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〇章 花泥棒先輩と嘘

もう一度、きみに命が戻るなら

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  12月24日

「わたし、ブッシュドノエルって初めて食べましたっ」
「美味しい?」
「はい! 幸せなカロリーを感じます……!」
「ふふ、桜子ちゃんは今日も可愛いね」
 県内で起きた通り魔殺人事件のニュースを流し見ながら、桜子と先輩は、朝っぱらから豪華なクリスマスメニューを食べた。ローストチキンにフライドチキン、ポテトいっぱい、ワインのふりしたブドウのジュース。切り株を意味するチョコレートケーキには、ちょこんと座った砂糖菓子のサンタクロースとトナカイさん。
 さく、と軽い音を立て、桜子は砂糖のサンタを食んだ。頭を失くしたサンタさんをフォークの先で転がし、粉砂糖の雪屑を戯れに突っつく。
 ――今日、わたしは、花泥棒先輩に「付き合って」って告白する……!
 シミュレーションは、ばっちりだ。頭の中で何度も何度もロールプレイングした。もう告白したと錯覚してしまいそうなくらいに。めらめらと燃える瞳で先輩を見れば、彼の美貌が放つ眩しさに、桜子の幸福は焼き増されるようだった。
 ――わたしの好きなひとは、やっぱり最高! 大好き!
 今日の花泥棒先輩の恰好は、グリーンとブラックのチェック模様をしたワンピース。頭には、ミルクティー色をしたロングヘアのウィッグをかぶっている。
 文化祭でメイドさんの恰好をしてから、可愛いお洋服の魅力にハマったのか。秋冬の先輩は可愛い恰好をすることがよくあった。先日のショッピングの時もスカート姿だった。
 今日の桜子と先輩も、ぱっと見なら、女の子ふたりのお出かけに見えるだろう。

「じゃあ、行こうか、桜子ちゃん」
「はい、先輩」
 王子様や騎士様のように手を差し伸べる先輩は、可愛い恰好をしていても、かっこいい。
 ――わたしは、あなたに恋をしている。
 だから、こんなにも素敵に見えるんだろう。彼のことも、何もかも、世界のすべてが。
 ――あなたに出会ってから、何度、生まれてきてよかったと思えたことか。
 今まで一度も感じなかった悦びを、桜子は、花泥棒先輩のせいで知ってしまった。
 ――あなたのせいで、わたしは、もう、この世界を憎めない。
 どんな運命が、この先に待っていても。苦しいことに見舞われても。
 もう、こんなにも、愛してしまった。

 ジェットコースターでキャーキャー叫んで、メリーゴーラウンドできゃらきゃら笑って、
 キャラメルポップコーンをさくさく食べて、コーヒーカップでくるくる回って、笑って、
 きらきらのクリスマスイルミネーションと聖夜の光に照らされる彼に見惚れた。
「観覧車、乗ろうか?」
「うん! 乗りたい!」
 らんらんと胸を高鳴らせて、桜子は観覧車の列に並ぶ。告白は、まだ、できていない。
 ――観覧車で、告白。うん! いいね! ロマンチック!
「スマホの電源、切っておこっか? せっかくの観覧車だもん、通知音とか邪魔だし」
「! そうですね!」
 桜子は唯々諾々と、スマホの電源を切ろうと――すると「あっ」
「ん、どうしたの?」
 LIENの通知を見、電源ボタンに掛かっていた指が画面へと滑る。
「友だちからの、報告で――」にやにやと笑みが止まらない。「あのね、紗衣ちゃんも、今日、好きなひととお出かけで……告白、成功したんですって! わたしまで嬉しい!」
「桜子ちゃんが嬉しそうだと、俺も嬉しいよ」桜子に、先輩の表情は見えていない。「んじゃ、返信したら、オフにしといてね」このときの先輩の声音を覚えていない。
 ――そう、桜子は。
「はーい!」浮かれぽんちの桜子は、紗衣ちゃんと彩奈ちゃんと三人のトークルームにハイテンションなうさぎさんのスタンプを送って[わたしも告白してきます!]とのんきに宣言した。ふたりは桜子を応援してくれて、それはトークルームに履歴が残っていたので、ちゃんとわかる。

 また先輩は優雅に手を差し伸べて、桜子をゴンドラの中へと導いた。
 かち、かち、と秒針が時を刻む音が、――聞こえない。
 だって、桜子の腕時計は静音仕様で、先輩の腕時計はデジタルだったから。

