10 / 20
第二話 天正三年蹴鞠の会の巻 その二
山科権大納言 清涼殿
しおりを挟む
山科権大納言
天正三年(一五七五)六月。夏の陽射しが京人の肌を漏れなく焦がした。
同洞城の戦から十年の後に、信長は天下に指を掛けた。
京の町を支配下に置き、御所のすぐ真北にある相国寺を宿所とし頻繁に顔を覗かせた。時の正親町天皇も気が気ではない。
応仁の戦乱で疲弊した伽藍も信長からの多大な寄進で輝きを取り戻し、いたるところに白木の芳香が満ちていた。長廊下の先の書院から熱の籠った話し声が聞こえる。
「是非とも、東宮主催の蹴鞠ノ会にお越しくださいませ、帝(正親町天皇)も切にお望みでございまする」
山科言継は嫡男の言経を伴って、信長に懸命の言上をしていた。
向かいに座る信長は青筋を浮かべ、無表情で脇息にもたれている。周りには織田軍団の有力武将と織田家の重責を担う吏僚らがひしめき合い、奥の書院の空気を重くした。
近習、馬廻りは、開け放たれた次の間に控えて客人の一挙一動を見守る強い視線を送っている。牛一も見逃すまいと得意の遠目を凝らし、必死に背筋を伸ばした。
「戦続きで疲れておるのじゃ、お屋形さまは。それをなんと力押しだわ、……大丈夫かな」
清蔵が小声で、隣にいる牛一に囁いた。暢気に聞こえるが、心底言継を案じているのがよくわかった。
「なあに、そこが権大納言山科さまたる所以じゃ。まあ見ておれ、案ずることはない」
牛一は微笑を浮かべて慰めの言葉を掛けた。
「弾正忠さま、堂上家の錚々たる顔ぶれが揃い、豪華絢爛たる装束で雅びな蹴鞠が行われます。これは見物でございますぞ」
大きな張り声に眉を潜める柴田勝家らの武将は言継を睨んだ。対して吏僚の武井夕庵や村井貞勝は心配顔を向けた。京都を守る吏僚にとって織田家の衣紋道指南を任じる言継は禁裏への大切な足掛かりなのだ。
「そうか、見ものであるか」
応えた信長の声音に抑揚がない。
次の間の清蔵は「ほら」とばかりに牛一に顔を向けた。
「言わんこっちゃない。お屋形さまは全く興味がないぞ」
「いや、そうでもないぞ」
応える牛一は、信長の鼻の穴が広がるのを見逃さなかった。
「雅びが、公家が、と声高に言ったとて我らに金も権勢もございませぬ。近年これほど大掛かりな蹴鞠ノ会などとんと開き申さぬところ。それを何ゆえ無理を押してまで催しまするか……」
信長はその言葉に頷き、黙って言継を睨みつけた。座が水を打ったように静まった。
若い言経は、半眼に動く信長の黒目に押さえつけられて身を反らしたが、言継は動じる風もない。
「――ひとえに、天下の権を握り奉るお屋形さまに誼を通じたきゆえにござりまする」
家中でも剽軽者で通る秀吉が独り声を出して笑った。光秀が咳を上げると、秀吉は慌てて誤魔化した。
「猿めが……」
信長は呟くと、黒目だけがすうっと秀吉へ向かった。諸将のざわめきが聞こえる。
「あら~、言っちゃった。本音」
隣の清蔵が思わず零した。牛一も深く頷き同意した。秀吉も言継も遠慮がない正直者なのだ。
お上である正親町天皇は官位を与えたり、催しものに誘いを掛けたり、信長の取り込みに必死だ。並の武将であれば歓喜して動くところだが、信長には通じない。
「しばらくほっぽといたら織田家衣紋道指南役のご老体を引っ張り出しおった訳だ」
「とっつぁんはもう六十八ではないか、お労しや。正親町天皇もお屋形さまには気を使っていなさる」
「これ、声が大きい」
清蔵は大袈裟に口を閉じた。
「先年、尾張下向の折、先代の萬松寺(織田信秀)さまをはじめ、権六(勝家)さまにも蹴鞠の手ほどきを致したもの……」
