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十二(三)
しおりを挟む「ただいま。」
いつものように和室の前で声をかける。
「遅くなってごめんな。」
シンと静まり返ったアパート。ここに潜んでたモンはみんな逃げちまったから、ここは一気に静かになった。バタバタ走り回る音も、ボソボソ話す声も、勝手にシャワーが流れる音も、部屋が揺れてガタガタと鳴る音も、ガラスを叩く音も、なんにもしない。にぎやかだったあの空間にすっかり慣れて、こんなに静かなのが少し寂しいと思ってる俺は、半分どころかすでに人間じゃないのかもしれない。
「……ごめんな。」
人間じゃなかったとしても、俺は門の男と同じくらい無力だ。誰も助けてやることができない。そりゃあそうだ、今までアラタに助けられてばかりだった俺に、アラタを救える力などあるわけがない。
早く眠らなくてはならないのに、俺は部屋に荷物を置いて一服すると、貴正さんの部屋に上がった。時刻はまもなく3時だ。
ピアノの前に座ってみても、当然のごとく曲なんか弾けない。貴正さんが宿ってなければ、このピアノは壊れたままで使い物にもならない。あの曲、思うままに弾けたら気持ちいいだろうな。無意識に弾かされてたはずなのに、俺にも貴正さんがそのときばかりは晴れやかな気分なのが伝わるのだ。
貴正さんにも、謝らなくちゃ。アラタをひとりじめしようとしたこと。真相に触れることを恐れて、気づかないふりをし続けたこと。もしも八雲さんの言うとおり、死者の行くべき場所があるのなら、ふたりをそこに送ってやらなくちゃならない。
アラタは俺のものにはならない。死者と生者だからじゃない。ふたりの愛に、俺が割り込むことはできない。アラタのあたたかい身体を知ってるのは、世界中で貴正さんひとりしか居ないのだ。
「…………。」
背後に立っていたアラタの指先が、ピアノの前でうつむく俺の頬を撫でた。さっきからずっとそこに居たのは知ってるけど、会いたいと思っていたのに、顔を見るのが恐ろしかった。だってもし顔を見たら、このまま憑り殺してくれと懇願してしまいそうだから。命と引き換えに、アラタとずっと一緒にいたいと願ってしまうから。だから振り向かないで、黙って階段を降りていかなくちゃならないのだろう。できればそのまま荷物をまとめて、この家からも出て行かなくちゃ。
「………アラタ、ごめんな。」
でもそんなこと出来るなら、俺はとっくにここから出て行ってたはずだ。社長から給料を前借りしてでも、無理して引っ越してたはずだ。それができないから、俺は人間を失いかけても尚ここにいる。
「……貴正様は、もう此処にはいません。」
うつむく俺の肩を抱く。
「僕を残していきたくないと仰いましたが、さっきのキツネに説得され、あなたを信じ、すべてを託すことにして、彼に連れて行かれました。」
肩に置かれた冷たい手を握る。八雲さん、いつの間に貴正さんを……。
「先に行って待ってるから、って。まだお姿を見ることは叶いませんでしたが、お声を聞けたのは何十年ぶりだろう。」
背後で微笑んでいるのだろうか。手は冷たいが、声は優しい。
「あなたが海で授かった力は、僕のものよりもずっと強大だ。彼はここで殺されてから、形にすらなれず、声も出せず、ピアノに取り憑くことしかできなかった。……僕のためにここに残っていたのに、僕の憎悪に押しつぶされて。でもあなたが来てくれたから、彼はようやく力を得たのです。」
俺の手からそっと指先がすり抜けていく。アラタの手を、握れなくなっていた。手だけじゃない。腕も背中も服の裾にも、もう触れられない。冷たい肌を虚しくすり抜けて、俺の手は空を切るだけだった。アラタは俺の絶望など意にも介さぬように窓辺に立つと、「今夜は月がきれいですね。」とおだやかに言って、手を後ろに組み、夜空を仰いだ。出会った日と同じ、白いシャツに灰色のズボン。ここで死んだ日にも、この姿だったのかもしれない。
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