 完璧だった。
 先輩の計画は、きっと、完璧だった。
 桜子が口を滑らせなければ。

「先輩……えっと……あの……あのね……」
 もじもじと手を揉んで、桜子はそわそわと肩を揺らす。緊張で、心臓が、口から出そう。何度もしたシミュレーションだとかロールプレイングだとか、ぜんぜん役に立ちやしない。
「なぁに、桜子ちゃん」今日も綺麗な先輩は、今日も嘘みたいに優しい。
「あのね……えっとね……」
 彷徨った視線は、ぱちり、彼の前髪を飾るヘアピンを見る。
 出会いの思い出が脳裏を駆ける。
 ――桜の、花びら。今日の前髪は、ミルクティーのウィッグだけど……。
 桜子も、今日は、桜の花びらのヘアピンをつけていた。先輩に結ってもらったハーフアップの髪に、桜の花飾りひとつ。真冬に桜は、ふたりだけのおそろいだ。
 ――そうだ、これだ。この話で流れをつくって……ッ!
「先輩は……そのヘアピン……なんで、毎日つけてるんですか? 大切なもの?」
「世界でいちばん大好きな子の形見だよ」
「…………そう、それは、大切ですね」きっとカノジョさんのことだった。ちょっと失速。
「うん。桜子ちゃんのヘアピンは? 大切なもの?」
 先輩が訊いてくれたので、ままよと気合いを入れて言葉を紡ぐ。
「これは……お父さんが、買ってくれたものです。四歳の誕生日。この遊園地に、家族で来て。わたしが、ほら、今、わたしと先輩がつけてるみたいな――」
 ふたりとも、このテーマパークのくまさんカップルの耳も頭に生やしている。
「キャラクターのカチューシャを欲しがったんですけど。高いからって買ってもらえなくて、わんわん泣いちゃって。そしたら、ママがわたしを見ている間にね、パパが、『桜子にはこれが似合うだろ』って、買ってきてくれたの――」
 このとき、先輩、どんな顔をしていたっけ? 
 くま耳の頭は覚えているのに、わからない……
「うちの家庭環境、先輩は、ご存じかと思いますが。まあ不健全で。わたしは家族なんて大嫌いで、死んじゃえばいいって何度も思って。パパもママも、本当に嫌いだったのに。……先輩と一緒にいたら、夢見ちゃった。もう二度と仲良くなれないって、わかってたのに。もう一度、三人で暮らせたらって、ちょっとでも願っちゃった。こんなふうに、また遊園地にも、って。――こんな四歳の頃の思い出しか、宝物なんてないのに。駄目な家族だったのに、ねえ、先輩」
 なんで、こんなに、うまく言えないの。
 きっと伝わらない拙いばかりなの。

「――好きです」
 
 彼の瞳は、桜の樹の幹の色。今は見えない彼の髪の毛は、桜の花の色。
「わたしに、家族って夢を見せてくれた、あなたが好きです。人のぬくもりを教えてくれた、あなたが好きです。花泥棒先輩のせいで、わたしったら、こんなに幸せになれちゃって。――契約のこと、わかってるけど……っ、ごめんなさい、言わせてください」
 あなたの瞳は、わたしを見ていたはずなのに。
「わたしと、付き合ってください。紫月桜子の恋人に、なってください」
 この夜のあなたの顔が、思い出せない。
 ぐらり、ゴンドラが傾いて、正面にいた彼との距離がうんと縮まる。隣になる。
 あれ? 隣にいたから覚えていないだけ? どうしてだっけ?
「桜子ちゃん。付き合ってって、恋人になって、って」
 わからないけれど、この言葉だけ、はっきりと覚えている。