言継は目敏く勝家を見つけて微笑んだ。初めての尾張訪問は天文二年(一五三三)の話だ。勝家は元服したか、しないくらいの鼻たれ小僧だ。
髭面の勝家は、ばつ悪そうに下を向いた。
信長とて生まれる前の話だが、勝家の顔を見て、扇子で口を押さえて「ふっ」と笑いを漏らした。
「したが、弾正忠さま、もはやいけませぬ。某は歳でござる。足腰が立ちませぬ。かつての華麗な足捌きお見せできませぬ……ううう」
言継は態とらしく涙ぐんだ。笑みを零した信長も今さら威厳を取り繕う様子は見せなかった。言継の流れに吸い寄せられた。
「それは残念至極」
信長の顔に赤みが戻り、声に張りが出ていた。
透かさず言継は顔を上げ、信長を睨みつける。
「だが、ご懸念には及びませぬ。ここにいる我が嫡男、参議の長松(言経)が、山科流直伝の蹴鞠を習得しておりますゆえ、何卒、何卒ご照覧下さりませ~」
声を張り上げ、親子揃って平伏した。見事な話の流れだ。小川の急流を笹舟が軽やかに乗り切った感がある。やんごとなき古狸はなかなかの役者だった。牛一は顔を伏せて頬を綻ばした。
言継の二度目の下向が永禄十二年だ。六年前になる。織田家二代に亘る永の交誼があった。信長も心なしか頬が緩んでいる。
「相わかった。――又助! 又助はあるか」
信長は突然顎を上げた。何ゆえ呼ばれたのかわからない。
次の間に控えていた牛一は慌てて立ち上がった。
「は、これに」
「蹴鞠ノ会の記録を取れ。出席者、装束、陣形のすべてを……。見物だそうじゃ。権大納言とよく図って準備を致せ」
話を終えた信長は、言継らの接待を貞勝に命じて席を立った。
奥廊下に下がる信長の後に牛一は足早に従った。薄暗い廊下を歩む信長は牛一へ振り向くと呟いた。
「権大納言の頼みでは断れぬわ」
牛一を見たまま、何かを思い出したように信長は微笑んだ。
清涼殿
――ポーン、ポーン。
乾いた音が牛一の耳に心地よく響いた。
鹿革の鞠が気持ちよさそうに青空に吸い込まれていく。京都御所清涼殿の甍は陽射しを跳ね返し白く光っていた。
蹴鞠ノ会は雲ひとつない七月三日、巳ノ正刻(午前九時頃)に催された。
信長は馬廻りと小姓の六名の供だけで参内し、孫廂の濡れ縁に設えた座より掛け声のする庭を見ていた。牛一は南角の落板敷に言継と座って全体を見渡していた。
(な、なにゆえ清蔵がおるのだ?)
供揃えの中に厳つい顔の清蔵がいる。風雅とは縁もゆかりもない猪武者の代表だ。
一回目は黒戸の御所の北庇の庭で行われた。黒戸の御所とは清涼殿北側の、滝口の戸の西にあった細長い部屋で、竈を設えて薪の煤で黒くなった故事に由来する。
庭に設えた懸(競技場)の四隅に一丈五尺(四・五メートル)の柳、桜、松、楓が植えてある。蹴り上げる鞠の高さの目安にするためのものである。その四方に二人ずつ八人の鞠足(選手)が鞠を蹴る。
「今いる鞠足が左手より、庭田重道、三条西公明……」
その都度、陣形、鞠足を言継が牛一に教えてくれた。
牛一は、黙って頷き、瞼を緞帳のように閉じては眼窩の奥に刻みこむように覚えている。
「御所清涼殿においては墨硯の用意は出来かねますぞ」と心配する言継に、「なに、大丈夫でございます。記憶して後ほど書き留めますゆえ」と応えていた。
ましてや風雅に憧憬を持つ牛一は、飛ぶ鳥の一羽さえ見逃すまいぞと意気込んだ。
鞠足を変え、その都度競技が行われた。
「風向きが変わり、強くなりましたゆえ、東庇の庭に御移動願い奉ります」
審判役公卿の声が響いた。
信長をはじめ一同の顔が一斉に向きを変えた。
新たな鞠足八人が一座を作っての蹴鞠を始めた。手慣れたものである。風向きに会わせる繊細さに牛一は感心した。
