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シーズン1/第二章
□あくあついんず□⑭
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そして迎える、エックスデー。
《午後八時》
ドラゴンを模したぬいぐるみ『ドラコ』の中に魂を宿した、海底人オスティマ。
水萌が彼と出会ったのは、ちょうど二週間前となる。長いような短いような、少なくとも喋るぬいぐるみの存在がすっかり少女の日常の一部と化してはしまうぐらいの期間。
始めの夜から二週間が経過したこの日。夜。ここは町の端の磯浜海岸だ。
「もうすぐ、かな……」
――ごくり、と。
思わず喉を鳴らす水萌。
『ああ。必ず来る』
心細そうに海岸に立つ少女、その隣でふわりと浮いている赤いぬいぐるみ。オスティマは、落ち着いた様子で答えた。
「ね、ねえ。やっぱり敵が来るのはまだまだ先だった、ってことないの? 今日来るって情報、実は間違いだったとかならない?」
『何を言ってんだ。俺の姉貴が得た情報だぞ。優秀な姉貴だ、間違いはねえよ』
ああ、そう言えば以前そんなことを言っていたな、と水萌は思い出した。
オスティマが地上へ出て来る前、『クリティア』という彼の姉が敵の懐に潜りこんで得た情報なのだとかなんとか。
優秀な姉らしく、情報に間違いはあり得ないと言っていたが。今の水萌にとっては、その彼女の優秀さは疑いたい。今夜、海底の敵が生体兵器を地上世界へ向けて解き放つという情報が、間違いであってほしいと願う。
しかし、少女の願いは虚しく。
やはりオスティマの言う通り、彼の姉は優秀であったらしい。
淡い月明りに照らされた海岸に、突如、ざざざざざ――と水が激しく掻きまわる音が響く。夜の静寂を掻き消す水音は、次第に激しくなる。そして、闇の中に怪しい影が浮かび上がる。
暗い海。
その中に、不自然に、水柱が立ち上る。
渦巻き、白波を立てながら空へ向かって伸び、ゆっくりと径を増していく。
闇夜に浮かぶそれは異様に怪しく、少し恐怖演出的だ。少女の背にぞくり、と悪寒を走らせる。
水萌は極度の怖がりだ。
中から何が現れるか、知っているのに、暗闇の中に怪しく浮かぶ水柱――その様を見るだけで少し怖い。いっそ、早く正体を現してくれた方が良い。
やがて、渦巻く水柱が止まる。動きが止まった水が、海面へと流れ落ちていく。
……流れずに残ったのは、黒い卵型の物体。
どろりと粘ついた液体をまとっている、黒い球体が、海面一メートルほどの位置で宙に浮いている。
『出たな』
あれは、卵。
すぐに、亀裂が入っていく。パキ、ピリ、と音を立てながら筋が入り、中にいるモノが、殻を押し破ろうとしているのが分かる。
『よっしゃ、ミナモ! ――打ち合わせ通りにッ』
「うん、ドラコ!」
ぬいぐるみの言葉に、水萌はコクと頷いて答える。
キッと鋭い眼差しで、海から出現した不気味な卵を見据える少女――すっかり戦闘態勢の意識に切り替えられたので、幸い、つい今まで感じていたちょっとした恥じらいは脱ぎ捨てられた。
宙に浮かぶ黒い卵。
亀裂が広がり、ぽろ、とわずかに欠片が落ちる。
小さな穴ができ、中にいる『バケモノ』の体表の赤色がのぞいた。
それを確認した水萌は、ふっ、と気を絞り上げるように身構える。そして意識を集中させる。――『水精錬金』を発動させるため、身の内からエネルギーを沸き立たせる。
先制をとる作戦だ。
この場へ臨む前、オスティマと示し合わせていた作戦である。
……
…………
/
そもそもとして、この日の朝。
《午前4時頃》
『ミナモ! おい、起きろ!』
「んぅ……?」
顔に何か柔らかいものが押し付けられているのを感じて、水萌はゆっくりと目を開けた。
……寝覚めの直後でぼやけた視界ながらに、それははっきりと見えた。目の前には、視界を負い尽すほどの至近距離で赤いドラゴンのぬいぐるみが浮いていた。
短い手を伸ばし、水萌の頬をむにむにとつついている。
「ドラコ? おはょ……。なに? もう目覚まし鳴った?」
まだ開き切らない目をぐしぐしと擦りながら、水萌は起き上がった。
『目覚まし? いンや、まだ鳴ってねえけど』
「……へ?」
数秒のタイムラグの後、ようやくぱちっと開いた目。くりんと首を曲げ、ベッドそばの窓を見る。
カーテンのすき間から覗いた外の景色は、まだ十分な朝陽の明るみに包まれていない。
また首を回し、反対側に置いてある目覚まし時計を見る。
AM4:13。
目覚ましのセッティング時刻まであと三時間以上もある。
「あれ? なによう、まだこんな時間じゃん。起こさないでよー。あたし、もっかい寝るから」
『ちょっと待て、寝るんじゃねえよ!』
「えぇー、なんで」
『なんでって、決まってるだろ! 特訓だ! 早朝トレーニング、だよ!』
ぬいぐるみに魂を宿した海底人は、そう言ってずい、と身を乗り出してくる。
「うそ、こんな早朝からぁ?」
『当たり前だろ、……戦いはもう今日なんだ! 悠長に寝てられるか!』
「…………」
なるほど、彼の考えは分かる。
今日。オスティマと初めて会ってから、ちょうど二週間が経った。
それは、彼が始めに言っていた、敵が攻撃を仕掛けて来る日だ。この日の夜に、あの奇怪な生物が海より攻めて来る。水萌はそれと戦わなくてはならない。