「――俺が人殺しでも?」

 ゴンドラがてっぺんを回る時にキスしたカップルは、永遠に一緒にいられるんだって。
 そう言った若いママは、あの日、美しく笑うばかりで。桜子のパパとキスしてくれなかった。だから、だから、桜子の家族は、きっと、ばらばらになっちゃったんだ。
「……ひと、ごろし……?」
「俺のせいで自殺したひとがいたら、俺は人殺しかな」
「それは、先輩のせいじゃない。ぜったいに!」
 どうして〝そのひと〟が死を選んだのか、桜子は知らないけれど。
 絶対に、先輩のせいじゃない。それだけは、自信をもって何度でも言える。
 無責任な葉を、一生分の責任をとる覚悟をして言っている。
「先輩のせいじゃないよ。無理に背負わなくていいんだよ」
 彼の幹色が、揺らぐ。樹液の蜜が伝うように。雨に濡れるように。
「じゃあ、じゃあさ」先輩の声がいつから震えていたのかも、悔しいことに、わからない。
 彼のささやかな叫びを、身勝手な鼓動の音と甘い追想が掻き消してしまった。
「俺が……そういう状況をつくってしまったら、どうなのかな? それって殺人?」
「……どういうこと?」
「俺が手を出していなくても、原因をつくったのが俺なら……俺が守れなくて、俺が見殺しにして……俺は――……ねえ、桜子ちゃん」
 偽物の長いミルクティーが、頬をくすぐって。彼の匂いが間近にふわって。
 ああ、わたしは今、抱きしめられているのだな、と桜子は遅れて自覚した。
「桜子ちゃん。愛してる」
「……ん」桜子は、頷くことしかできない。
「桜子ちゃん。死なないで」
「……死にま、せん」慣れた返しも、つっかえる。情けない。
「桜子ちゃん。俺は、ずっと――ずぅっと――〝死んだ桜子ちゃん〟も、愛しているよ」
「うん」
 それは、とうに知っていることだ。彼の中から〝カノジョ〟は消えない。
 ――ああ、でも、今は。わかってくれているのかな。わたしは、違う〝桜子〟だって。
 ちょろいから、桜子は、もうそれだけで嬉しくなってしまう。あんまり馬鹿だから。
「桜子ちゃん。俺は、桜子ちゃんを追い詰めたやつを殺したくって、でも、俺も、桜子ちゃんを追い込んだひとりで。だから、もう、どうしたらいいかわからなくて、でも」
「うん」
「これは、やらないといけないことだった。――これからも、やらないといけない」
 先輩が動いて、桜子の左手をとる。ちらりと時計の文字盤を見やって、言った。
「俺は人殺しだから、桜子ちゃんに相応しい人間じゃない。桜子ちゃんに幸せになってほしくって、それでいて、俺が幸せにできる自信はない。だから、さ」
 ――一年契約で、終わろう? ――いやです。ずっとがいい。
「嘘っ子の〝お嫁さん〟で、もう、やめておこう?」
 ――四月一日に別れよう? ――別れたくない。一緒がいい。
「桜子ちゃん」
 秒針が音を立てずに時を刻んで、ゆっくりと、時間を忘れる歩みでゴンドラが行く。
 桜子の返事は。
「ねえ、先輩、知っていますか? ゴンドラがてっぺんを回る時――」
 だから、わたしは覚悟を決めて、
「――これが、わたしの答えです」
 花泥棒先輩に、キスをした。

  ***

 初めて触れたつもりの唇は、まったく初めての感触じゃなかった。
「…………薫、くん?」わたしは彼を知っている。知っている。
「桜子ちゃん。……思い出しちゃった?」
 禁じられた呼び方が、この唇にしっくりと馴染んでいた。
「あっ、あ、薫くん?」記憶が一気に流れ込む。それが怖くて唇を噛む、のに、彼からのキスに邪魔されて痛めない。逃げない逃げれれない。こわい。怖い。「あれ? なんで?先輩、花泥棒先輩、かお、薫、先輩、薫くん?」わからない。怖い。こわい。こわい!
「大丈夫だよ。桜子ちゃん。――大丈夫」
 てっぺんを超えて下っていくゴンドラの中、先輩は何度も何度も桜子に口づけた。
 黙らせるように。解くように。彼女の「怖い」を吸うように。執拗に。
「あぅ、はっ、はふ、かお、る、く、ん……あっ、せ、んぱい……っあ」
「桜子ちゃん。大好き」
 箍が外れたようにキスの大雨を降らせた先輩は、「また付き合おっか」と透明に笑った。
「……うん」桜子はなにもわからない。わかんないけどもういいや。「わたしも、好き」
 大丈夫。大丈夫。俺は花泥棒先輩で、桜子ちゃんは紫月桜子ちゃん。
 その言葉を子守歌に、桜子は帰りの電車で微睡んで、無防備に無神経に目を閉じた。
 
