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シーズン1/第二章

□あくあついんず□⑦

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 そろり、と。

 音を立てないよう、慎重に玄関扉を開ける。


 一ノ瀬宅は、玄関のすぐに近くに二階に上がる階段がある。幸いであった。おそらく母と姉は居間にいるだろうし、父は二階の書斎にいる筈だ。誰にも見とがめられず、自室へ駆け込むことは可能である。

 水萌は、逸る鼓動を落ち着かせるように息を吐きながら、玄関へ入り、静かに扉を閉めた。

 彼女は、紺色のスクール水着の姿である。体のラインがハッキリ出る、ナイロン素材のワンピース型水着。スク水に、靴下と靴だけ履いている。腕にはドラゴンを模した赤いぬいぐるみを抱える。

 海岸からここまで来るのも大変だった。閑静かんせいな住宅街で、夜に出歩く人はそういないが、皆無でもない。人の気配がしたり車のエンジン音が聞こえたりしたら慌てて電柱の影に隠れ、なんとか家まで帰って来た。
 夜、スク水姿で出歩いているのを近所の人に見られるなんて、絶対に避けなければならない。
 一ノ瀬姉妹の妹はいささか変態的な趣味があるのだと、噂になってしまう。


 それもこれも、すべてこのぬいぐるみ――ドラコのせいだ。彼との魂リンクの儀式の際、『水精錬金アクアアルケミー』の力を利用して、ついでに水萌の服を水着へと変質させてしまった。
 今思い返しても、あの場面で水萌を水着姿に変えてしまう必要など全くなかったではないか。水萌は怒りの感情を思い出して力が入り、むぎゅ、と彼女の胸の中でぬいぐるみが潰れる。

『おい、そんなに強く締めるなよ』
「ちょ、うるさいな、声出さないで」

 小声でぬいぐるみを叱責して、水萌は足音を殺して歩く。廊下の先、居間の扉が開いて誰かが出てこないよう祈りつつ、すぐ近くの階段を上って行く。

 階段の踊り場まで来て、ひょこっと顔を出す。二階の廊下には誰もいない。――よし、と心を決め、それから一気に階段を駆け上がって自分の部屋へと飛び込んだ。

 ばたんっ、と、扉を背で締めた。


「――――っ、……ふううぅ」

 緊張の糸を解き、肩で息をする水萌。両肩が激しく上下しても、ぴちっと肌を締める肩紐部はズレ下がることはない。

「ああ、キンチョーしたぁ。なんかもう、さっき海岸でバケモノと戦ったときより精神的にきついよ……」
『なんだよ、大袈裟だな』

「なによその言い方! もとはと言えばドラコのせいでしょ! ……っていうか! 今思ったけどさ、あたしの着てた服がこの水着になっちゃってるなら、あの服はもう無くなっちゃったってことじゃないの? 下着もだよ! アレけっこーお気に入りだったのに!」

『なんだよ。お前の下着なんてどーせ、どれもこれも子供じみたヤツばっかだろ。そんなもん、全部同じだ。一つや二つ無くなっても変わんねえよ』
「なにをおっ!?」

 激昂した水萌は、ぬいぐるみに対してグーパンチを放っていた。もふっ、と柔らかい感触があった。

『い、いってえな……あ、いや、痛くはねえんだが。そんなに言うなら、ミナモが自分で元に戻せばいいんだ。服を水着に変えたのは【#水精錬金__アクアアルケミー】の力だ。術の力を使えば、元に戻すことだってカンタンだぜ?』

「む。……そんなの、できるならとっくにやってるよ」

 それが、できないから、水着姿のままこうして帰って来たのだ。


 ついさっき、まだ三十分も経っていないほどだ。水萌は、海からやって来た奇怪な怪物を倒した。
 『#水精錬金__アクアアルケミー』という不思議な力を使い、水を意のままに操り、そして水を媒体にして金属を精製、普段FPSゲームをやっているために馴染みのあった短機関銃や対物ライフルといった銃器を造り出し、バケモノを撃ち殺したのだ。

 まさにゲームの中のような、不思議な術。それを自分が自在に扱っているというのは、得も言われぬ感覚だった。

 だがその感覚も、バケモノを打ち破ったそのあと、すぐに消えてしまった。家へ帰る前に、水着姿のこの格好を何とかしなくては、と思ったところ、そのときすでに術が使えなくなっていたのだ。

 ついさきほどまで胸の内にあったはずの感覚が、今はすっかり消えてしまっている。まるで無意識の底に沈んでしまったかのようだ。
 その感覚を再び浮上させようと意識しても、どうにもうまくいかない。あの不思議な術の『使い方』を、思い出せない。それが非常にもやもやとする。