そのためには、『水精錬金』を完全習得しなければならない。初歩たる『水の操作』に次ぎ、神髄たる『水を媒介とした金属の精製』――銃器なども思いのままに造り出せる術を扱えなければ、あのバケモノを倒しきることはできない。
二日前にようやく、その神髄へと片足を踏み入れた。保健室で突如として目覚めたのだ。
……ただ、それが安定しない。武器の精製などには至るが、形を維持させることが出来ず、すぐに水へと還帰してしまう。あと一歩なのだ。
昨日、深夜まで特訓は続いた。
昨日と言うか、もう日付が変わって今日になっていた。ついに水萌が根を上げて、「もうまじで寝かせて、あたしマジで徹夜とかムリだし、それこそあしたの夜に戦う気力なんてなくなっちゃうから!」と悲痛な訴えをし、ようやく就寝の許可を得られたのは何時ごろだったろうか。きっと二時とかそのあたり。
それからわずかに二時間しか経っていないではないか。これでは仮眠だ、睡眠とは呼べない。
「ちょ、こんな朝から特訓とかむり、眠いもん!」
『んなこと言ったって、術が使えなきゃ戦えないんだ。日中は学校があるんだから、朝早くにやるしかねえだろ』
「うえぇ、そんなことするぐらいなら学校休むよー」
『おいふざけんな、学校はちゃんと行かなきゃだめだろ』
「なんであんたが真面目なのよ」
たった二時間しか寝ていないのに、こんな朝早くから術の特訓などする気力は到底湧かない。しかし、このような早朝に彼と言い問答を続ける気力もなく、水萌はしぶしぶぬいぐるみに従った。
それから、三時間後。
《午前七時》
疲労と眠気でどんよりとした水萌の頭に、目覚ましのけたたましいアラーム音が容赦なく突き抜ける。暴力的な音量に、少女の視界はぐらりと揺れる。
「う……」
音停止のスイッチを押す手つきすら弱々しい。
『あー。もう時間が来ちまったか』
本来の起きる時間になってしまい、これで早朝の特訓は終了となってしまう。名残惜しそうなオスティマとは裏腹に、水萌はようやく終わるかと安堵の息をつく。
そのまま、ぼて、とベッドに倒れ込み、布団を愛しそうに抱き寄せた。
「ぉやすみぃ……」
『おいミナモ、何寝てんだよ、これから学校だろ!?』
「むりだよぉ……」
ほんの二時間しか寝ていないうえ、起きてすぐに気力をすり減らすほどの術の特訓……。
これから勉学に励むどころか身支度を整える気さえ湧かない。オスティマが肩を揺らすが、拗ねた子供のようにぷいと顔を逸らし、布団に顔をうずめてしまう。
それから、オスティマは何度も水萌の体を揺するが、水萌は無視して入眠に専念する。
《午前七時半》
「水萌ちゃーん?」
コンコン、とノックの音がし、扉の向こうから水帆の声がかけられる。返事を待たず、扉を開ける水帆。
オスティマは慌てて布団の中に潜り込もうとするが、寝ぼけた水萌に跳ね飛ばされて、そのまま床へと転がってしまう。
それでも幸い、ぬいぐるみが自立して動いている様子は見られなかったようだ。
「水萌ちゃん? 起きなよー、さっき目覚まし鳴ってたよ。……って、えっ? なにこれっ?」
水帆は部屋の様子を見て、ぎょっと目を丸くする。
水萌の部屋は、ところどころ水でびしょ濡れになっていたのだ。
「ちょっと水萌ちゃん? 起きてよー、なあにこれ? なんで部屋中びしょ濡れなのよ」
「う、んん……。だってぇ、何回やっても、うまくいかないんだもん。よーやく『れんきん』が出来たと思ったら、すぐに水に戻っちゃってえ……」
「は? 何言ってるの?」
「――――、はっ」
つい寝ぼけて、水帆に『水精錬金』の特訓のことを言ってしまった。そのことに気付き、ようやく意識がはっきりと覚醒した。
「なに寝ぼけてるのか知らないけどー……。水をこぼしちゃったんならちゃんと吹かないと。ていうか、こぼしたってレベルじゃないよ。寝ぼけて水ぶちまけたの?」
「う、うん……」
「もー、ドラコだって床に転がってびしょびしょになっちゃってるよ?」
抵抗なく水浸しの床に転がったせいで、ずぶ濡れになってしまったオスティマ。動くさまを水帆に見られないようにするため、水に濡れるのを回避できなかったのだ。
「もー、仕方ないな。私が干しとくから、水萌ちゃんはすぐに支度済ませなよね」
水帆はそう言ってぬいぐるみを拾い上げようとする。
「あっっ」
それを見て、水萌はがばっと起き上がって制止する。
「いい、いいからっ、あたしが自分でやるから!」
「……う、うん。まあ自分でやるならいいけど……」
異様に慌てた様子の水萌をいささか訝しんだ様子の水帆、さらに部屋中が水浸しなのもまったく意味不明だと思うが、深く追求している場合ではない。
「とにかく、早く準備しないと遅刻しちゃうよ。急ぎなよ?」
「うんっ、分かった」
むぎゅ、とドラコを抱きかかえた水萌は、そう言って誤魔化すような笑みを見せながら頷く。つくづく怪しいが、まあ寝ぼけているのだろう、と納得して水帆は部屋を出る。
「ふう、危ないとこだった……」
『安心していいのか? めっちゃ怪しまれてると思うが』
「う、うるさいな、元はと言えばドラコが……、って、もう言い合ってる暇ないよ、早く準備しなくちゃ!」
時計を見た水萌は慌てて着替えを始めた。
……だが、視線を感じて振り返る。
宙に浮くぬいぐるみが、少女の着替えを堂々と覗き見ていた。
「あっち向いててよッ!」