 ふたりとも、ふたりの契約の条項をいくつも破った。

  ***

 スマホの電源を入れたのは、お家の近所のコンビニ前でのこと。
「あ、紗衣ちゃんたちに、報告しなきゃ!」
 先輩の腕に掛かったレジ袋には、特大号の結婚情報誌が入っている。桜子が可愛くおねだりして買ってもらったものだ。表紙の女の子が纏ったウエディングドレスはセクシィなデザインで、付録にハート柄の婚姻届がついている。なんとも素敵な雑誌!
「ん」と先輩は優しくやさしく返事して、桜子の空いた手をぎゅっと握った。
 この日のことを、きっと、桜子は永遠に忘れ得ない。

『――紫月すみれさんのご家族でしょうか?』

 ぴかりと明かりを灯したスマホさんは、けたたましく鳴って、警察からの電話を繋いだ。
「はい、娘ですが……」こんな応酬だった、と記憶している。
 たとえ違っても、どうでもいい。決定的な過去は覆らない。

 ママが死んだ。
 パパが死んだ。

「……え?」紫月家のアパートで、ふたりの遺体が見つかった。
 かつて夫婦だった母と父は、久々の喧嘩をして、不運にもお互いを殺しちゃったようだ。と。今のところの警察さんの見解は、まとめると、そういうことだった。
「……え? え?」
 大好きなひとの恋人として認められた日、彼女は両親を喪った。
「なんで――?」
 どうして離婚したママとパパが一緒にいたの? なんでママとパパは死んじゃったの?
 ねえ先輩どうしてどうしてママとパパが死ぬってどうしてどうしてどうしてどうしてな
「――大丈夫だよ。桜子ちゃん」
 桜子の源が世界から消えたというのに、先輩は変わらなかった。なんにも。まったく。
 崩れ落ちた桜子に代わって平然と警察と話して、事情聴取は明日にと予定をつけて。
「お風呂はいって、歯磨きして。あったかくして寝ようね」
「……うん」
 どうしてか両手が震えて震えてコートのボタンも外せない桜子だったから、先輩がお世話をしてくれた。裸を見られるなんて恥ずかしいのに羞恥心なんてどこかに飛んで、先輩と初めて生まれたままの姿で一緒にお風呂した。
「桜子ちゃん」
 先輩に抱きしめられて、ママともパパとも違う体温の胸の上で、桜子はさめざめと泣いている。どうしてこんなに涙が出るのかわからない。
 悲しくは、ない。だって、どうしようもない両親だった。そうだ、悲しくはないんだ。何度も死んでくれと願った親なんだ。お互いに何度も死を願ったはずだ。あいつらの死で胸が空っぽになるなんて、そんな錯覚は、おかしい。オカシイ。涙なんて、もう出るな。
 ――ママの方が、わたしに何度も「死ね」って言ったのに。ママが先に死んだの?
 まだ三十代だ。死ぬような歳じゃない。今日も美しいはずなんだ。
 ――パパは田舎に帰って、もう十年以上もわたしは会ってないのに。ママとだけ?
 わたしの方が、わたしだって、わたし、わたし、わたし、わたし、

  12月25日 父母の遺体は、おそれていたよりもきれいだった。
  1月1日 葬儀が終わって、桜子のママとパパは灰になってしまった。
  1月5日 両親がいなくなっても、日常はなにも変わらない。――三学期スタート!

