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「……天音」

サラが立ち上がり歩み寄ると、「具合は?」と尋ねる。

「全然へーき」

「そう……」

「アイスある?」

「あるけど、さっき食べたでしょ?1日1本だよ」

「へ?食べてないよ」

「食べたよ。ぶどうの。覚えてないの?」

「……食べてないよ」

「覚えてないんだよ」

サラの言葉に少しだけ怪訝な顔をするが、その老人じみたやり取りが少し恥ずかしかったのか、「そう」と引き下がった。

「みんなここに集まってたんだ」

他の寮生がいないので、悠々とソファーに腰掛ける。耀介はうつむいて目を合わせようとしない。

「なあ、カイザーは?」

皆が「余計なことを聞くな」という顔で高鷹を見やる。だが天音はあっさりととんでもないことを、彼らに明かした。

「ハルヒコ?鼻血出して寝てる」

「鼻血?」

とたんに口元を抑えてクスクスと笑う。声は出さずとも、心底おかしそうな笑みだ。こんな表情や仕草は確かに見たことがない。

「ハルヒコ……ふふ……アイツ、童貞のくせに見栄張って隠してたたけどさあ、誰かにチンチン触られた経験すらないんだよ」

「……はあ?」

天音が肩を揺らして更に笑う。むろん笑っているのは彼だけだ。

「ちょっと触って……ちょっと咥えただけなのに……ふふ、……アイツ、アイツ……」

「……」

目を丸くして固まる男たちの驚愕の顔に気づきもせず、天音はニヤニヤと笑いながら事も無げにあっけらかんと言った。

「それだけですぐイって、精子とほとんど同時に鼻血噴き出して、ぶっ倒れたんだ、バターンて。ほんと馬鹿、超おかしい。みんなに見せてあげたかった」

何がおかしいのか、いよいよ声をあげてケラケラと笑い出す。耀介は微動だにせず、耳だけでその異常な様子を「実感」していた。

「天音……君、やっぱりハルヒコくんと……」

先ほどまでの話し合いの「確認」をするかのように、珠希がおずおずと尋ねる。

「付き合ってるの?」

すると天音は笑みを浮かべたまま珠希の問いかけに小首を傾げ、「付き合う?」と返した。そしてそのまま目線を斜め上に逸らしてから、「付き合ってるのかなあ」と自問のようにつぶやいた。

「ハルヒコくんのことは嫌いじゃなかったかもしれないけど、いつもあんなに鬱陶しそうにしてたのに……いつからそんな関係になってたの?」

「いつからって言うか……」

「もしかして、今日突然そうなったの?」

「うん、突然なった」

「理由は?」

「理由?ないよそんなの」

「ハルヒコくんのことちゃんと好きなの?」

「うん、好き」

「それはいつから?」

「……今日から?」

珠希が小さくかぶりを振りながらため息をつく。

「天音、明日は学校を休んで」

「なぜ?」

「もしかしたら、倒れたときに頭を打ってるかもしれないから。杉崎医院、今日は若先生じゃなくておじいさん先生だったんでしょ?あのひと耄碌してるから信用できない」

珠希は、天音が頭を打ったことで彼の人格がおかしくなっていることは指摘しなかった。本人に自覚できているわけがないからだ。

「僕たちずっとそれを心配してたんだ。ネットで検索したら、記憶が定まってないのは危ないかもしれないって書いてあったから」

「別に平気だけどな」

「でも安心したいんだ。だからお願い。病院のお金もみんなで割り勘するから。そんなにかからないと思うし」

「……何でそこまで?」

「友達だからだよ」

「……」

人格は変わっていれども、珠希の言葉は彼なりに嬉しかったのか、あるいはその真摯な姿勢に逆らうことができなかったのか、やや置いてから「……わかった」と小さく了承した。さっきまで弛緩したようにヘラヘラとひとりで笑っていたのに、彼の表情もまた他の男たちと同じく、頬を固くしたものに変わっている。
どうやら珠希の提案は飲んだものの、自分はこんなに楽しい気分だったのに、どこか冷ややかでぎくしゃくとした仲間たちの反応には不満を抱いたようだ。特にまったくこちらを見ない耀介にはいらだちすら感じているのか、「よーすけ、何でずっとこっち見ないの?」といつもより少し低い声で尋ねた。

「さっき部屋で僕たちのアレを見たせい?」

「……まあ。でも悪かったな、急に入って」

「勝手に見たのに、勝手に引いてるって感じだ」

「勝手に見たってのは違うだろ。そんなことしてるって分かってたら入ってねえよ」

「でも勝手に引いてるのは確かだ」

「引かねえと思うか?」

「そんな目で見ないで」

「じゃあ何でこっち見ないのかなんて聞くなよ」

「耀介……天音もよせ」

大吾郎の低い声に制されるとふたりは彼を同時に見やり、言い合いに火がつくのは抑えられた。だが初めて向けられた耀介の怒りのような感情に、自分からいらだちをぶつけたことも棚に上げて、天音はさらに不満げな顔をした。それと同時に、自分の中でうまく折り合いをつけ封じ込めたと思っていた過去のつらい感情が、フタのすき間から漏れ出てくるように心を煙らせる。耀介の瞳が、どこかかつてのクラスメイトに似ているような気さえした。

「……なんかぜんぜん、幸せじゃない」

ソファーの上で膝をかかえ、そこが自分の部屋の片隅であるかのように、心を小さく折り畳む。耀介は怒りよりも、戸惑いの方が大きかった。今そこでふてくされているのは、確かにいつもの天音ではない。それはハルヒコと妙な関係に陥ったからではなく、もっと本質的な、根っこの部分からガラリと違うものに変貌しているように思えた。何かに脳を支配されているのだと言われても、確かに今なら納得できてしまいそうだ。

「おいおいイグアナくんよお、泣くこたねえだろお?」

天音はじわりと涙を浮かべていた。サラとハルヒコの関係に傷ついていたあの日と同じ顔だ。

「おい耀介あやまれよ。一応病人なんだから優しくしてやれ」

「お……おぉ、ごめんな天音」

腑に落ちないが、泣き顔には心が痛むのでとりあえず謝る。天音は膝を抱えたまま顔を伏せて肩を震わせていた。するとおもむろに高鷹が立ち上がり、めそめそと泣く彼の背後に忍び寄る。「高鷹?」と珠希が不思議そうな顔をすると、彼は「静かに」と制するように人差し指を口の前に立てた。そしてその直後、反対の手に隠し持っていた雑誌を振りかざすと、「許せ天音!」と言って、まるでいつも握っているラケットのごとく、それを思いきり彼の後頭部に向かって振りおろした。

「ああ!」と誰かが悲鳴に近い声をあげるのと同時に、バコン、とテニスボールを打ち返したような乾いた音が響き渡った。雑誌は丸めきれないほど分厚い週刊漫画誌であり、紙で殴ったとは思えない音がした。
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