激昂した水萌が、ぬいぐるみに対してグーパンチを放つ。もふっ、と柔らかい感触があった。
/
《午前十一時頃》
「水萌? 大丈夫?」
授業の合間。藤岡が水萌の席へやって来て、声をかけた。
「ふえ?」
「あんた、授業中ずっと寝てたじゃん。何回も先生に注意されてさ。水萌が授業中に居眠りするなんて、初めてじゃん」
「う、うん……。どうしても眠くって……」
十三歳の少女にとってまともな睡眠時間を取らずに授業へ臨むこと自体過酷であろうに、そのうえ夜も朝も意識をすり減らす術の特訓をやり通しで、授業に集中など出来る筈もなかった。
おかげで、午前の授業を二回受けたが、どちらも内容をほとんど覚えていない。
そんな調子で、一日、ほとんどまともに授業を受けられないままに放課後へと流れた。
《午後四時頃》
「ごめん、あたし、今日は部活休むよ」
ホームルームが終わり、部活行こ、とさっそく誘ってきた藤岡に対し、水萌は申し訳なさそうにそう返した。
「え、なんでっ? やっぱ体調悪いの?」
「う、うんまあ、そんなとこ」
寝不足で調子が万全でないのは事実だ。
ただ、授業時間を割いてそれなりに睡眠は取れ、今は水泳ができないほどの不調ではない。
というか、身の内に大規模な海のパワーを宿す水萌だ、せいぜい睡眠不足程度で泳ぐのに差し支えることもないのである。
部活を休むのは、水泳よりも他に『練習』をしたいことがあるから。
今日は早く帰ってこい、と、登校前にぬいぐるみから言いつけられたのだ。
「水帆にも言っといて。――じゃっ」
部活を休むと水帆に言うと、色々と過剰に心配されそうだ。彼女への報告を藤岡に託し、水萌は一人教室を出た。
毎日、水帆と共にする下校道を一人で辿るのは妙な違和感があった。仮病で部活を休んでしまったことへの罪悪感もあり、水萌の足取りはいささか浮かない。
だが、ゆっくりと歩いてはいられない。急ぎ、帰宅する。
「ただいま、ドラコ!」
帰宅すると、すぐに自室へ向かった。扉を開けると、まず、デスクの上でちょこんと座したぬいぐるみが目に入った。
『おう、待ってたぜミナモ! さあ、さっそく特訓だ。ホレ早く水を用意してこい』
「ちょ、ちょっと待ってよ、あたしまだ着替えもしてないんだから……」
急かしたてるぬいぐるみを宥め、水萌は制服から部屋着へと着替える。
もちろん、彼には向こうを向いているように言いつけるが、やはりその言いつけは破られる。激昂した水萌のグーパンチ、もふっと柔らかな感触。
/
《午後六時半》
『今日の夜には、敵が攻めて来る。地上侵略を狙う海底のテロリストどもが、生体兵器【海蟲】を放ってくるんだ。分かってるな、ミナモ?』
「そんな改めて言わなくても、分かってるよ!」
『ホントに分かってんなら、じゃあさっさと術を成功させてみろよ。【水精錬金】、その神髄たる水を媒介とした武器の精製ができなけりゃ、あのバケモノは倒せねえんだぜ?』
「だから、分かってるってば!」
む、として、水萌は再度試みる。
コップに注がれた水。それを、じっと見つめる。
水がふわりと浮き、空中で自在に形を成す様を想像した。
胸の内に、ポウと温かい力感が湧き立つのを確かに感じる。
それこそが術を成すためのエネルギー、かつて不思議な石に触れたときに得た『海の力』。そのエネルギーは水萌の意思に呼応し、水に対して、物理法則を無視した動きを与える。
彼女が思った通り、水はコップから離れて宙へと浮く。
球体となったのち、ぐねぐねと不規則に凹凸を生むように動く。やがて、ゆっくりと角ばった形へと変わっていく。――銃だ。透明な水が、大口径の自動拳銃を象った。
ここまでは、良い。
水を操り、自在に形を成す。これは『水精錬金』の初歩だ。
「ふ、んん……」
鼻から抜けるような声を出しながら、水萌は力む。形を成した水へ、さらなるエネルギーを注ぐよう強く意識を向けた。
すると、水で象られた拳銃、その銃身部分にコポコポ、と気泡が浮き立った。
拳銃の形を保ったまま、内部の水が渦を巻くように流れる。――そして、ゆっくりと黒や銀へと変色していく。
なめらかな水が、硬質な金属へと変質する。水によって象られた銃が、本物になるのだ。
「よ、よし、いーカンジ……」
ものすごい集中力を要するのだろう、水萌は眉間に深く皺を刻みながら銃を精製していった。
やがて。――コップに注がれていたただの水道水が、重厚な自動拳銃へと完全に姿を変えた。実際に弾丸が装填されているので、現実的に言えばこの時点で銃刀法違反になるのではないだろうか。……などと、案ずる余裕はない。
「ふっ、ん、……っ」
胸の前で拳を握り、なにかを必死に耐えるかのように苦しそうな声を出す水萌。
「うぐぅ……」
その目は、宙に浮く銃器へと向けられている。
「あっ。だめっ」
と、水萌が情けない声を上げた途端。
拳銃が、弾けた。
その形を留めきれず、瞬く間に水へと帰化して炸裂する。……びしゃびしゃ、と、水が部屋の床へ濡れ広がってしまう。
『――十秒』
ピ、と。短い電子音が鳴るとともに、オスティマが秒数を読み上げた。
水萌の携帯電話のタイマーを使用し、彼女が術によって武器精製できるタイムを記録していたのだ。
ちなみに、オスティマはタッチペンをその柔らかな手に挟み込んで、画面を操作する。ぬいぐるみの手では、静電容量方式のタッチ画面に反応できないのである。
