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ⅳ
しおりを挟むー「佐野、それよりお前さんはいつもうすぼんやりさせるが、実のところを教えてくれよ」
ゲーテがワイングラスを傾ける。
「実のところ?」
「……深入りするのは野暮だが、お前はよそに祀られとる男だろう。このクロに会いに来たのはいいとして、その理由も、それまでの来歴も何もかも、あまり話そうとはしない」
「ゲーテさん、佐野はあくまでもただの長期旅行ですよ。東京見物です」
「わざわざ都内に別邸まで買ってかい?なあ、俺たち友達だろう?それにお前のほうから友達になりたいと言ってきたんだぞ。もうちょいいろんなこと教えてくれたっていいんじゃねえか?」
「うむ………まあ、そうは言っても本当に大した理由はないのだ。俺の地元にはやることがなくてな。でかい街は不特定多数の人間が出入りをするから忙しいが、田舎は古くからの地元の人間しかおらんし、よそから来る奴があっても、観光くらいで帰ってくから事件はない。だから田舎狐は気ままなんだ」
「ならせめてその田舎の名前を教えてくれよ。いつもぼやかすあたり、きっと俺にもわかるような有名な土地なんだろう?まさか伏見ではあるまいが……」
佐野がクロの顔をちらりと見る。クロはそれを受け、しばらく俯いて何かを考えていたようであったが、「確かに、あなたはそれなりにゲーテさんと仲良くしてきたのだから、別に構いやしないでしょう」と口添えした。
「そうか……まあ、言ってどうなるものでもないか。京都などではない。あすこの者どもがやすやすと東京に下ってくるようなことは断じてない」
ここに来て一本目のタバコに火をつけ、一度煙を吸い込んでから、佐野は明かした。
「俺は陰花島の舟着稲荷神社に祀られとるんだ。佐野という名は大昔のそこの町名だがな。いまは合併して、佐野の名は残されとらん」
その告白を受け、ゲーテは黙りこくった。舟着神社といえば膨大な社の中でも伏見と並んで知らぬ者はなく、このようなネコの耳にすら聞こえてくるほどに高名な神社である。ただならぬ男であることは察していたが、予想以上であった。
「隠しててすまんな。あまりこの辺をうろついてるのが知れると、妙な勘繰りをされるやもしれないから黙っていた。社長とシロクロのコンビは、俺が本当にただの暇つぶしでやって来たのをわかっているが、他のキツネはそんなことは知らん。第一この名は知っとっても、俺の顔など知らないはずだ。孤島のキツネなど、上陸せぬかぎり見る機会はないだろう」
「……そうであろう。いや驚いた。出会ったときには、いつ俺の心臓に喰らいついてくるかとヒヤヒヤしてたぜ。毒蛇の化身かとも疑っとったが…」
「俺はお前のことを喰おうとなんて思っていなかったさ。ただなぜ狐の集会の中にネコがいるのかと気になって、さりげなくそばに寄って観察してただけだ」
「それにしたってずいぶんと威圧感が漏れていた」
「それはゲーテさんが、あの場にいたキツネたちよりも強い妖力をお持ちだから感じられたのでしょう。しかしネコに小判で、あなた方はどれほど神に近い力を備えていても、それをどうこうしようという気はさらさらないですからね。だから化け猫は有名なわりには恐れられていないのです」
「当たり前じゃ。どれだけのんべんだらりとラクに生きようとも、この長生きすら面倒で仕方ないほどじゃ。その上でお前らのように、あくせく岡っ引きみたいなことをやろうとする酔狂猫がいるわけなかろう。……それより佐野、お前があの舟着の……そうか。陰花とはまた、因果な生まれよのう」
「だが俺は島民のように男を娶るわけじゃない。あくまでも島を見張っているだけだ。こうしてよその土地へくるときには、別のキツネに代理を頼んでおる。だがなあ、我々があの島に流れ着いて住みはじめてから、事件と呼べるものなどほとんどない。我々の祟りにあった人間を寄せ集めて連れてきたが、もともと住んでた島の男どもと勝手にあすこで子を孕み繁殖していって、今やその祟りをモトに見合いを"産業"として、うまいこと暮らしとるわ」
「不幸を逆手にとったというわけか。たしかどこぞの村の住人が、女の白狐の土地を穢してこうむったわざわいであったな?女の生殖器を持った男児ばかりが生まれるようになり、おキツネの祟りじゃと村民が皆逃げ出し、やがて村ごと消え去ったという……。ずいぶんえげつない呪いをかけたものよ」
「女を怒らさない方がいいという、良い教訓だ。その狐はすでに神の元へ召されたが、俺の師匠のようなものでな。当時の社の前にポコポコと投げられた禍の赤子どもは俺たちふたりが回収して、まだ何者も祀られていない陰花へ、みんなで"お引越し"したわけさ。新居もそのまんま、舟がついたところに建ててもらった。昔の人間はすんなりと俺たちを信じ、有難がったものよ」
「なるほどな。だがあすこは今も不吉な島であることに代わりはない」
「そりゃあそうだ。祟りのもとに成り立っている島だ。やってくる男どもの油っぽい思念も渦巻いているしな。だが、人間のいとなみに俺たちが手を加えることはできん。できることと言えば、"制裁"くらいさ」
「ふむ……しかし有難がられてるわりに、お前は隠居も同然の身か。キツネというのは何をどうすればエラいと認められるんだい?」
「そりゃあ持ち前の妖力の強さよ。生まれながらにして決まってるものだ。死後の修行の量にも関わってくる。強けりゃ強いほど"飛び級"で神に近づけるというわけだ」
「よくわかった。いつもうさんくさいカルトの集まりじゃと思ってたが、つまりみんな、まじめに神を目指していたのだな」
「そういうことだ」
「ホントに面倒な生き方が好きだなぁ。呆れちまうね」
これで佐野への警戒は完全に消え、三人は遅い昼を食べ終えてからそれぞれの家に帰っていった。ゲーテは眠くなり、クロは出勤の準備があるためだ。
しかしポピー・ハイツに戻ってから、ゲーテはふと聞き忘れていたことを思い出した。
いつからあの二人は『友達』であったのか。だが今度会ったときに聞けばいいので、そのこともそれ以上深くは気にしなかった。
……無数の泣き声に、ずっとがんじがらめにされてるのさ。
だから私も負けじと泣くんだ。早く見つけとくれ、絡まる泣き声をほどいておくれ。
でもね、いっつも掻き消されちまう。長いあいだ、だーれも気付いちゃくれない。だってこんなおっかないところを、好奇でも通りがかる人なんていないもの。
あーあ、このまんま、なんにも見ることなく消えちまうのかなァ。
もう身体はいらないよ。でもせめてお天道様がのぼるところだけでも見てみたかった。
泣き声はするのに、あいもかわらずひとりぼっちだ。それともこれは、全部私の声なのかなァ。私はきっと私ではない。私はいったいどんな顔をしているのだろう。そして私のお母様は、いったいどんな人なのだろう。
………あれ、なんだろう。だれかが近づいてくる。
ねえそこの方、どなたか知らないが、私を助けちゃくれないか。私に手が生えてるのなら、それをひっぱってくれるだけでいいんだ。生まれたいなんて贅沢は言わないから、せめて明るい場所へ連れて行っちゃくれないか。
ずっとずっと、苦しくて淋しいのだ。お願いだから、いますぐここから私を解き放っておくれ………
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