つらじろ仔ぎつね

めめくらげ

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ー「よう、ここだ」

声をかけられ振り向くと、彼がいた。

レザーのチョーカーを首に巻き、いつものイスにもたれかかっている。

「ああ、ゲーテさんこんにちは」

「ずいぶんクマが目立つ」

「寝てなくて」

「それより、いいかげん俺を請け出してくんな。退屈でかなわねえ」

「おや、身請けなんて引く手数多と聞きましたよ。でもしばらくは見世のカンバンとして頑張ってください。このあいだ雑誌にも載ってたじゃないですか」

「ケッ、俺ぁ俺を好きこのむ変態なんざ気に食わねえ。おかげで年季ばっかりってよォ」

「そう言わずに」

クロがソファーに腰かけると、ゲーテはその背もたれに移動してきた。

「で?次はいつどこに脱走すりゃいい?」

「七日の夜九時から西麻布のブルーバードクラブというところに……あ、地図出しますね」

「なーにがブルーバードだよ。シャチョーはセンスがねえよな」

「最近ハマってる海外番組のせいで、少しかぶれてましてね……そこに出てくるプール付きの豪邸に憧れてるんです。だからぜひブルーバードのようなプール付きのレストランを開いてみたいとかで……」

「アホか」

「ここです。わかりますか?」

パソコンの画面を見せると、ゲーテがしばらくそこに映された地図を眺め、「ああ此処か」と呟いた。

「ドレスコードは特にないですが……ジーンズは控えてほしいとのことです」

「ぬぁーにがドレスコードか」

「おや、意味わかるんですか」

「知らぬと思って聞いたか。お前もたいがいよのう」

「ははは、すみません。ちなみに服も用意してますから、いつもどおり」

「ならわざわざ言うな、相変わらず底意地の悪い奴じゃ、性悪狐」

「おやおや、あなた方だって大概ですよ。……もっとも、ここの子らはキバを抜かれてますけど」

部屋を見渡せば、ネコ、ネコ、ネコ。
そしてそれをぼんやり眺めて悦にいるサラリーマン、せわしなく写真を撮る外国人観光客、おもちゃで気を引こうと躍起になっている中年男……

クロの背後で背もたれに寝そべっているのは、黒シャムのゲーテ。この猫カフェの看板ネコに就任して一年目の四歳のオス………ということになっている化け猫だ。


「ところでおめえさん、ずいぶん匂う」

「あなたがたにはトンとご縁のないことですがね、外の世界は灼熱なのです。汗くらい許してください。」

「いいや、ケモノの匂いが強いってことさ」

「……ケモノ?寝不足で、ちょっといろいろ緩んでいるからでしょう」

「そりゃいかん。あんまり緩むと、お耳としっぽが出ちまうよ」

「そうなる前に、これから帰って眠ります」

「すぐ眠れるのかい?」

「……? 眠れますけど」

「お前のケモノ臭さは、お前自身のメスの匂いなり」

「何を言うんです」

「寝不足で疲れるときほど、男が欲しくなるじゃろう」

ケケケ、と黒シャムが不気味に笑い、長いしっぽをクロの喉もとにふわりと巻きつけた。

「お前はよう、色気が無え。けどときどきツンと"匂う"何かに、強烈に情を掻き立てられるのさ。シロ坊のようにわかりやすく発情しとるウツケよりも、おとなしそうな顔をしながら餓えとるモンの方が、どうしてかそそられる」

しっぽの先で耳たぶをこちょこちょとくすぐられ、思わず肩をすくめた。

「別に餓えてません」

「そうかい。お前もそれなりに年寄りだからな」

「……とりあえず、七日、お伝えしましたからね」

「もう行くのかい」

「ええ」

クロがソファーから立ち上がる。

「よう眠りなんし」

ゲーテが伸びながらあくびをして、ヒョイとキャットタワーに登っていった。その様子に、何人かの客がさっそくスマホを向けて撮影する。店で買えるおやつのササミをちらつかせて気を引こうとする客もいたが、カンバンのゲーテは一瞥もくれず、いちばんてっぺんの穴ぐらの中へ潜り込んで行った。

滞在時間は十分ちょっと。それでも一時間分の料金を支払って出て行く。店員が訝るのもよくわかる。毎度短い時間だけやってきては、誰にもなつかないゲーテを独り占めしていく謎の男。
再び炎熱地獄の雑踏にまぎれ込み、すぐに地下通路の入り口に避難して涼しい地下鉄に乗り込んだ。暑さに弱くなったのではない、この百年でこの都市の気温はバカみたいに上昇したのだ。
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