『武器を精製できること自体はある程度安定してきたが、それでも留めておけるのは今のところ十秒が限界みたいだな』
「うう……」
『引き出し率は、90%にちょい満たないぐらいか。術を完璧に扱い切れるには、まだもうちょっと遠いな……』
帰宅後、二時間ほど経過した。
その間、術の特訓を続けているが、何度やってもその結果は変わらない。どれほど踏ん張っても、水から錬金して精製した武器を留めおけないのだ。すぐに水となって散って、こうして床を濡らしてしまう。
初めの夜は、あれほど自由に術を使えたのに。
そして、今日の夜は戦いの本番だというのに。
「どっ、どーしよ、ドラコ! ぜんぜんうまくいかないよ。これじゃあ、まともに戦えないよね……っ!?」
いよいよ、水萌にも焦りが出てきた。悲痛な表情でぬいぐるみにすがる。
『…………』
オスティマは、しばし黙した後、落ち着いた様子で言った。
『いや。これでもなんとかなるかもしれん』
「え?」
『思い出して見ろ。始めの夜、【海蟲】と戦ったとき。あのときは……』
と、オスティマが提言してきたのは、『作戦』だ。
『海蟲』との戦いにおける作戦。彼の話を聞いて、確かに、と水萌は納得した。
数時間後に迫る戦いへの不安がひとまず拭えたところ。――突然、ガチャガチャ、と、玄関扉のカギが回される音が聞こえた。
「あっ。水帆だ」
時計を見て、ハッとした。ちょうど、本来なら部活を終えて帰宅するぐらいの時刻。水帆が帰って来たのだ。
「水萌ちゃーん?」
水帆はすぐ玄関横の階段を上がり、さっそく水萌を呼んできた。水萌は急いでオスティマに隠れるよう指示する。オスティマは、慌てて布団の中に潜りこんだ。
「入るよ?」
「あっ、ちょ、待……」
水萌が慌てて制止しようとするも、水帆は構わず戸を開けた。
「…………」
部屋の様子を見て、怪訝な顔をする水帆。
「なんで、またこんなに床がびしょ濡れになってるの……?」
今、術に失敗して撒水されてしまったばかり。なぜか水浸しになっている床……今朝と同じだ。
「お、お水飲もうとしたら、こぼしちゃって」
「なにそれ、……もしかしてものすごく体調悪くてコップもまともに持てなかったの? だ、大丈夫!?」
「え? いや別に、そんなことは……」
「でも水萌ちゃんが部活休むなんてよっぽどじゃない! ホント大丈夫!?」
「ああ、うん。まあ……」
「いいから、私が床拭くから、水萌ちゃんは寝てなよ、ほら」
「え、いやちょ、水帆……」
水帆は、水萌をベッドに促した。
部活を休んだのは実は仮病だったのだと言うわけにもいかず、とりあえず押されるままベッドに横になった。
むぎゅ、と。
尻に、柔らかい感触があった。
『おふっ』
オスティマだ。
布団の中に潜りこんでいたぬいぐるみ。水萌に尻で下敷きにされてしまい、思わず声を出してしまった。
「ん? なに、今の声?」
「へっ!? な、なに、なんか聞こえた?」
「うん。なんか男の人の声みたいな……」
「へえっ? そ、そんなの聞こえた? や、やだなあ、空耳じゃない?」
「空耳? それにしてはやけにはっきりと聞こえたけどなあ。……もしかして幽霊だったり? それだったらはっきり声が聞こえてくることもあるかもしれないしねー」
「……あ、う、うん。そうかもね。あははっ」
ぬいぐるみが喋ったなんてことを疑われると誤魔化すのが面倒である。
幽霊の声だと思って納得してくれるならもうそれで良いと思い、水萌はウンウンと頷いた。……だが、そんな水萌を、水帆はまた一層と訝しんで見る。
「あれ? 水萌ちゃん、どしたの? 私、今、ちょっといたずらのつもりで言ったんだけど。……だっていつも、『幽霊』なんて言葉聞くだけで途端に怖がるのに」
「あ」
確かに、冷静な状態でその言葉を聞いたら、それだけでぞっと恐怖心が沸き上がっていたかもしれない。色々と誤魔化そうと必死で、そこまで意識できていなかった。
「なに、もしかしていつも怖いと思うのにそれすら麻痺するぐらい、体の方が不調だってこと? ほ、ホントに、大丈夫っ!?」
「う、うぇーっと……。うん、ちょっと調子悪いんだけど、ね、寝れば平気だからさ! だから水帆、悪いけどそっとしといてくんない?」
もはやグダグダで、なんと言えばよいのか逡巡したあげく、水萌はもう勢いのままに体調不良を貫き通し、水帆を部屋から出すことにした。
「そ、そっか。騒いじゃだめだよね。うん、わかった。なんかあったら呼んでね?」
そう言うと、水帆は申し訳なさそうに部屋から出て行った。
『……おいミナモよ。さっさとどいてくれねえか』
布団の中からくぐもった声がした。
「あっ。ごめん!」
オスティマを尻で押し潰したままだった。ぬいぐるみの体は痛みを感じないが、とはいえ潰されたままでいい気はしないし、多少生き苦しくは思うのである。
「あぶなかったなぁ。もうちょっとで怪しまれるとこだった……」
『もう充分怪しまれてると思うがな』
布団から這い出てきたオスティマが、少々呆れた様子で言う。
『だが、大丈夫なのかよ、ミナモ』
「ん? なにが?」
『ミナホのやつ、お前のコトめちゃくちゃ心配してたぞ。お前、ものすごい体調が悪いってことになっちまって……これじゃあ、夜に家から出るのも苦労すんじゃねえか?』
「あっ」
今夜は、戦いの本番。
一人家を出て、海岸へ向かわなければならない。