 水萌は、なんとなくやるせないような気持ちになり、ふう、と息を吐く。

「ドラコ。あたし着替えるから。ちょっとあっち向いてて」
『ん? しょーがねえな。まあ、ちんちくりんの体に別に興味もねえからいいけどよ』

 海底人の言葉にむ、と頬を膨らませるが、もういちいち怒るのも面倒なので、黙って着替え始める水萌。
 肩紐に指を差し込んで引き延ばし、腕を抜いたあと、胸元から足の方へ向けてするすると水着を下げていく中、水萌は思う。

 服が水着に変わってしまったまま元に戻らない、というのはさておき、術が使えなくなってしまったことについてはもう一つ大きな懸念がある。


 あの気味の悪いバケモノ……。あれは、『#水精錬金__アクアアルケミー』という術が使えたからこそ、容易に倒すことが出来た。
 だが、それがなければ、水萌はただの人間だ。
 いや、幼い頃に『海龍シーロンのウロコ』に触れ、その影響を受けて色々と能力が底上げされているので、ただの人間、ということもないだろうが。
 それでも、術を用いなければあんなバケモノと戦うことはできない。

 それが、今は術を扱えないのだ。


「ねえドラコ。あのバケモノは、また次にも襲って来るって言ってたよね」
『ああ。さっき倒したアレは、おそらくまだ試作品。敵の本格的な攻撃予定日は二週間後。それはきっと変わらねえと思う』

「試作品……。じゃあ、完成したホンモノが、また二週間後に襲って来るの……?」
『ああ。アレは【海蟲シーワーム】と呼ばれる生体兵器。俺も見るのは初めてだったんだがな。もっとでけえバケモノを想像してたが、思ったよりも小さかったのはよかったぜ。とはいっても、あれはせいぜい試作品なんだろうがな』

「しー、わーむ……」
 脱ぎ終えたスクール水着を、ぽい、と床に投げながら、水萌は復唱した。

 聞き馴染みのない言葉である。

 ワーム、とはすなわち、虫のことか。虫の中でもとりわけ細長い体を持つものの総称である。ミミズやケムシなどのほか、特に『寄生虫』に多く見られる。

 さきほど見たのは、足があった。確かに、足がある蠕虫ぜんちゅう様のものを『足つき蠕虫』などと呼ぶこともあるが、あの多足のバケモノはあまり『ワームらしい』とは言えないように思えた。
 特に形態を変えたあとの姿などは、どう見ても蠕虫らしくもない。……まあ、別に『海蟲シーワーム』と呼ばれるものが実際にはワームらしくなかったところで、水萌にはどうでもよいが。


『俺が体を捨てて魂だけで出てきているように、海底人は地上へは出てこれないんだ。海底で生活している俺らは、陽の光のもとで活動できない。……敵のテロリストどもは、独自に作り出した生体兵器を送り込んで、地上侵略の足掛かりにしようとしてる。
 それが、【海蟲シーワーム】。
 見ての通り、デカイ虫みたいな気味の悪いバケモノだからな。ミナモが、ああいうのに耐性があるってのは幸いだったよ。普通、アレだろ。女の子って大抵はあんなグロテスクな生物って気味悪がるもんだろ』

「うん、まあ、そうだね。あたしは大丈夫だけど……水帆は無理だっただろーね。あの子、虫とかまじで苦手だから」
『そうなのか』

「だから、まあ、そっか……。あたしで、よかったよ」
『何がだ?』

「あなたと魂リンクを交わして、力を引き出せるのは、あたしか水帆のどっちかだけ――戦うのはどちらか一人、ってことだったでしょ? あの子には話さずに勝手にあたしがやるって決めちゃったわけだけど。それで正解だったよ。だって水帆じゃ、あの敵とはとてもじゃないけど戦えないはずだよ」


 一ノ瀬姉妹は、基本的に、二人とも共通して『怖がり』である。

 ただし、恐怖する対象が違う。水帆は虫に対しての耐性が著しく低い。確かに彼女らほどの年頃の少女の大多数が虫を嫌悪するだろうが、水帆のそれは別格だ。触れるのは論外だし、目にするだけでも怖気が背筋を駆け抜ける。いやもっと、話に聞くだけでも堪らない。

 対して水萌は虫への耐性が強い。その代わり、幽霊やお化けとか、単純に暗がりの中とか、そういうことを異様に怖がる。

 二人して生来の『怖がり』であることは共通しているが、そのジャンルが違う。
 そんな二人のうち、海底から繰り出される敵生物との戦いにおいては、図らずも水萌の方が適任であったというわけだ。

 だが。

「でも、今のままじゃあたしも戦えないわけだよね。『#水精錬金__アクアアルケミー』っていうのを、使えるようにならなくちゃ」

 そうなのだ。あのバケモノの姿に抵抗がなかろうとも、『#水精錬金__アクアアルケミー』の力がなければバケモノに対抗はできない。

『そうだぜ、ミナモ! 戦うには【#水精錬金__アクアアルケミー】を自由に扱えるようにならなきゃならねえ。そのために、お前の中に宿る【大いなる海の力】を引き出せるようにならなくちゃな。今のお前の引き出し率はせいぜい10%ってとこだ』