  2月14日

 花泥棒先輩と桜子の男女交際は、気持ち悪いほどに順調だった。
「ねえ、桜子ちゃん」
「うん……?」
 今日も仲良く一緒のベッドで眠って――眠……あれ? 先輩が隣にいない? なんで?
 ああ、わたしの上にいるからだ。まるでお馬さんに乗るみたいに。
「――一緒に死のうか、桜子ちゃん」
 日付が変わったばかりの深夜、先輩は桜子の首に手をかけた。
「……なんで?」寝ぼけた頭で、桜子はじわじわと酸素を失くしつつ返す。
 頭がちかちかして、苦しいのに気持ちよくって。
「今日が来るのが、怖いから……きみを殺されたく、ないから……」
 言って、先輩はめそめそ可愛く泣いた。頭でも頬でも何でもいいから撫でてあげたいのに、桜子は腕に力が入らない。上がらない。また、あなたに、ふれられない。
「きょうは……もう、きてるでしょ……?」
 しわしわに掠れた可愛くない声で、窒息寸前の桜子はのんきに返した。
 〝明日〟が来るのが怖いなら、わかるけど、
 〝今日〟は、もうわたしたちに追いついてしまっている。
 ――ああ、
 ママやパパにこんなことをされた記憶はないのに、懐かしい。
「…………まだ、死にたく、ない、よ……かおるくん」
 寝言の調子でふにゃふにゃと言えば、先輩は手の力をサッと失くした。
「ッぐ」冷たい空気が一息に喉を駆け抜けて、けほけほと桜子は咽せてしまう。
 首を絞められていたまさにその時よりも、解放された今の方が万倍も苦しかった。
 そして彼に触れていないことが、触れられないことが、たまらなく悲しい。
「あっ、あ、ごめ、ごめん、桜子ちゃん……っ、だ、大丈夫? 息できる? 平気!?」
「んぅ、らあ、だぃじょうぶ……」
 回らない舌で応えて、回った目で彼を見て、鉛の重い手で彼の頬を撫でれば。熱い雫がほろほろりと指を伝った。先輩は、まだ泣いている。泣いている。
「ごめん。ほんと、ごめん、ごめんね……ごめん……」
「んーん、いいよ」
 いわゆるDVとは違って。なんというか、これも一種の愛情表現だと桜子は解いている。
 ――だって、先輩の手は、首を絞める時さえ、優しかった。
 死の匂いを感じる触れ合いですら、先輩のそれは、両親の手よりも、あたたかい。
 桜子は、彼に溺れている。終わりの迫る幸福に喘いで、目を閉じている。
 ――あなたが、人殺しでも、好きだから。
 その想いは変わらない。変われない。

「じゃあ、いってきます。桜子ちゃん。死なないでね」
「いってらっしゃいませ。花泥棒先輩。ええ、死にません」
 晴れて恋人になった桜子と先輩は、その日、初めてのバレンタインデーを迎えた。
 クリスマスイブのキスで蘇った記憶によれば、本当は初めてではないけれど。難しいことには蓋をした方が楽になれる。両親のことも記憶のことも、考えない方が楽なんだ。
『なにも思い出さなくていい』
 って、先輩も、言っていたことだし。知らないままが幸せだ。
 雪美さんとお留守番をしていた桜子は、先輩のためにチョコレートをつくった。
 トリュフにタルトにチョコプリン、ガトーショコラに素敵なオペラ。
「先輩、遅いですね」
「ん、遅いねぇ」
 のんびりはらはらと待っていた今夜、先輩は、初めて、明日も帰ってこなかった。

  2月15日

 花泥棒先輩が、暴行事件に巻き込まれたとのこと。
 雪美さんが警察や病院から連絡を受けたのは、夜の一時を過ぎた頃だった。
 また女の子の恰好をしていた可愛い先輩は、不良グループに目をつけられ、倉庫に連れ込まれ、女でないとわかるとぼこぼこに殴られて蹴られて傷ついてしまった。――らしい。

「桜子ちゃん、やっほー」
「せ、せんぱい!」
 お見舞いに駆け駆け、病院についたら、――その美しい顔には傷ができていた。
 左の瞼は切れてテープで止まって、頬はガーゼで覆われて、唇は青黒く腫れている。
「っ、せんぱい……せんぱい、せんぱい」
「ぜんぜん大丈夫だよ。痛くない」
 これが嘘なのか本当なのか、桜子には、わからない。
 雪美さんがまた彼にデコピンをして、先輩はわざとらしく「痛ぇっ」と額をさする。
 見慣れた光景に、桜子は、なんだか目の奥が熱くなってまた泣いた。
 このふざけた笑い方が、お姉さんの前でする彼の甘え方が、どうしようもなく、好きだった。すこしだけ子どもっぽい姿が、ひどく愛おしかった。
「あとちょっとでしょ、薫。――がんばれ」
「うん。ごめん。――ありがとう。姉貴」
 うるうるの瞳で景色をなくしても、雪美さんと先輩の話す声だけは、鮮明で。
「ねえ……桜子ちゃん……わがまま言っていい……?」
「なぁに、せんぱい」
「ちゅー、して?」
 口の端の小傷は塞がって、流れた血はとうに止まっていたのに。
 青と黒の血は内側から破れて湧いて、こちらに届きやしないのに。
「ん。してあげる。――目、瞑ってください?」
 この日の先輩とのキスは、病院の薬っぽい匂いと、ほのかな血の味がした。

  3月1日

「お誕生日おめでとう。十六歳の桜子ちゃん」
「ありがとうございます。先輩。おかげさまで、結婚できる歳になれました!」
 平成の今は、女は十六、男は十八から結婚を許される。
 その日、紫月桜子は、大好きなひとのお嫁さんになる未来を夢に見た。