ポーンとよい音が響くと、鞠は軽やかに舞い上がる。すると均等な間隔で音が続く。雅楽を聞き、舞を見るような心地になった。
「蹴鞠道とは、鹿革の鞠を足で蹴って地に落とさず、さりとて手を使わずに蹴り続ける。雅な装束を軽やかに纏い楽しむもの。むろん勝ち負けは無い。相手に蹴りやすい鞠を蹴り渡す者が良い鞠足とされております」
言継は牛一を覗き込むように話しかけてきた。
上手の鞠足が蹴る。言継は透かさず名を告げた。
飛鳥井流の名手、飛鳥井雅敦と記憶した。
「うむ、美しい……良い鞠足は、一座(八人)の調和を作る統率者の趣を見せますね」
見惚れて呟く牛一の顔を見て、言継は白い歯を見せた。
「ほう~、わかりますか? ……又助どのは武将顔と言うよりも公家顔じゃな。雅びの心がようおわかりじゃ」
「滅相ものうござる。殿上人の優美、気品、風雅……何一つとっても、人として足元にも及びませぬ」
「人として? ふふ、何一つ変わるところなどござらぬよ」
庭の懸から歓声が立ち上がった。
華麗な足さばきを見せる一座の『あり』『やっ』『おう』の掛け声が凛々しく響き、観覧者の拍手と歓声を引き起こす。
一座の何人かの鞠足が変わるたびに、
「今、代わられたのは甘露寺経元。あの者の心根や善し。次は高倉永相」
牛一は古式に則った蹴鞠にただただ見惚れ、唸るばかりだった。
蹴鞠をする美しい若者の姿が目についた。まさに蒔絵から飛び出した煌びやかさを纏っていた。
色白く切れ長な目に、細い面差しの貴公子は、雅な装束を風に靡かせている。細いうなじは女子に見間違うほどだ。
耳元に言継の声が聞こえた。
「水干、色は紫、染色、葛袴。中院夜叉松麿、諱は通勝。昨年参議に昇進したばかりの若者です。なにせ家格が大臣家ですからねぇ~」
次々と牛一の眼下に映る情景が入れ替わる。
言継は顔を懸に向けたままに、蹴鞠の様子に頷きつつ論評した。
「よしよし。……巧みなり。気配り上手じゃ……」
と、中には明らかに流れを断ち切る鞠足がいた。が、それも束の間。牛一は特に気にせず、蹴鞠を楽しんだ。
「未熟者め!」
舌打ちを含んだ言継の呟きに、牛一の背筋がピクッと伸びた。
何事かと言継を覗きこんだが、別段変わらぬ言継の横顔を見ただけだ。
牛一は風雅に満ちた只中にいた。
(これはお屋形さまからのご褒美じゃな)
先月、突然名を呼ばれて訝しんだ己を鼻息と共に吹き消した。
蹴鞠は続き、雅趣に富む風を運んだ。
盛り上がる観衆の中で信長は、澄まし顔でも真剣な眼差しを送った。御小姓頭、万見千千代は必死に目を凝らすが、他の近習はみな退屈そうな顔している。その一人清蔵は、目をしょぼつかせて欠伸をした。目にした牛一は、「なんじゃ、あの無礼者が……」と声にならない言葉を発した。すぐ、見なかったものとして視線を逸らした。
――ポンッ、と鞠音が響く。
「ほう、さすがは権大納言さま直伝だけございますな」
牛一の逸らした目の先に、見知りの顔があった。嫡男の言経は思いの外上手に鞠を蹴る。
「なんの、まだまだ未熟でございますよ」
「ご謙遜を、ここで見ておりましても、五指の上手に入りましょうか……」
「なかなかの目利きですな。まあ奴は真面目だけが取り柄。いまひとつ覇気がないのが心配の種……」
牛一の言葉に、言継は満更でもない顔をした。牛一は意外に思った。照れ笑いする言継は、下世話で目にする父御の顔と変わらなかった。
そうかと思えば、蹴り損なう鞠足もいた。勝手に下がって、鞠足を代わっている。
「装束も束帯、衣冠、直衣、狩衣、直垂、僧服の鈍色、水干と様々とありますが、最近は動きやすい水干が多ございます。それに色合いも重要なのです。年頃がわかりますから。……が、まあ追々お伝えしましょう」