「だからなによ、引き出し率って。なんか変な言い回しね」

『術を使いこなすには、当然、引き出し率100%にまで至る必要がある。……そのためには、特訓だ!
 大丈夫、今日のアレはせいぜい試作段階。生体兵器が完成して、地上へ本格的に投入されるのは二週間後――それまでに、【#水精錬金__アクアアルケミー】をマスターしてみせるんだ、ミナモ! ……さっそく、今からでも特訓を始めよーぜ!』

 これからの戦いへ向けて奮起したためか、オスティマはそう言ってくるりと水萌に向き直る。
 ……水萌はまだ、衣装ケースから下着を取り出している最中だった。すなわち、裸である。

「ちょっ、あっち向いててって言ったでしょ!」
『ああ、すまんすまん。いやでも、さっき言った通りお前みたいにちんちくりんの体見たって何とも思わねえって……』
「うるさいッ!」

 またも激昂した水萌が、ぬいぐるみに対してグーパンチを放つ。
 もふっ、と柔らかい感触があった。


        /


 次第に夜も更けてきた。日付が変わる直前といったところだ。
 普段から、よく夜遅くまでゲームをしている。このぐらいの時間なら、まだ床に入ろうとも思わない。

「むむ……」

 水萌は小さく唸るようにして、目の前のモノをじいっと見つめる。見つめるというより、睨み付けるという方が正しい。
 部屋の中央に置かれた丸テーブル。テーブルの上には、透明なグラスが置かれている。グラスの中には、水。ただの水道水である。

「むむむぅ……」
 眉間にしわを寄せながら、水萌はなおも水の入ったグラスを睨み続ける。

『意識を集中するんだ!』
 横からオスティマが声をかける。

『意識を集中して、そしてイメージしろ。水が自由に動くところを!』
「…………」

 より感覚を研ぎ澄ませるため、今度は目を閉じる水萌。眉間のしわを一層深くし、彼に言われた通りに、水が動き回る様を頭に思い描く。

 ――だが、だめだ。
 十秒、二十秒と経っても、グラスの中の水に変化はない。


「…………、やっぱだめだよ」
 ふへぇ、と息を吐き、水萌は情けない声で言った。

『何言ってんだ、ついさっきはできたことなんだぞ。できるはずだ!』
 『#水精錬金__アクアアルケミー』。海からやって来るバケモノを倒すために、その術をまた再現できるようにならなくてはならない。
 間を置かずに、もうその特訓を開始した。
 特訓、といっても、激しいトレーニングのようなことをするわけではない。


 かの術は、理屈や原理を理解したうえで使うようなものではない。
 ともすれば魔法ともいうべき超自然的な術。
 それを扱うための『エネルギー』は少女の身の内に宿っているわけで、あとはただ力を引き出し、『感覚』を掴めばよいだけなのだ。

 だが、うまくいかない。


『オイオイ、【#水精錬金__アクアアルケミー】の中でも、意思の力で水を自在に操るのは初歩中の初歩だぜ。これぐらいは、すぐにできると思ってたんだが。こんな調子で大丈夫かよ、ミナモ』

 敵の生体兵器が本格投入されるのはまだ先なので大丈夫だ、と言っていたくせに、いざ水萌が術の初歩さえ再現できない様を見ると、ころりと態度を変えて彼女をなじる。

『ホレ、踏ん張れ! 根気見せろ!』

 雑なエールを受け、水萌はしぶしぶとまたテーブル上のコップに視線を向ける。
 彼女だって、つい数時間前にはできたことが今はさっぱりできないのが、とてももどかしく感じるのだ。だが、そうしてもどかしく思うせいで余計に集中力が保てなくなるし、横からオスティマがヤジを入れて来るのでなおさらだ。

 一分、二分と経てども、水に変化はない。


「うがああああああ、やっぱムリっっっ! できっこないよーっ!」
 水萌は、叫んだ。

 直後、どんっ、と壁を拳で強く打つ音が聞こえる。いわゆる壁ドンだ。隣は、水帆の部屋である。
 途端、委縮する水萌。

「…………。今日はもう、この辺にしとこーよ、ドラコ」
『お、おう。そうだな……』

 お互い目を合わせてそう言い、特訓初日は、特に何の成果もなく終えられた。


 果たしてこの調子で、『#水精錬金__アクアアルケミー』の操作を『思い出し』て、来る敵生物との戦いを凌ぐことができるのか。

 力が活性していた時に扱えていた術、あの不思議な『感覚』は、意識の底に沈み込んだまま……胸の奥でうっすらと燻る力をもどかしく感じながら、水萌はベッドに入った。
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