 十六歳になったハッピーバースデーな桜子は桜子の部屋の仏壇でパパとママにご挨拶をして「いってきます」と彼と手を繋いで学校に行って教室に入ると紗衣ちゃんと彩奈ちゃんからも「お誕生日おめでとう!」と祝われて楽しくて楽しくて学校ではバレンタインデーの事件の噂に尾ひれがついたおかげで花泥棒先輩は男に襲われて不能になったということにされているから今日の昼休みも先輩は他の女の子を抱くことはなくて桜子と一緒に彼女がつくったお弁当を食べてくれて中庭のベンチでこっそりキスをしたら放課後は紗衣ちゃんと彩奈ちゃん主催の教室プチパーティーで三人でカップケーキを食べてそれから図書室で陽一と待っていた花泥棒先輩をお迎えに上がって陽一とは校門でバイバイして桜子と先輩は手を繋いでふたり暮らしの家に帰って「ただいま」を言って夜ごはんは出前のお寿司をとっておっきなケーキも食べて先輩は桜子の十六歳のお誕生日プレゼントにはホットピンクのパパラチアサファイアが光るネックレスをくれた。

「……花泥棒、先輩」
 胸元に彼からの贈り物を輝かせ、負けない光を宿した瞳の彼女は、彼を見つめる。
「なぁに、桜子ちゃん」
 傷痕の残る彼の頬を慎重に撫で、彼女は彼の耳たぶをつまむ。耳輪を撫でる。
「わたし、もう、十六歳になりました」
「ん。そうだね。おめでとう」
「先輩が童貞をなくしたのも、十六の時ですよね」
「なんで知ってるの?」
「わたしの情報網を舐めないでください」
「ああ、陽一か」
「……。……もう、十六歳、だから」
「うん」
「もう、ほんとうのカノジョだから」
「うん」
「わたしとも、セックス、できるでしょ――?」
 四月一日に終わる一年契約は、もはや形骸化している。
 花泥棒先輩は桜子と毎日キスをするし、ふたりはもう正真正銘の恋人だ。
 ――キスも、セックスも、しないこと。
 そのルールに、今さらなんの意味があるというのか。
 ――それに、
 クリスマスイブの記憶によれば。
 桜子の十五歳のお誕生日に、桜子は、彼とファーストキスを交わしていた。「キスして」ってお願いしたら、十五歳になったご褒美に、薫くんは唇を奪ってくれたんだ。
 ――だから、
 十六歳の今年は。これだって、許してくれたって、いいじゃない?
「……桜子ちゃん、は」
「うん」
「桜子ちゃん、とは…………できない、かな」
「……なんで? 不能は噂だけでしょう?」
 ぼこぼこにはされたけれど、男として不能にはなっていない。
「なんか……その……違うんだ」
「なにが?」
「桜子ちゃんは、違う」
「どういうこと」
「俺がセックスしようって思える相手じゃないってこと」
 言いづらい自覚はあったのか、淀んだ後、彼は一息にそう告げた。
 嫌なことはさっさと終わらせたい、そんな感じで。
「……なにそれ、意味わかんない」
「ごめん」
 花泥棒先輩のことが、もう、わからない。
 わからない! わかんない! わかんない!!
「なんで? 他の女の子とは、いっぱいシてたじゃん? なんでわたしだけ、付き合っても、ほんとうのカノジョになっても駄目なの……? もしかして、わたしたち、ほんとうは、付き合ってない? 冗談だった? 嘘だった? ただの遊び?」
「付き合っては、いるよ。桜子ちゃんは俺のカノジョさんだよ。でも、まだ――」
