もわからないまま、午前が終わって昼休みになる。現在高校の屋上は封鎖されているから、彼女が立っていたはずの屋上の真下、四階へと向かった。窓から外を眺めて、彼女が死ぬ場所を変えた理由を考える。そして、察してしまう。
 大学の最上階から飛び降りれば即死できることは、彼女だって、わかっていたはずだ。それでも彼女は、そうしなかった。飛び降りた場所からして、彼女が最後に見た光景は。この場所で死ぬことにした理由は。
「……ああ、そっか」
 ここから見えるのは、中庭だ。彼女と何度か一緒にごはんを食べたベンチが見える。俺らがよく昼休みに行っていた、デートスポットとも言える場所。そこが、ここからは見えるのだ。
 自惚れかもしれない。彼女が、最後まで俺との思い出を胸に抱いていたかもしれないなんて。彼女が襲われる前、彼女の母親が家に帰ってくる前、まだふつうのカップルとして仲良くしていた俺らが過ごした場所を、最後に見ていたかもしれないなんて。

 彼女を助けるには、きっと、彼女をもっと前から知らなければならなかった。特に母親との間の問題は、深刻で長年続いていたようだった。
 ――俺が彼女に来世を捧げると、この世界は十三ヶ月前に巻き戻る。
 十三ヶ月前、まだ中学三年生の桜子ちゃんに、俺は会うことにした。
 制服のポケットから、桜のヘアピンを取り出す。桜子ちゃんの〝宝物〟であり、過去改変治療法の契約の〝証〟でもあるこいつの花びらは、やり直せる回数のカウンターになっている。今の花びらは四枚。今の世界を合わせて、俺らの行ける並行世界は、あと四つ。
 ――さあ、今度こそ……!
 そうして俺は、再び来世をひとつ彼女に移植して、時を巻き戻った。
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