【短編】猫の哲学

喜太郎

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 国語で習った。
 代名詞というもの。
 アレ、とか、ソレ、とか。名前を使わないで、物を呼ぶときに使うことばだ。

 ふだんの生活の中で、そういうことばはいくらでも使う。
 ふつうの会話の中で、ありふれているのだ。


「さっきさー、アレとぶつかっちゃってさ。マジでさいあくー」

 とある女子が、そんなことを言っている。
 わたしは教室の前の方の席だから、その女子のことは見えない。でもきっと、わたしの方をじっとにらみながら言っているんだと思う。


「うわ、さいあくじゃん。におい、うつってんじゃないの」
「ちょ、やめてよ」
「んー、どれどれ……。あはっ、くさいよ!」
「はあ? まじでさいあくなんだけど!」

 そんなことを言って、笑っている。


 うしろは見えなくても、声で、だれが言っているのかは分かる。
 ナニかとぶつかった、といやそうに言っていたのは、いつもクラスの中心にいる明るい女の子。わたしはさっき、その子とすれちがうとき、少しだけ肩がぶつかってしまった。


 だから、代名詞をつかわれていても、それがわたしのことだと分かる。

 ううん、べつに、たしかにさっきぶつかったのはわたしだから……なんて考える必要もない。
 このクラスの中で、アレ、とか、ソレ、とか言って笑っているときは、たいてい、わたしのことを言っているんだ。


 いつの日からか、そうなっていた。

 それまでも、わたしのことをコソコソと……いや、べつに隠そうとすることもなく、わたしに聞こえるような大きい声ででも、わたしを悪く言って笑うようなことは毎日のようにあった。
 そのたびに胸のところがヒヤっとして、消えたくなる気持ちになっていた。
 そうやってわたしを悪く言うとき、はっきり名前で呼ぶか、そうじゃないときは何かいやなあだ名をつけて言うのがふつうだった。

 でも、今はちがう。

 わたしの名前は呼ばれない。

 わたしは、アレ。
 わたしは、ソレ。


 わたしのことを笑っているのはたしかだから、やっぱり心がいたむのはまちがいないんだけど……でも、前までよりも、それは軽いような気もする。
 アレとかソレとか言われていると、なんだか他人ごとみたい。

 みんなが、わたしのことを笑う。
 そのたびに、どろどろして重たい気持ちが胸の中にわくけど、名前で呼ばれないから他人ごとのような気がして、その気持ちから目をそむけられた。


 でも、だからって暗い気持ちはきえない。

 それどころか、ずっと目をそむけ続けているものだから、いっそう大きくなって、たまっていく。
 胸が、重い。
 体が重い。
 朝なんか、とっても体が重たくて、起き上がるのがたいへんだ。

 通学路を歩く、その一歩一歩が、とてもつらい。足をふみ出すたびに、ぎしぎし、って、ほねがきしんでいるみたい。
 このままポキって折れちゃうんじゃないかって思う。
 正直、そうなってくれた方がいいかもしれない。骨折したら学校を休めるし。……。


 毎日、ずっと、みんながわたしのことを笑う。
 でも、アレとかソレとか、わたしをモノのように言うのだ。


 心がとても重たくて、胸の中からどろりと落ちてしまいそう。もし黒くてどろどろしたモノが道ばたに落ちていたら、それ、たぶんわたしのだ。



 家に帰って、また、ベッドにぼふんと体をしずめる。

 顔を深くうずめていて、息が出来なくなっていることに、気づかなかった。顔をよこに向けたときに、すうっと空気が入ってきて、今、息をしていなかったと気づいたのだ。
 けっこう長く、息をしていなかったはずなのに、でも苦しいとは感じなかった。


 また、卓上ミラーが立ったままだ。

 鏡と、目が合う。

 その向こうにいる人と、目が合う。



 が、こちらを見ている。



 …………。

 アレはだれだろう。


 鏡の向こうから、じっとこちらを見る、アレ。
 黒くどんよりとして、にごった瞳。その目がまっすぐわたしを見ているけど、でも、べつにいやな気分にはならない。

 まさに死人の目が、私のことを見ている。

 ただそれだけのことで、何も特別な感慨は湧かない。


 ソレは、そのまま体を動かすこともなく、ベッドに体を埋めた状態で数時間を過ごしていた。棺に納められた死人みたいだ、と、私は思った。




「さっきの授業、笑ったよねー」
「ああ、アレね。また宿題忘れてきてせんせーに怒られてたね」
「バカだよねー、アレ。あははっ」

 教室の後方で集まった女子が、愉しそうに笑う。
 彼女らが指すのは、前列の席でじっと坐り、独り虚しく次の授業を待つアレだ。

 ソレは、自分のことを言われているのだと察して、びくりと肩を震わせた。その様子を見て、明るい女子たちは吹き出す。


 笑い声ははっきりと聞こえるが、前に座るソレには、女子たちが愉しげに笑う様は見えない。
 ただ、細い針で背中をちくちくと刺すような声と視線を感じ、畏縮するばかり。女子らにはその背中が滑稽に見えるのだ。
 ――確かに、ソレは、滑稽だ。
 私にもそう思えた。


 一日が終えられ、ソレは、重い足取りで帰路に就く。

 踏み出す度に足の骨がぎしりと軋むのを感じながら、ソレは家路を歩む。


「にゃあ」

 道中、猫の鳴き声が不意に聞こえ、ソレははっとして辺りを見回した。
 だが、すでに猫はそばの茂みに潜り、立ち並ぶ家の塀と塀の細い隙間へと入り込んで行っていた。その姿を目にできなかったのを残念がり、ソレは、溜め息とともに顔を伏せた。

 私はその小さな背中を追って見ていたが、やはり愛くるしい。
 実に気ままで、人間のことをなど歯牙にもかけないというような堂々とした振る舞い。私は猫が好きだ。




 暗鬱とした日々を、ソレは過ごす。

 長い時が経ったのか。
 短いのか。
 どちらだろう。私にはわからない。




 その日は、曇天。
 鈍色にびいろの分厚い雲が太陽を遮り、地上に暗い影を落とす。



 カーン、カーン、カーン、カーン。


 赤いランプの明滅。支柱は黄色と黒。ゆっくりと、バーが降りる。


 死人が一人。
 水平に降りきったバーの下を、ひょいと、潜り抜ける。



 カーン、カーン、カーン、カーン。



 けたたましく響くのは、鐘の音を再現した電子音。
 無機質なその音は、まるで死を運ぶ音みたいだと、私はかねてより感じていた。

 だからソレは、今、ここにいる。

 屈み込み、足を抱く。自身への抱擁ではない。逃がさぬ、と、抱き留めているのだ。



 表情はない。死んでいるから。



 甲高いブレーキ音。
 だが幸い、接触が免れることはなかった。



 小さな体は、突き飛ばされるのではなく、車体の底部に巻き込まれた。
 レールと車輪に挟まれ、転がされる。

 たちどころに、体の各部が引き伸ばされて、ちぎれる。ちぎれてなお、すり潰れてミンチになっていく。

 艶のない髪は車輪に絡まり、頭皮ごともっていかれた。

 頭は何回転もしながらレールや車体の鋭い角にぶつかり、へこみ、擦り切れ、細かなく頭蓋骨は砂利に混ざる。
 あるいは体各部の骨片も同様に砂利に混ざるほか、車体の隙間に入り込んでしまって、それは果たして回収されるのか。


 一面の赤。


 ソレは見るも無残な光景だ。気分が悪くて、私は、目を背けた。
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