言継が、衣紋道の溢れる知識を口にした。
事前の打ち合わせの時に、「当世の流行りは水干だ……」水洗いの後に糊を使わずに干したもので着心地が柔らかいから皆こぞって着るようになったと聞いたばかりだが、装束の色合いにまで、有職故実に細かな意味合いがあるなどとは知らなかった。
「ほう。そのようなことまで……」
奥の深さに牛一が嘆息していると、左後ろから物音が聞こえた。
「誰ぞ! 誰ぞあるか」
東宮が人を呼んでいる様子が窺われた。
いざ御用とばかりに、取り巻きが足音を立てている。
「なんじゃ、騒々しいのう。時と場を心得よ」
隣で言継は、苦虫を噛んで小さく吐き捨てた。有職故実を体現する禁裏の重鎮にしては、軽々しい若公家の振る舞いが腹立たしいのだろうか。牛一は恐々と言継を見た。だがやはり泰然と揺るがぬ言継がいるばかり。下々と違って顔変わりが早い。心の襞を出すまいとの気質なのかもしれない。
辺りは落ち着きを戻し、東宮の周りに幾人かの人が集まっているだけだ。その中から、若公家の通勝が出て庭に降りた。
牛一は気にも留めずに、再び庭の蹴鞠へ歓心を向けた。
「うっ……」
牛一は自分でも気付かぬうちに指で鼻先を弾いた。
「どうされたかの?」不思議そうに言継が笑みを寄こした。
「あ、いえ、別に」
「おう、珍しや、冠束帯の若者は……」
その張り声に誘われて、牛一も視線を庭へ戻した。
天正三年(一五七五)六月。夏の陽射しが京人の肌を漏れなく焦がした。
同洞城の戦から十年の後に、信長は天下に指を掛けた。
京の町を支配下に置き、御所のすぐ真北にある相国寺を宿所とし頻繁に顔を覗かせた。時の正親町天皇も気が気ではない。
応仁の戦乱で疲弊した伽藍も信長からの多大な寄進で輝きを取り戻し、いたるところに白木の芳香が満ちていた。長廊下の先の書院から熱の籠った話し声が聞こえる。
「是非とも、東宮主催の蹴鞠ノ会にお越しくださいませ、帝(正親町天皇)も切にお望みでございまする」
山科言継は嫡男の言経を伴って、信長に懸命の言上をしていた。
向かいに座る信長は青筋を浮かべ、無表情で脇息にもたれている。周りには織田軍団の有力武将と織田家の重責を担う吏僚らがひしめき合い、奥の書院の空気を重くした。
近習、馬廻りは、開け放たれた次の間に控えて客人の一挙一動を見守る強い視線を送っている。牛一も見逃すまいと得意の遠目を凝らし、必死に背筋を伸ばした。
「戦続きで疲れておるのじゃ、お屋形さまは。それをなんと力押しだわ、……大丈夫かな」
清蔵が小声で、隣にいる牛一に囁いた。暢気に聞こえるが、心底言継を案じているのがよくわかった。
「なあに、そこが権大納言山科さまたる所以じゃ。まあ見ておれ、案ずることはない」
牛一は微笑を浮かべて慰めの言葉を掛けた。
「弾正忠さま、堂上家の錚々たる顔ぶれが揃い、豪華絢爛たる装束で雅びな蹴鞠が行われます。これは見物でございますぞ」
大きな張り声に眉を潜める柴田勝家らの武将は言継を睨んだ。対して吏僚の武井夕庵や村井貞勝は心配顔を向けた。京都を守る吏僚にとって織田家の衣紋道指南を任じる言継は禁裏への大切な足掛かりなのだ。
「そうか、見ものであるか」
応えた信長の声音に抑揚がない。
次の間の清蔵は「ほら」とばかりに牛一に顔を向けた。
「言わんこっちゃない。お屋形さまは全く興味がないぞ」
「いや、そうでもないぞ」
応える牛一は、信長の鼻の穴が広がるのを見逃さなかった。
「雅びが、公家が、と声高に言ったとて我らに金も権勢もございませぬ。近年これほど大掛かりな蹴鞠ノ会などとんと開き申さぬところ。それを何ゆえ無理を押してまで催しまするか……」