……だが、こうも水帆に心配されていて、外出なんてできるだろうか。絶対止められる。
「ああっ、もう、どーすりゃいいのよー!」
《午後八時》
ドラゴンを模したぬいぐるみ『ドラコ』の中に魂を宿した、海底人オスティマ。
水萌が彼と出会ったのは、ちょうど二週間前となる。長いような短いような、少なくとも喋るぬいぐるみの存在がすっかり少女の日常の一部と化してはしまうぐらいの期間。
始めの夜から二週間が経過したこの日。夜。ここは町の端の磯浜海岸だ。
「もうすぐ、かな……」
――ごくり、と。
思わず喉を鳴らす水萌。
『ああ。必ず来る』
心細そうに海岸に立つ少女、その隣でふわりと浮いている赤いぬいぐるみ。オスティマは、落ち着いた様子で答えた。
「ね、ねえ。やっぱり敵が来るのはまだまだ先だった、ってことないの? 今日来るって情報、実は間違いだったとかならない?」
『何を言ってんだ。俺の姉貴が得た情報だぞ。優秀な姉貴だ、間違いはねえよ』
ああ、そう言えば以前そんなことを言っていたな、と水萌は思い出した。
オスティマが地上へ出て来る前、『クリティア』という彼の姉が敵の懐に潜りこんで得た情報なのだとかなんとか。
優秀な姉らしく、情報に間違いはあり得ないと言っていたが。今の水萌にとっては、その彼女の優秀さは疑いたい。今夜、海底の敵が生体兵器を地上世界へ向けて解き放つという情報が、間違いであってほしいと願う。
しかし、少女の願いは虚しく。
やはりオスティマの言う通り、彼の姉は優秀であったらしい。
淡い月明りに照らされた海岸に、突如、ざざざざざ――と水が激しく掻きまわる音が響く。夜の静寂を掻き消す水音は、次第に激しくなる。そして、闇の中に怪しい影が浮かび上がる。
暗い海。
その中に、不自然に、水柱が立ち上る。
渦巻き、白波を立てながら空へ向かって伸び、ゆっくりと径を増していく。
闇夜に浮かぶそれは異様に怪しく、少し恐怖演出的だ。少女の背にぞくり、と悪寒を走らせる。
水萌は極度の怖がりだ。
中から何が現れるか、知っているのに、暗闇の中に怪しく浮かぶ水柱――その様を見るだけで少し怖い。いっそ、早く正体を現してくれた方が良い。
やがて、渦巻く水柱が止まる。動きが止まった水が、海面へと流れ落ちていく。
……流れずに残ったのは、黒い卵型の物体。
どろりと粘ついた液体をまとっている、黒い球体が、海面一メートルほどの位置で宙に浮いている。
『出たな』
あれは、卵。
すぐに、亀裂が入っていく。パキ、ピリ、と音を立てながら筋が入り、中にいるモノが、殻を押し破ろうとしているのが分かる。
『よっしゃ、ミナモ! ――打ち合わせ通りにッ』
「うん、ドラコ!」
ぬいぐるみの言葉に、水萌はコクと頷いて答える。
キッと鋭い眼差しで、海から出現した不気味な卵を見据える少女――すっかり戦闘態勢の意識に切り替えられたので、幸い、つい今まで感じていたちょっとした恥じらいは脱ぎ捨てられた。
宙に浮かぶ黒い卵。
亀裂が広がり、ぽろ、とわずかに欠片が落ちる。
小さな穴ができ、中にいる『バケモノ』の体表の赤色がのぞいた。
それを確認した水萌は、ふっ、と気を絞り上げるように身構える。そして意識を集中させる。――『水精錬金』を発動させるため、身の内からエネルギーを沸き立たせる。
先制をとる作戦だ。
この場へ臨む前、オスティマと示し合わせていた作戦である。
……
…………
/
そもそもとして、この日の朝。
《午前4時頃》
『ミナモ! おい、起きろ!』
「んぅ……?」
顔に何か柔らかいものが押し付けられているのを感じて、水萌はゆっくりと目を開けた。
……寝覚めの直後でぼやけた視界ながらに、それははっきりと見えた。目の前には、視界を負い尽すほどの至近距離で赤いドラゴンのぬいぐるみが浮いていた。
短い手を伸ばし、水萌の頬をむにむにとつついている。
「ドラコ? おはょ……。なに? もう目覚まし鳴った?」
まだ開き切らない目をぐしぐしと擦りながら、水萌は起き上がった。
『目覚まし? いンや、まだ鳴ってねえけど』
「……へ?」
数秒のタイムラグの後、ようやくぱちっと開いた目。くりんと首を曲げ、ベッドそばの窓を見る。
カーテンのすき間から覗いた外の景色は、まだ十分な朝陽の明るみに包まれていない。
また首を回し、反対側に置いてある目覚まし時計を見る。
AM4:13。
目覚ましのセッティング時刻まであと三時間以上もある。
「あれ? なによう、まだこんな時間じゃん。起こさないでよー。あたし、もっかい寝るから」
『ちょっと待て、寝るんじゃねえよ!』
「えぇー、なんで」
『なんでって、決まってるだろ! 特訓だ! 早朝トレーニング、だよ!』
ぬいぐるみに魂を宿した海底人は、そう言ってずい、と身を乗り出してくる。
「うそ、こんな早朝からぁ?」
『当たり前だろ、……戦いはもう今日なんだ! 悠長に寝てられるか!』
「…………」
なるほど、彼の考えは分かる。
今日。オスティマと初めて会ってから、ちょうど二週間が経った。
それは、彼が始めに言っていた、敵が攻撃を仕掛けて来る日だ。この日の夜に、あの奇怪な生物が海より攻めて来る。水萌はそれと戦わなくてはならない。
そのためには、『水精錬金』を完全習得しなければならない。初歩たる『水の操作』に次ぎ、神髄たる『水を媒介とした金属の精製』――銃器なども思いのままに造り出せる術を扱えなければ、あのバケモノを倒しきることはできない。