「わたしだけ抱かれないって、女として見られてないかもって。その不安、モテる先輩にわかる? わかんないでしょ。契約だからって我慢してたけど、もう先輩だっていっぱい破ったじゃん。キスはしたじゃん。いちゃいちゃしたじゃん! そしたら、もう、わたしの欲だって止まれない。――ねえ、なんで? なんで、セックスはできないの?」
「桜子ちゃんが、大事だから」
「愛してるなら、シてよ」
「愛してるから、できない。――ごめん」
 ――なにそれ!
「…………ッ、もう! せんぱいのことなんて、知らない!」
 ぷいっとそっぽを向いて、桜子は、全速力で玄関へと駆ける。が。
「――ぅあ!」
 先輩は桜子を難なく捕まえて、廊下の壁にドンってした。
「桜子ちゃん。なあ、逃げないで」
 先輩の広い背中が、向こうの鏡に映っている。彼に壁ドンをされている。
 ――でも、シないんでしょ!
「桜子ちゃんが、いなかったら、俺、また、眠れない……」
「やっぱり、わたしはお薬代わり? 死んだカノジョの代替品?」
「桜子ちゃんは、そんな、モノみたいなんじゃない……!」
 先輩が桜子の胸元に顔をうずめて、深く息を吸う。このまま脱がしゃーいいのに!
「……せんぱい」
「ん」
「昔は、前のカノジョの話なんてしなかったのに。昔は、わたしだけを見てくれたのに」
 これは、クリスマスイブに蘇った記憶のこと。
「……わたしが、忘れちゃったから? あなたと付き合ってたこと、なんでか、忘れちゃったから……こんな復讐みたいなことするの? どうして、わたし……あの日まで――」
 見ないふりをしていた、過去。――桜子は、中学生の時も、彼とお付き合いしていた。
「おかしいのは、わたし? もう、わたし、自分で自分がわからない……」
 四月七日に出会って、一年契約を結んで。桜子は、知らない桜子の代わりに彼と一緒にいた。それなのに、彼の語った桜子は、どうやら桜子自身だった。
 彼は勝手に昔の桜子を死んだことにして、過去の桜子は故人だと桜子に言い聞かせて、騙して、今の桜子宛に無意味な役をつくった。お嫁さんだとか、義妹だとか。
「わたしが記憶喪失なんだって、ちゃんと教えてほしかった」
 きっと、彼にだって、事情はあったのだろうけれど。
「もういないって、死んじゃったって、わたしは死んでないでしょ! ここにいる!」
 この時の桜子は、ぜんぜん知らなかったのだ。この世界に、並行世界があるなんて。
「わたし……、わ、わたし、わたし……」
 これは、まだ世に出ていない、不完全かつ秘密の方法。
 過去改変治療法。またの名を、やり直し療法。
 きっと――、桜子は、なにも思い出してはいけなかった。
「あ、あはは……何、言ってるんだろ、わたし……。せんぱい……わたし、なんか、寒くなっちゃった……あはは、ココアでも飲みましょうか? わたし、いれますよ」
「うん。そうしよっか……ごめん……うん。お願いするね。桜子ちゃん」
 ――ごめんね。先輩。
 彼のお部屋の引き出しから睡眠薬をくすねて、桜子は彼のマグカップに薬を入れる。
 ――一日だけでいいから、ひとりでいさせてね。
 先輩は桜子を疑わないでココアを飲んで、ふたりは歯磨きをしてあったかくして。
 いつもの白いベッドに身を投げた。