信長はその言葉に頷き、黙って言継を睨みつけた。座が水を打ったように静まった。
若い言経は、半眼に動く信長の黒目に押さえつけられて身を反らしたが、言継は動じる風もない。
「――ひとえに、天下の権を握り奉るお屋形さまに誼を通じたきゆえにござりまする」
家中でも剽軽者で通る秀吉が独り声を出して笑った。光秀が咳を上げると、秀吉は慌てて誤魔化した。
「猿めが……」
信長は呟くと、黒目だけがすうっと秀吉へ向かった。諸将のざわめきが聞こえる。
「あら~、言っちゃった。本音」
隣の清蔵が思わず零した。牛一も深く頷き同意した。秀吉も言継も遠慮がない正直者なのだ。
お上である正親町天皇は官位を与えたり、催しものに誘いを掛けたり、信長の取り込みに必死だ。並の武将であれば歓喜して動くところだが、信長には通じない。
「しばらくほっぽといたら織田家衣紋道指南役のご老体を引っ張り出しおった訳だ」
「とっつぁんはもう六十八ではないか、お労しや。正親町天皇もお屋形さまには気を使っていなさる」
「これ、声が大きい」
清蔵は大袈裟に口を閉じた。
「先年、尾張下向の折、先代の萬松寺(織田信秀)さまをはじめ、権六(勝家)さまにも蹴鞠の手ほどきを致したもの……」
言継は目敏く勝家を見つけて微笑んだ。初めての尾張訪問は天文二年(一五三三)の話だ。勝家は元服したか、しないくらいの鼻たれ小僧だ。
髭面の勝家は、ばつ悪そうに下を向いた。
信長とて生まれる前の話だが、勝家の顔を見て、扇子で口を押さえて「ふっ」と笑いを漏らした。
「したが、弾正忠さま、もはやいけませぬ。某は歳でござる。足腰が立ちませぬ。かつての華麗な足捌きお見せできませぬ……ううう」
言継は態とらしく涙ぐんだ。笑みを零した信長も今さら威厳を取り繕う様子は見せなかった。言継の流れに吸い寄せられた。
「それは残念至極」
信長の顔に赤みが戻り、声に張りが出ていた。
透かさず言継は顔を上げ、信長を睨みつける。
「だが、ご懸念には及びませぬ。ここにいる我が嫡男、参議の長松(言経)が、山科流直伝の蹴鞠を習得しておりますゆえ、何卒、何卒ご照覧下さりませ~」
声を張り上げ、親子揃って平伏した。見事な話の流れだ。小川の急流を笹舟が軽やかに乗り切った感がある。やんごとなき古狸はなかなかの役者だった。牛一は顔を伏せて頬を綻ばした。
言継の二度目の下向が永禄十二年だ。六年前になる。織田家二代に亘る永の交誼があった。信長も心なしか頬が緩んでいる。
「相わかった。――又助! 又助はあるか」
信長は突然顎を上げた。何ゆえ呼ばれたのかわからない。
次の間に控えていた牛一は慌てて立ち上がった。
「は、これに」
「蹴鞠ノ会の記録を取れ。出席者、装束、陣形のすべてを……。見物だそうじゃ。権大納言とよく図って準備を致せ」
話を終えた信長は、言継らの接待を貞勝に命じて席を立った。
奥廊下に下がる信長の後に牛一は足早に従った。薄暗い廊下を歩む信長は牛一へ振り向くと呟いた。
「権大納言の頼みでは断れぬわ」
牛一を見たまま、何かを思い出したように信長は微笑んだ。
清涼殿
――ポーン、ポーン。
乾いた音が牛一の耳に心地よく響いた。
鹿革の鞠が気持ちよさそうに青空に吸い込まれていく。京都御所清涼殿の甍は陽射しを跳ね返し白く光っていた。
蹴鞠ノ会は雲ひとつない七月三日、巳ノ正刻(午前九時頃)に催された。
信長は馬廻りと小姓の六名の供だけで参内し、孫廂の濡れ縁に設えた座より掛け声のする庭を見ていた。牛一は南角の落板敷に言継と座って全体を見渡していた。
(な、なにゆえ清蔵がおるのだ?)