二日前にようやく、その神髄へと片足を踏み入れた。保健室で突如として目覚めたのだ。
……ただ、それが安定しない。武器の精製などには至るが、形を維持させることが出来ず、すぐに水へと還帰してしまう。あと一歩なのだ。
昨日、深夜まで特訓は続いた。
昨日と言うか、もう日付が変わって今日になっていた。ついに水萌が根を上げて、「もうまじで寝かせて、あたしマジで徹夜とかムリだし、それこそあしたの夜に戦う気力なんてなくなっちゃうから!」と悲痛な訴えをし、ようやく就寝の許可を得られたのは何時ごろだったろうか。きっと二時とかそのあたり。
それからわずかに二時間しか経っていないではないか。これでは仮眠だ、睡眠とは呼べない。
「ちょ、こんな朝から特訓とかむり、眠いもん!」
『んなこと言ったって、術が使えなきゃ戦えないんだ。日中は学校があるんだから、朝早くにやるしかねえだろ』
「うえぇ、そんなことするぐらいなら学校休むよー」
『おいふざけんな、学校はちゃんと行かなきゃだめだろ』
「なんであんたが真面目なのよ」
たった二時間しか寝ていないのに、こんな朝早くから術の特訓などする気力は到底湧かない。しかし、このような早朝に彼と言い問答を続ける気力もなく、水萌はしぶしぶぬいぐるみに従った。
それから、三時間後。
《午前七時》
疲労と眠気でどんよりとした水萌の頭に、目覚ましのけたたましいアラーム音が容赦なく突き抜ける。暴力的な音量に、少女の視界はぐらりと揺れる。
「う……」
音停止のスイッチを押す手つきすら弱々しい。
『あー。もう時間が来ちまったか』
本来の起きる時間になってしまい、これで早朝の特訓は終了となってしまう。名残惜しそうなオスティマとは裏腹に、水萌はようやく終わるかと安堵の息をつく。
そのまま、ぼて、とベッドに倒れ込み、布団を愛しそうに抱き寄せた。
「ぉやすみぃ……」
『おいミナモ、何寝てんだよ、これから学校だろ!?』
「むりだよぉ……」
ほんの二時間しか寝ていないうえ、起きてすぐに気力をすり減らすほどの術の特訓……。
これから勉学に励むどころか身支度を整える気さえ湧かない。オスティマが肩を揺らすが、拗ねた子供のようにぷいと顔を逸らし、布団に顔をうずめてしまう。
それから、オスティマは何度も水萌の体を揺するが、水萌は無視して入眠に専念する。
《午前七時半》
「水萌ちゃーん?」
コンコン、とノックの音がし、扉の向こうから水帆の声がかけられる。返事を待たず、扉を開ける水帆。
オスティマは慌てて布団の中に潜り込もうとするが、寝ぼけた水萌に跳ね飛ばされて、そのまま床へと転がってしまう。
それでも幸い、ぬいぐるみが自立して動いている様子は見られなかったようだ。
「水萌ちゃん? 起きなよー、さっき目覚まし鳴ってたよ。……って、えっ? なにこれっ?」
水帆は部屋の様子を見て、ぎょっと目を丸くする。
水萌の部屋は、ところどころ水でびしょ濡れになっていたのだ。
「ちょっと水萌ちゃん? 起きてよー、なあにこれ? なんで部屋中びしょ濡れなのよ」
「う、んん……。だってぇ、何回やっても、うまくいかないんだもん。よーやく『れんきん』が出来たと思ったら、すぐに水に戻っちゃってえ……」
「は? 何言ってるの?」
「――――、はっ」
つい寝ぼけて、水帆に『水精錬金』の特訓のことを言ってしまった。そのことに気付き、ようやく意識がはっきりと覚醒した。
「なに寝ぼけてるのか知らないけどー……。水をこぼしちゃったんならちゃんと吹かないと。ていうか、こぼしたってレベルじゃないよ。寝ぼけて水ぶちまけたの?」
「う、うん……」
「もー、ドラコだって床に転がってびしょびしょになっちゃってるよ?」
抵抗なく水浸しの床に転がったせいで、ずぶ濡れになってしまったオスティマ。動くさまを水帆に見られないようにするため、水に濡れるのを回避できなかったのだ。
「もー、仕方ないな。私が干しとくから、水萌ちゃんはすぐに支度済ませなよね」
水帆はそう言ってぬいぐるみを拾い上げようとする。
「あっっ」
それを見て、水萌はがばっと起き上がって制止する。
「いい、いいからっ、あたしが自分でやるから!」
「……う、うん。まあ自分でやるならいいけど……」
異様に慌てた様子の水萌をいささか訝しんだ様子の水帆、さらに部屋中が水浸しなのもまったく意味不明だと思うが、深く追求している場合ではない。
「とにかく、早く準備しないと遅刻しちゃうよ。急ぎなよ?」
「うんっ、分かった」
むぎゅ、とドラコを抱きかかえた水萌は、そう言って誤魔化すような笑みを見せながら頷く。つくづく怪しいが、まあ寝ぼけているのだろう、と納得して水帆は部屋を出る。
「ふう、危ないとこだった……」
『安心していいのか? めっちゃ怪しまれてると思うが』
「う、うるさいな、元はと言えばドラコが……、って、もう言い合ってる暇ないよ、早く準備しなくちゃ!」
時計を見た水萌は慌てて着替えを始めた。
……だが、視線を感じて振り返る。
宙に浮くぬいぐるみが、少女の着替えを堂々と覗き見ていた。
「あっち向いててよッ!」
激昂した水萌が、ぬいぐるみに対してグーパンチを放つ。もふっ、と柔らかい感触があった。
/
《午前十一時頃》
「水萌? 大丈夫?」
授業の合間。藤岡が水萌の席へやって来て、声をかけた。