 かち、かち、と秒針が時を刻む音がする。

「いってきます」
 小声で言って、桜子は、ひとりで玄関の框をおりた。
『実家に帰ります』なんて、いかにもな書き置きをして、ふたりの花咲家をあとにした。
 ――ひさしぶりだ。こうして、ひとりで外を出歩くのは。
 彼と一年契約を交わしてから、桜子は、ひとりの時間をまったく失っていた。
 いつも寂しい人生だったから、この一年間は、とても華やかで楽しかったものだ。
 ――先輩、心配するかな。ご迷惑かな。もう、嫌われちゃったかな。薬も入れて、家出して。最低のカノジョだよね、わたし。せっかくの誕生日に。
 がたんごとんと電車に揺られて、桜子は紫月家の最寄り駅に――「あ。」
 そこで思い出した。もう、帰れる家なんて無いことを。紫月家なんて、ないことを。
 ――そっか。ママが死んだ時、アパートは、解約したんだっけ。
 言われるがままに手続きを進めて、桜子は、そういえば、彼とのマンションに住民票も移していたのだった。
 そう、気づいた途端に孤独が身に染みて、もう先輩のところに帰ろうかな、と思いだす。なんとも甘っちょろい家出だった。
 ――あの日、どうして、パパとママは死んだのか…………
 事件現場の紫月家には、まるでパーティーをするかのような用意があったという。
 クリスマスオードブルのお惣菜に、ケーキとワイン。酒瓶のいくつかは割れていた。
 あの日、紫月家にあったお酒は、ことごとく度数の高いものだった。
 あの日、紫月家のテーブルには、フルーツと果物ナイフがあった。
 あの数日前、花泥棒先輩は、またひとりでどこかに出かけていた。
 あの数日前、花咲家には、ナイフのパッケージだけが捨ててあった。
 ――まるで、わたしが推理するのを望んでいるかのように。
 酒癖の悪い両親は、悪酔いして喧嘩して瓶を投げて殴ってナイフを刺して相手を殺った。
 死亡推定時刻に桜子と先輩は遠くの遊園地にいて、アリバイは誰がどう見ても崩せない。
 ――先輩は、法に裁かれる殺人犯じゃない。だけど……。
 と。その時。
「こんばんは。紫ノ姫」
 シュッと左腕に熱が走って、「ぇへ」と桜子は間抜けな声を漏らした。
 ぱたぱたと雨の降り始めのような音がして、アスファルトが赤に濡れる。
 ――あれ? 生理? え? 今!?
 と見当外れに焦ったのは、先輩が桜子を抱かない理由に正当性を持たせたかった、無意識の心の動きだったのかもしれない。ぱたぱたぱたと止まらない落血に、肝が冷えていく。
「育ちの悪い子は、上級生にご挨拶もできないのかしら」
「あ、こんばんは。青柳先輩――? え?」
 つくり笑いで応えると、頬のすれすれを銀色が掠った。
「へ?」ぱらぱらと髪が落ちて、落ちて、桜子はようやく理解する。――頬が、熱い。
 ――切られた? お顔と腕……切られた?
 前に先輩が選んでくれた上着の袖が赤く染まっていて、お相手の腕には銀色のナイフ。
 ――あれ? どっち?
 桜子は、ぼんやりと考える。逃げて、駆けて、地に赤い痕を残しながら考える。
 ――偶然か、必然か。あれは、ママを殺したナイフと同じ銘柄だ。
 ママのナイフは、ママがナイフを、ママは、ママは、
 ――ママがナイフでわたしを切った。
 ぐらり、転びかけた拍子に、桜子の記憶の蓋が開く。
 ――わたしは、ここに、前にも傷を負ったことがある。
 感覚が、被る。フラッシュバックする。
 ――あれ? わたし? ほんとうに死んでる? 死んだ? あのとき、死んでた?
 桜子は、前に、学校の屋上から飛び降りたことがある。

「――桜子ちゃん!」
「『花泥棒先輩?』せ『薫くんっ!』ん『薫先輩。』ぱ『花咲先輩……』い?」

 すべてがスローモーションに見えて、彼のぬくもりにほっとして、血の匂いがふわって。
 振り向いた先には、倒れた自転車と、女と。お腹が赤く染まった先輩が、いた。
「――……っ、さくらこ、ちゃん、……だいじょうぶ?」
「せ、せんぱ、せんぱい、かおるく、かおるせんぱい? はなさき、せんぱい?」
 バグったように間違った呼び名がこぼれて、正しい契約の名を呼べない。
「桜子ちゃん。――死なないで。明日も、生きて、て……」
 ――ああ、そうだ。なんで、わたし。
 気づかなかった。今夜のベッドで交わした言葉が、いつもと違ったこと。
『桜子ちゃん。大好き。明日も、生きててね』
『はい。死にません。わたしも大好きです』
 どうせいつもの儀式だと流した。聞かずに流してしまった。
 ――三月、一日。紫月桜子は、彼と彼女の隠した真実を思い出す。
「ねえ、花泥棒先輩――? わたしって、ほんとうは、もう、」
「桜子ちゃん」
 先輩は「生きててよかった」とあたたかく云って、彼女を抱きしめ、目を閉じた。
「……だいじょうぶだよ。桜子ちゃん。だいじょうぶ。――愛してる」
 ナイフが刺さったままの先輩からは、生命の赤がしとどに濡れ流れて。
「せんぱい…………?」

 もう二度と、あなたが目を覚まさないとしたら。
 もう二度と、わたしは死を選んだりしないから。
 だから、だから、

「――花泥棒先輩。わたしはね、」

 眠る先輩の透明な息に口づけ、桜子も、彼のぬくもりに触れて目を閉じた。
 そうしてふたりは、ただ、ただ、明日を願う。

 彼女の明日を。彼の明日を。

 ――もう一度、きみに命が戻るなら。俺は誘拐犯にだって、人殺しにだって、なれる。
 譯懷ュ舌?荳画怦荳?譌・縺ョ闃ア豕・譽偵?蠢?r遏・繧翫◆縺??


       ―― 〇章 花泥棒先輩と嘘 Fin
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