供揃えの中に厳つい顔の清蔵がいる。風雅とは縁もゆかりもない猪武者の代表だ。
一回目は黒戸の御所の北庇の庭で行われた。黒戸の御所とは清涼殿北側の、滝口の戸の西にあった細長い部屋で、竈を設えて薪の煤で黒くなった故事に由来する。
庭に設えた懸(競技場)の四隅に一丈五尺(四・五メートル)の柳、桜、松、楓が植えてある。蹴り上げる鞠の高さの目安にするためのものである。その四方に二人ずつ八人の鞠足(選手)が鞠を蹴る。
「今いる鞠足が左手より、庭田重道、三条西公明……」
その都度、陣形、鞠足を言継が牛一に教えてくれた。
牛一は、黙って頷き、瞼を緞帳のように閉じては眼窩の奥に刻みこむように覚えている。
「御所清涼殿においては墨硯の用意は出来かねますぞ」と心配する言継に、「なに、大丈夫でございます。記憶して後ほど書き留めますゆえ」と応えていた。
ましてや風雅に憧憬を持つ牛一は、飛ぶ鳥の一羽さえ見逃すまいぞと意気込んだ。
鞠足を変え、その都度競技が行われた。
「風向きが変わり、強くなりましたゆえ、東庇の庭に御移動願い奉ります」
審判役公卿の声が響いた。
信長をはじめ一同の顔が一斉に向きを変えた。
新たな鞠足八人が一座を作っての蹴鞠を始めた。手慣れたものである。風向きに会わせる繊細さに牛一は感心した。
ポーンとよい音が響くと、鞠は軽やかに舞い上がる。すると均等な間隔で音が続く。雅楽を聞き、舞を見るような心地になった。
「蹴鞠道とは、鹿革の鞠を足で蹴って地に落とさず、さりとて手を使わずに蹴り続ける。雅な装束を軽やかに纏い楽しむもの。むろん勝ち負けは無い。相手に蹴りやすい鞠を蹴り渡す者が良い鞠足とされております」
言継は牛一を覗き込むように話しかけてきた。
上手の鞠足が蹴る。言継は透かさず名を告げた。
飛鳥井流の名手、飛鳥井雅敦と記憶した。
「うむ、美しい……良い鞠足は、一座(八人)の調和を作る統率者の趣を見せますね」
見惚れて呟く牛一の顔を見て、言継は白い歯を見せた。
「ほう~、わかりますか? ……又助どのは武将顔と言うよりも公家顔じゃな。雅びの心がようおわかりじゃ」
「滅相ものうござる。殿上人の優美、気品、風雅……何一つとっても、人として足元にも及びませぬ」
「人として? ふふ、何一つ変わるところなどござらぬよ」
庭の懸から歓声が立ち上がった。
華麗な足さばきを見せる一座の『あり』『やっ』『おう』の掛け声が凛々しく響き、観覧者の拍手と歓声を引き起こす。
一座の何人かの鞠足が変わるたびに、
「今、代わられたのは甘露寺経元。あの者の心根や善し。次は高倉永相」
牛一は古式に則った蹴鞠にただただ見惚れ、唸るばかりだった。
蹴鞠をする美しい若者の姿が目についた。まさに蒔絵から飛び出した煌びやかさを纏っていた。
色白く切れ長な目に、細い面差しの貴公子は、雅な装束を風に靡かせている。細いうなじは女子に見間違うほどだ。
耳元に言継の声が聞こえた。
「水干、色は紫、染色、葛袴。中院夜叉松麿、諱は通勝。昨年参議に昇進したばかりの若者です。なにせ家格が大臣家ですからねぇ~」
次々と牛一の眼下に映る情景が入れ替わる。
言継は顔を懸に向けたままに、蹴鞠の様子に頷きつつ論評した。
「よしよし。……巧みなり。気配り上手じゃ……」
と、中には明らかに流れを断ち切る鞠足がいた。が、それも束の間。牛一は特に気にせず、蹴鞠を楽しんだ。
「未熟者め!」
舌打ちを含んだ言継の呟きに、牛一の背筋がピクッと伸びた。