「ふえ?」
「あんた、授業中ずっと寝てたじゃん。何回も先生に注意されてさ。水萌が授業中に居眠りするなんて、初めてじゃん」
「う、うん……。どうしても眠くって……」
十三歳の少女にとってまともな睡眠時間を取らずに授業へ臨むこと自体過酷であろうに、そのうえ夜も朝も意識をすり減らす術の特訓をやり通しで、授業に集中など出来る筈もなかった。
おかげで、午前の授業を二回受けたが、どちらも内容をほとんど覚えていない。
そんな調子で、一日、ほとんどまともに授業を受けられないままに放課後へと流れた。
《午後四時頃》
「ごめん、あたし、今日は部活休むよ」
ホームルームが終わり、部活行こ、とさっそく誘ってきた藤岡に対し、水萌は申し訳なさそうにそう返した。
「え、なんでっ? やっぱ体調悪いの?」
「う、うんまあ、そんなとこ」
寝不足で調子が万全でないのは事実だ。
ただ、授業時間を割いてそれなりに睡眠は取れ、今は水泳ができないほどの不調ではない。
というか、身の内に大規模な海のパワーを宿す水萌だ、せいぜい睡眠不足程度で泳ぐのに差し支えることもないのである。
部活を休むのは、水泳よりも他に『練習』をしたいことがあるから。
今日は早く帰ってこい、と、登校前にぬいぐるみから言いつけられたのだ。
「水帆にも言っといて。――じゃっ」
部活を休むと水帆に言うと、色々と過剰に心配されそうだ。彼女への報告を藤岡に託し、水萌は一人教室を出た。
毎日、水帆と共にする下校道を一人で辿るのは妙な違和感があった。仮病で部活を休んでしまったことへの罪悪感もあり、水萌の足取りはいささか浮かない。
だが、ゆっくりと歩いてはいられない。急ぎ、帰宅する。
「ただいま、ドラコ!」
帰宅すると、すぐに自室へ向かった。扉を開けると、まず、デスクの上でちょこんと座したぬいぐるみが目に入った。
『おう、待ってたぜミナモ! さあ、さっそく特訓だ。ホレ早く水を用意してこい』
「ちょ、ちょっと待ってよ、あたしまだ着替えもしてないんだから……」
急かしたてるぬいぐるみを宥め、水萌は制服から部屋着へと着替える。
もちろん、彼には向こうを向いているように言いつけるが、やはりその言いつけは破られる。激昂した水萌のグーパンチ、もふっと柔らかな感触。
/
《午後六時半》
『今日の夜には、敵が攻めて来る。地上侵略を狙う海底のテロリストどもが、生体兵器【海蟲】を放ってくるんだ。分かってるな、ミナモ?』
「そんな改めて言わなくても、分かってるよ!」
『ホントに分かってんなら、じゃあさっさと術を成功させてみろよ。【水精錬金】、その神髄たる水を媒介とした武器の精製ができなけりゃ、あのバケモノは倒せねえんだぜ?』
「だから、分かってるってば!」
む、として、水萌は再度試みる。
コップに注がれた水。それを、じっと見つめる。
水がふわりと浮き、空中で自在に形を成す様を想像した。
胸の内に、ポウと温かい力感が湧き立つのを確かに感じる。
それこそが術を成すためのエネルギー、かつて不思議な石に触れたときに得た『海の力』。そのエネルギーは水萌の意思に呼応し、水に対して、物理法則を無視した動きを与える。
彼女が思った通り、水はコップから離れて宙へと浮く。
球体となったのち、ぐねぐねと不規則に凹凸を生むように動く。やがて、ゆっくりと角ばった形へと変わっていく。――銃だ。透明な水が、大口径の自動拳銃を象った。
ここまでは、良い。
水を操り、自在に形を成す。これは『水精錬金』の初歩だ。
「ふ、んん……」
鼻から抜けるような声を出しながら、水萌は力む。形を成した水へ、さらなるエネルギーを注ぐよう強く意識を向けた。
すると、水で象られた拳銃、その銃身部分にコポコポ、と気泡が浮き立った。
拳銃の形を保ったまま、内部の水が渦を巻くように流れる。――そして、ゆっくりと黒や銀へと変色していく。
なめらかな水が、硬質な金属へと変質する。水によって象られた銃が、本物になるのだ。
「よ、よし、いーカンジ……」
ものすごい集中力を要するのだろう、水萌は眉間に深く皺を刻みながら銃を精製していった。
やがて。――コップに注がれていたただの水道水が、重厚な自動拳銃へと完全に姿を変えた。実際に弾丸が装填されているので、現実的に言えばこの時点で銃刀法違反になるのではないだろうか。……などと、案ずる余裕はない。
「ふっ、ん、……っ」
胸の前で拳を握り、なにかを必死に耐えるかのように苦しそうな声を出す水萌。
「うぐぅ……」
その目は、宙に浮く銃器へと向けられている。
「あっ。だめっ」
と、水萌が情けない声を上げた途端。
拳銃が、弾けた。
その形を留めきれず、瞬く間に水へと帰化して炸裂する。……びしゃびしゃ、と、水が部屋の床へ濡れ広がってしまう。
『――十秒』
ピ、と。短い電子音が鳴るとともに、オスティマが秒数を読み上げた。
水萌の携帯電話のタイマーを使用し、彼女が術によって武器精製できるタイムを記録していたのだ。
ちなみに、オスティマはタッチペンをその柔らかな手に挟み込んで、画面を操作する。ぬいぐるみの手では、静電容量方式のタッチ画面に反応できないのである。
『武器を精製できること自体はある程度安定してきたが、それでも留めておけるのは今のところ十秒が限界みたいだな』
「うう……」
『引き出し率は、90%にちょい満たないぐらいか。術を完璧に扱い切れるには、まだもうちょっと遠いな……』
