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男の子と商人と、女の子と
しおりを挟む今から二年と十一カ月前のこと。
当時十二歳だった僕たちは、小さい島の普遍的日常を謳歌していた。
しかしこの日の、一日という短い時間は、僕達の人生においてのターニングポイントとなる。
今日もいつも通りに日の出と共に起床し、朝から図鑑などの蔵書を読み耽っていた。
読書を始めてから大体三時間くらいだろうか、いつもの時間に、部屋の窓からコンコンッと、ノックをする音が聴こえてくる。
そちらへ近づくと、僕は窓を奥の方に開けた。
窓を開けると、閉まりきった部屋に充満していた重苦しい空気が、涼しくて、青草の匂いが舞い踊る、気持ちの良い空気へと変化していく。
そんな清らかな空気を大きく吸おうとした瞬間、窓の下にしゃがんで隠れていた彼女が、いつも通りの元気さで跳び上がりながら挨拶をしてきた。
「おっはよー!!!」
毎度のこと驚かせようとしているのか、今日みたく下から飛び出したり、窓の上から逆さになってみたり、村の大人に変装してみたり、と色々試行錯誤してきている。
それに対して僕が反応をしないと、結構いじけたりもするので、ワンテンポ置いた後に、驚いた振りを何時もするのだ。
「ふぅ……う、うわぁ!!」
それでも、本気で驚くこともしばしばあったり、驚かせようと頑張る彼女を見るのが好きなので、結構楽しみだったりもする。
「お腹減ったねぇ…」
二人は村にある唯一無二の食事場に、手を繋ぎながら歩幅を合わせ、ゆっくりと歩いて行った。
食事場へ往くと何時も通りの、猪のステーキ、パン、甘い木の実のジュースを頂く。
食事場には僕たち以外にも何人か居て、何時も通りなのだが、朝だと言うのに何処か、騒がしい印象を受けた。
「自然の糧をお恵みくださり、感謝します」
二人で食後の挨拶を終えると外に出て、いつも通り、彼女に好き好んで振り回されるのだ。
今日は僕があと少しで狩り出るようになるからと、大人に行ってはいけないと言われていた森に、冒険に行く。
大人達が狩りにいくのは朝頃で、僕が本を読んでいる時間帯だ。
と、いうことで、森の近くに大人は一人もいない。
だから、冒険し放題、という訳なのだ。
森に入り、無造作に育った草花を掻き分ける。
──風に揺れる木の葉の音。
──草花の青々しい匂い。
──木になる瑞々しい実。
──近くにある川の流れる音。
──島の上を渡り、どこか遠い所へ旅立つ鳥の声。
──獣がいたことが分かる獣道。
その全てが子どもの僕たちには初めてで、その新鮮さに胸を踊らせる。
僕達は互いを離しまいと、精一杯の力で手を繋ぎ、その夢とも思える時間を、二人で謳歌した。
日が暮れない内にと、今日の出来事を噛み締めながら来た方向を戻り、村へと帰る。
森に行ったことが大人たちにバレないようにと、服についた葉っぱを互いに落とし合い、何事もなかったかのように口笛を吹きながら、広間へと出た。
広間にはいつも一人はいるはずの村人の姿は無く、嵐の前の静けさの様だった。
「どうしたんだろーねぇ?」
「分からない……少し探してみようか」
楽観的に不思議がるいつも通りの彼女に安心しつつ、僕は彼女の手を引いて村のあちこちを探す。
村のどこにも人がいないことに気づくと、彼女は冷汗を掻きながら焦り始めた。
「もしかして、私達を探しに森に行ったんじゃ……ねぇ、どうしよ!!あわわわ…………」
焦る彼女を見るのは久しぶりで、小さい頃の僕が彼女に海へと放り込まれて、溺れかけた時以来だ。
溺れかけたとは言っても、足が着く深さだったので大事にはならなかったが……。
「ふふっ」
「急に笑い出して、どうしたの?」
「んーん、なんでも無い」
「ふーん……そっか」
懐かしいことを思い出して軽く笑う僕に、彼女はきょとんとした表情で横から顔を出すものだから、また可笑しくなって軽く流した。
島の港の方へ少しずつ歩いていくと、微かに人の声が聞こえてくる。
彼女の手を引いて駆け足で声の方へ往くと、見た事のない大きな船が見えたり、数十人という村人全員がガヤガヤと何か話していたりと、二人の子ども心を燻った。
釣り師のおじさんや医師のおばさん、料理人のお兄さん等々の横をすり抜けて、前へと二人で抜ける。
人混みを抜けるとそこには、上等な布生地で作られた服に身を包む男性を中心に、見たところ十数人程度が居た。
「なんだか凄いねぇ……」
異様な光景に僕は息を呑み、彼女はとあっけらかんとしている。
今この島で何が起きているのか気になった僕は、直ぐ近くにいる狩人のおじさんに事の発端を聞いた。
「んー、とな。一ヶ月くらい前に、商人の兄ちゃんがラズベリーを大陸に売りに行ったの分かるだろ?んで……ラズベリーを売るところは珍しいし、そもそも寒い国では育たないしであそこにいる商人さんが買ったんだって」
「それで質が悪くて苦情……って、そんな雰囲気では無さそうだけど……」
「その逆だってさ。ここまでスクスク育ったラズベリーは珍しいから、もっと欲しい!でも当時の兄ちゃんは、そこまでの量持って売りに行かなかった……」
「だから島に直接来ることで、大量のラズベリーを仕入れることが出来る……って、とこか」
「ま、そーゆーことらしいよ?」
「あー……うん、なるほどね…?」
二人の会話にまるで入れない彼女は、頭を真っ白にしながらも相槌を打った。
そんな彼女らしいところに僕と狩人のおじさんは、心から楽しげに笑う。
僕たちが笑っていると、会話の声がデカかったのか、笑い声がデカかったのかは分からないが、先程まで村の大人と話していた商人がこちらへ向かって来る。
何か癇に障ることをしたのだろうか?