何事かと言継を覗きこんだが、別段変わらぬ言継の横顔を見ただけだ。
牛一は風雅に満ちた只中にいた。
(これはお屋形さまからのご褒美じゃな)
先月、突然名を呼ばれて訝しんだ己を鼻息と共に吹き消した。
蹴鞠は続き、雅趣に富む風を運んだ。
盛り上がる観衆の中で信長は、澄まし顔でも真剣な眼差しを送った。御小姓頭、万見千千代は必死に目を凝らすが、他の近習はみな退屈そうな顔している。その一人清蔵は、目をしょぼつかせて欠伸をした。目にした牛一は、「なんじゃ、あの無礼者が……」と声にならない言葉を発した。すぐ、見なかったものとして視線を逸らした。
――ポンッ、と鞠音が響く。
「ほう、さすがは権大納言さま直伝だけございますな」
牛一の逸らした目の先に、見知りの顔があった。嫡男の言経は思いの外上手に鞠を蹴る。
「なんの、まだまだ未熟でございますよ」
「ご謙遜を、ここで見ておりましても、五指の上手に入りましょうか……」
「なかなかの目利きですな。まあ奴は真面目だけが取り柄。いまひとつ覇気がないのが心配の種……」
牛一の言葉に、言継は満更でもない顔をした。牛一は意外に思った。照れ笑いする言継は、下世話で目にする父御の顔と変わらなかった。
そうかと思えば、蹴り損なう鞠足もいた。勝手に下がって、鞠足を代わっている。
「装束も束帯、衣冠、直衣、狩衣、直垂、僧服の鈍色、水干と様々とありますが、最近は動きやすい水干が多ございます。それに色合いも重要なのです。年頃がわかりますから。……が、まあ追々お伝えしましょう」
言継が、衣紋道の溢れる知識を口にした。
事前の打ち合わせの時に、「当世の流行りは水干だ……」水洗いの後に糊を使わずに干したもので着心地が柔らかいから皆こぞって着るようになったと聞いたばかりだが、装束の色合いにまで、有職故実に細かな意味合いがあるなどとは知らなかった。
「ほう。そのようなことまで……」
奥の深さに牛一が嘆息していると、左後ろから物音が聞こえた。
「誰ぞ! 誰ぞあるか」
東宮が人を呼んでいる様子が窺われた。
いざ御用とばかりに、取り巻きが足音を立てている。
「なんじゃ、騒々しいのう。時と場を心得よ」
隣で言継は、苦虫を噛んで小さく吐き捨てた。有職故実を体現する禁裏の重鎮にしては、軽々しい若公家の振る舞いが腹立たしいのだろうか。牛一は恐々と言継を見た。だがやはり泰然と揺るがぬ言継がいるばかり。下々と違って顔変わりが早い。心の襞を出すまいとの気質なのかもしれない。
辺りは落ち着きを戻し、東宮の周りに幾人かの人が集まっているだけだ。その中から、若公家の通勝が出て庭に降りた。
牛一は気にも留めずに、再び庭の蹴鞠へ歓心を向けた。
「うっ……」
牛一は自分でも気付かぬうちに指で鼻先を弾いた。
「どうされたかの?」不思議そうに言継が笑みを寄こした。
「あ、いえ、別に」
「おう、珍しや、冠束帯の若者は……」
その張り声に誘われて、牛一も視線を庭へ戻した。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
焔の牡丹
水城真以
歴史・時代
「思い出乞ひわずらい」の続きです。先にそちらをお読みになってから閲覧よろしくお願いします。
織田信長の嫡男として、正室・帰蝶の養子となっている奇妙丸。ある日、かねてより伏せていた実母・吉乃が病により世を去ったとの報せが届く。当然嫡男として実母の喪主を務められると思っていた奇妙丸だったが、信長から「喪主は弟の茶筅丸に任せる」との決定を告げられ……。