帰宅後、二時間ほど経過した。
その間、術の特訓を続けているが、何度やってもその結果は変わらない。どれほど踏ん張っても、水から錬金して精製した武器を留めおけないのだ。すぐに水となって散って、こうして床を濡らしてしまう。
初めの夜は、あれほど自由に術を使えたのに。
そして、今日の夜は戦いの本番だというのに。
「どっ、どーしよ、ドラコ! ぜんぜんうまくいかないよ。これじゃあ、まともに戦えないよね……っ!?」
いよいよ、水萌にも焦りが出てきた。悲痛な表情でぬいぐるみにすがる。
『…………』
オスティマは、しばし黙した後、落ち着いた様子で言った。
『いや。これでもなんとかなるかもしれん』
「え?」
『思い出して見ろ。始めの夜、【海蟲】と戦ったとき。あのときは……』
と、オスティマが提言してきたのは、『作戦』だ。
『海蟲』との戦いにおける作戦。彼の話を聞いて、確かに、と水萌は納得した。
数時間後に迫る戦いへの不安がひとまず拭えたところ。――突然、ガチャガチャ、と、玄関扉のカギが回される音が聞こえた。
「あっ。水帆だ」
時計を見て、ハッとした。ちょうど、本来なら部活を終えて帰宅するぐらいの時刻。水帆が帰って来たのだ。
「水萌ちゃーん?」
水帆はすぐ玄関横の階段を上がり、さっそく水萌を呼んできた。水萌は急いでオスティマに隠れるよう指示する。オスティマは、慌てて布団の中に潜りこんだ。
「入るよ?」
「あっ、ちょ、待……」
水萌が慌てて制止しようとするも、水帆は構わず戸を開けた。
「…………」
部屋の様子を見て、怪訝な顔をする水帆。
「なんで、またこんなに床がびしょ濡れになってるの……?」
今、術に失敗して撒水されてしまったばかり。なぜか水浸しになっている床……今朝と同じだ。
「お、お水飲もうとしたら、こぼしちゃって」
「なにそれ、……もしかしてものすごく体調悪くてコップもまともに持てなかったの? だ、大丈夫!?」
「え? いや別に、そんなことは……」
「でも水萌ちゃんが部活休むなんてよっぽどじゃない! ホント大丈夫!?」
「ああ、うん。まあ……」
「いいから、私が床拭くから、水萌ちゃんは寝てなよ、ほら」
「え、いやちょ、水帆……」
水帆は、水萌をベッドに促した。
部活を休んだのは実は仮病だったのだと言うわけにもいかず、とりあえず押されるままベッドに横になった。
むぎゅ、と。
尻に、柔らかい感触があった。
『おふっ』
オスティマだ。
布団の中に潜りこんでいたぬいぐるみ。水萌に尻で下敷きにされてしまい、思わず声を出してしまった。
「ん? なに、今の声?」
「へっ!? な、なに、なんか聞こえた?」
「うん。なんか男の人の声みたいな……」
「へえっ? そ、そんなの聞こえた? や、やだなあ、空耳じゃない?」
「空耳? それにしてはやけにはっきりと聞こえたけどなあ。……もしかして幽霊だったり? それだったらはっきり声が聞こえてくることもあるかもしれないしねー」
「……あ、う、うん。そうかもね。あははっ」
ぬいぐるみが喋ったなんてことを疑われると誤魔化すのが面倒である。
幽霊の声だと思って納得してくれるならもうそれで良いと思い、水萌はウンウンと頷いた。……だが、そんな水萌を、水帆はまた一層と訝しんで見る。
「あれ? 水萌ちゃん、どしたの? 私、今、ちょっといたずらのつもりで言ったんだけど。……だっていつも、『幽霊』なんて言葉聞くだけで途端に怖がるのに」
「あ」
確かに、冷静な状態でその言葉を聞いたら、それだけでぞっと恐怖心が沸き上がっていたかもしれない。色々と誤魔化そうと必死で、そこまで意識できていなかった。
「なに、もしかしていつも怖いと思うのにそれすら麻痺するぐらい、体の方が不調だってこと? ほ、ホントに、大丈夫っ!?」
「う、うぇーっと……。うん、ちょっと調子悪いんだけど、ね、寝れば平気だからさ! だから水帆、悪いけどそっとしといてくんない?」
もはやグダグダで、なんと言えばよいのか逡巡したあげく、水萌はもう勢いのままに体調不良を貫き通し、水帆を部屋から出すことにした。
「そ、そっか。騒いじゃだめだよね。うん、わかった。なんかあったら呼んでね?」
そう言うと、水帆は申し訳なさそうに部屋から出て行った。
『……おいミナモよ。さっさとどいてくれねえか』
布団の中からくぐもった声がした。
「あっ。ごめん!」
オスティマを尻で押し潰したままだった。ぬいぐるみの体は痛みを感じないが、とはいえ潰されたままでいい気はしないし、多少生き苦しくは思うのである。
「あぶなかったなぁ。もうちょっとで怪しまれるとこだった……」
『もう充分怪しまれてると思うがな』
布団から這い出てきたオスティマが、少々呆れた様子で言う。
『だが、大丈夫なのかよ、ミナモ』
「ん? なにが?」
『ミナホのやつ、お前のコトめちゃくちゃ心配してたぞ。お前、ものすごい体調が悪いってことになっちまって……これじゃあ、夜に家から出るのも苦労すんじゃねえか?』
「あっ」
今夜は、戦いの本番。
一人家を出て、海岸へ向かわなければならない。
……だが、こうも水帆に心配されていて、外出なんてできるだろうか。絶対止められる。
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