あの位金と権力を持ってそうな人だと、自分の機嫌次第で殺されてしまうのではないだろうか?
と、その状況に戸惑い焦燥感を抱きながらも、僕は頭を回転させ最善策を探った。
あれは駄目、これも違うと秒単位で考える度に、こちらへ少しずつ近づいてくる。
僕の頭は限界ギリギリの極限まで回転させられ、脳がぐちゃぐちゃに溶けていると錯覚する程に思考した。
(子どもの僕では何も分からないのか?!何か策は!!)
と、外からきた得体の知れない存在に恐怖する。
その間約五秒。
もう、限界を迎えていた。
駄目だった。
何も出来ないまま、他所から来た商人に煩いからと無礼だからと、殺されでもするのではないか?
そうなれば僕だけでなく、彼女も?
と意識を彼女に向けた瞬間、僕の瞳は彼女のことを無意識的に見ていた。
さっきから、ずっと黙っていた彼女。
彼女も僕と同じように、怯えているものなのだと、勝手に思っていた。
しかし、現実は違った。
彼女は怯えてなどいなかった。
むしろ、いたずらに怯えていた僕の背中を、優しく宥めてくれていた。
僕は考え過ぎで、周りが全く見えていなかった。
だけど今は、彼女を見ていて、感じている。
そう思うと、頭の中の焦燥感は消えて、スッと身体が軽くなった気がした。
人というのはどうも、気持ち的に軽い方が、考えが出てまとまるらしい。
刹那の一瞬、彼女に勇気を貰い、一歩、また一歩と、前へと出て行く。
気づいた時には、他所の商人との距離が、大体二メートル程度まで縮まっていた。
僕は知っている。
──こういう場面では、相手に主導権を握らせてはいけないことを。
僕は知っている。
──他所の礼儀を。
(……大丈夫!)
「商人様。はるばる遠いところから海を跨ぎ、足を運んでくださり誠に痛み入ります。小さな島ではありますが、皆様にはぜひお客様として、御寛ぎいただきたく存じます」
胸に手を当て、腰を落とし、頭を三十度下げる。
正直なところ、めちゃくちゃ緊張した。
言葉の一つ一つに震えが混じりそうになって、そのたびに手や足も震えそうになったし、おでこからは冷汗が滴り落ちた。
だから、一つの節目を終えられて、心の底から安堵をしている自分が居た。
少し深い呼吸をしてから頭を上げ、商人の目を見る。
目があった時の商人の表情は想像以上に柔らかくて、とても優しい口調で返事をしてくれた。
「それはそれは、お気遣い感謝致します。この度は、この島のラズベリーについて商談をさせていただきたく、参りました」
僕と同じように、胸に手を当て、腰を落とし、頭を三十度下げ、そして顔を上げた。
その一連の動きは洗練されていたものであり、客観的に見ても、主観的に見ても、僕の一段上をいっている。
それからは商人の意向もあって、僕と彼女の二人で島のあれこれを案内した。
案内する間は、ラズベリーのこと、あの作法は本で知ったということ、彼女のことをどう思っているのか。
そんな話を、僕は楽しげに話した。
それとは別に、この世界の広さ。
この島のラズベリーの品質の良さ。
僕の作法に驚いたこと。
字が読める人間は貴重であること。
優秀な人材を商会のメンバーとして雇いたいこと。
そんなことを真面目に、商人は僕に話した。
特に商人の話の中で、世界は本で見るよりも複雑で、広大なのだというところに、僕は心を惹かれた。
外の世界を知らない僕にとって、ただ本を読み漁った僕にとって、想像するだけで胸が躍り、心を奪われる領域。
未知が、そこにはあったのだ。
どうしても、自分の目で、身体で、心で、味わってみたくなった。
「優秀な人材を雇いたいと、先程おっしゃいましたね?お願いします!三年後、僕が十五歳になり、成人した時。どうか、貴方の商会で雇ってくださいませんか!」
だから、お願いした。
頭を下げて。
横目で彼女の方を見ると、「嘘でしょ…?」とでも言いたげな瞳と表情でこちらを見ていたが、僕は目線を商人に戻した。
商人と目が合うと、僕の肩に、ポンポンッと音が鳴る。
それは、商人が僕の肩を叩く音であった。
僕の肩を叩いた商人は満足そうな表情で、僕は絆されるように「三年後よろしく頼みますね」と微笑んだ。
僕は心から喜んだ。
自分の知識欲を満たすことができるのだと、舞い上がっていた。
だから、僕は気づけなかった。
彼女が今までに見せたことのないような、表情をしていることを。
とても辛く、寂しそうな顔をしていることを。
彼女は何も言わず、ただただ、僕たちの後ろを着いてきていた。
そんな彼女に、浮かれていた当時の僕と商人は、見向きすらしなかった。
ただただ、二人の世界へと入っていた。
僕は残りの三年間でより勉強したり、頼りない身体を鍛えると興奮混じりに決意した。
商人は村の大人に聞いた通りの優秀な人材に、先行投資ができて良かったと、心の底から喜んでいた。
「商会に入ったら、もう……一生逢えなくなるかも知れないのに……」
彼女のか細い声は、島へと吹く海風に、溶けて消えた。
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