天狗斬りの乙女
真弓創
歴史・時代
剣豪・柳生宗厳がかつて天狗と一戦交えたとき、刀で巨岩を両断したという。その神業に憧れ、姉の仇討ちのために天狗斬りを会得したいと願う少女がいた。
※なろう、カクヨム、アルファポリス、ノベルアップ+の各サイトに同作を掲載しています。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
戦国征武劇 ~天正弾丸舞闘~
阿澄森羅
歴史・時代
【第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞】本能寺の変によって織田信長が討たれた後、後継者争いに勝利した羽柴秀吉は天下統一の事業を推進。
服属を拒む紀伊・四国・九州を制圧し、朝廷より豊臣の姓を賜り、関白・太政大臣に就任した秀吉は、最大の敵対者である徳川家康を臣従させ、実質的な天下人に。
そして天正18年(1590年)、秀吉は覇業の総仕上げとして関東の大部分を支配する北条氏の討伐を開始。
しかし、圧勝が約束されていた合戦は、北条方の頑強な抵抗と豊臣家内部で起きた予期せぬ事件によって失敗に終わる。
この事態に焦った秀吉が失政を重ねたことで豊臣政権は不安定化し、天下に乱世へと逆戻りする予感が広まりつつあった。
凶悪犯の横行や盗賊団の跳梁に手を焼いた政府は『探索方』と呼ばれる組織を設立、犯罪者に賞金を懸けての根絶を試みる。
時は流れて天正20年(1592年)、探索方の免許を得た少年・玄陽堂静馬は、故郷の村を滅ぼした賊の居場所を突き止める。
賞金首となった仇の浪人へと向けられる静馬の武器は、誰も見たことのない不思議な形状をした“南蛮渡来の銃”だった――
蹂躙された村人と鏖殺された家族の魂、そして心の奥底に渦巻き続ける憤怒を鎮めるべく、静馬は復讐の弾丸を撃ち放つ!
懴悔(さんげ)
蒼あかり
歴史・時代
嵐のような晩だった。
銀次は押し込み強盗「おかめ盗賊」の一味だった。「金は盗っても命は取らぬ」と誓っていたのに、仲間が失態をおかし、人殺し盗賊に成り下がってしまう。銀次は何の因果かその家の一人娘を連れ去ることに。
そして、おかめ強盗に命を散らされた女中、鈴の兄源助は、妹の敵を討つために一人、旅に出るのだった。
追われ、追いかけ、過去を悔い、そんな人生の長い旅路を過ごす者達の物語。
※ 地名などは全て架空のものです。
※ 詳しい下調べはおこなっておりません。作者のつたない記憶の中から絞り出しましたので、歴史の中の史実と違うこともあるかと思います。その辺をご理解のほど、よろしくお願いいたします。
湖に還る日
笠緒
歴史・時代
天正十年六月五日――。
三日前に、のちの世の云う本能寺の変が起こり、天下人である織田信長は、その重臣・惟任日向守光秀に討たれた。
光秀の女婿・津田信澄は大坂城・千貫櫓にあり、共謀しているのではないかと嫌疑をかけられ――?
人が最後に望んだものは、望んだ景色は、見えたものは、見たかったものは一体なんだったのか。
生まれてすぐに謀叛人の子供の烙印を押された織田信長の甥・津田信澄。
明智光秀の息女として生まれながら、見目麗しく賢い妹への劣等感から自信が持てない京(きょう)。
若いふたりが夫婦として出会い、そして手を取り合うに至るまでの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる