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サラ

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翌朝。寝覚めは最悪だが、昨日の雨模様から一転して窓の外には晴天が広がっていた。いつもより30分早くベッドを出て身支度をすると、天音はサラの住む210号室に向かった。ノックをすると彼と同室で、天音と同じクラスの秋山が寝癖をつけたまま出てきたが、天音はもう何度もこうして訪れているので構わず部屋に入れてくれた。

「まだ寝てる?」

「うん」

「ごめんね、支度の邪魔して」

「いや別に。……でも、今朝もたぶん動かないよ」

「昨日はどうだった?」

「ちょっとだけぼんやりして座ってたから、少しだけ話したけど……メシも食いたくないって言ってたし、まだキツそうかも」

「そう」

2段ベッドの下段で、壁の方を向いてうずくまるサラの薄茶色の髪をそっと撫でる。

「……サラ、おはよう」

耳元でささやくように言うと、芋虫のようにもぞもぞと動いた。

「昨日メールしたの、見た?」

「……」

「今日ちゃんと起きて、少しでいいからご飯も食べないと、君は家に連れ戻される」

「……」

「中川先生が、つらければずっと保健室にいても平気って言ってたよ。体育も見学していいって。……でも学校には行かないと。ここで自習してても出席にはカウントされない」

「……」

サラの不平等な「好待遇」をよく思わない生徒も当然多数いるが、彼はどれだけ授業のブランクがあろうと、試験で学年の3位以下に下がったことは1度もなかった。それゆえ出席日数さえギリギリでもいいからパスできていれば、教師たちもとやかく言うことができなかったのだ。この高校はすべり止めのさらにすべり止め程度のものであったようだが、都内でいちばん偏差値の高い高校に受かったにもかかわらず、彼はそれを放り投げてここにやって来た。それがきっかけで、ただでさえ不仲だった親との関係は修復困難なほど悪化したという。高校を出たらすぐに働いて、これまでの学費と寮生活の金をすべて返せとも迫られたらしい。彼がここを選んだ理由は、家を出て寮住まいができるから。ただそれだけであった。

「……1限からは行けない」

ひどくかすれた声で、サラがようやく言葉を発した。

「じゃあ2限目からは来れる?」

「……たぶん」

「1限が終わったら迎えに来るよ」

「……んー」

「それと、朝ごはんをここに持ってくる。少しでいいから口に入れて」

「……んー……」

あいまいな返事を聞くと天音が立ち上がり、食堂に行ってサラの分の朝食をプレートに載せて戻ってきた。すると寝ぼけまなこのサラがどうにかベッドの上で「羽化」しており、壁にもたれて膝をかかえて座っていた。最後に髪を切ったのが3ヶ月前で、乾いた栗色の髪はすでに肩に届きそうなほど伸びている。窓から射し込む朝陽に照らされる痩せっぽちの彼は、路上でけだるそうにうずくまる不機嫌な家出少女のようだった。

「あーんする?」

天音が冗談めかして問うと、サラが眠たそうな顔のままほんの少しだけ笑った。

「……お味噌汁だけでもいい?」

「少しくらい固形のものを食べなよ。噛まないとどんどんおじいちゃんになってくぞ」

「でも食べたくないよ……」

「ご飯ひとくちだけでいいから」

わずかな米粒のかたまりを箸にのせ、口元に運んでやる。まるで老人介護だが、天音がしているのはまさしく介護である。サラが死にかけの小鳥のようにほんの少しだけ口を開き、押し込まれた米粒をゆっくりと咀嚼した。本当はとっくに病院にかかるべきだが、大吾郎の言うとおり、親と会えばきっとこの状態も悪化する。彼の利己的な親こそが、優秀な我が子を潰しこれほどに心を病ませた悪因であるということは、彼から語られたこれまでの内容を聞いて充分すぎるほど理解している。






「……む?」

昼休み。中庭にいたハルヒコはどこかからシャボン玉が飛んでくるのに気がついた。

「オラァ!」

次から次へと手刀で破っていく。だがシャボン玉はどんどん飛んでくる。

「あ、あれ……香月先輩じゃない?」

かたわらで池田が保健室の方を指さしながら言うと、「カヅキ?」と首をかしげるが、すぐに「ああ、210号室のユーレイか」と手のひらをポンと叩いた。サラが保健室の窓からシャボン玉を飛ばしていたのだ。

ー「おいユーレイ」

「ちょっと、失礼だろ……」

窓枠に腕と頭をもたれさせ、緑色の筒をぼんやりと吹くサラのもとに、ハルヒコたちが中庭から近づいていった。

「俺にも貸せ」

「……」

サラはハルヒコたちの存在など気にもとめず、浮遊する膜の球体を、髪よりも明るい茶色の瞳に映していた。だがもう一度吹こうとしたところで、ハルヒコが筒を横からスッと奪い取った。

「渦川くんやめなよ。行こう」

「これは林田」

「へ?」

大きくふくらましたシャボン玉が飛んでいく。

「これはアホの小島」

もうひとつ、今度は少し小さなものを飛ばす。

「これは学年主任の冨樫。寮長の芳賀。谷野。岡山……」

次々とシャボン玉が飛んで、やがてわれていく。大きなものほどわれやすい。

「ガキの俺を捨てた男と女」

頬杖をついていたサラがようやく、ちらりとハルヒコを見た。最後にひときわ大きなふたつのシャボン玉が飛んでいく。それらはやがて、西から吹いてきた風に流され、漂っていたすべてが跡形もなく消えた。

「ふうー。はかない命ですこと。見ました池田さん?」

「は?」

「ごらんのとおり、みーんな死に絶えました。おかげで俺の帝国には平和が訪れました」

「……」

ハルヒコがサラの顔にわざわざ至近距離で向かい合って筒と液体入れを返すと、「行くぞ池田」と踵を返し、体育倉庫から部品を調達したスケボー作りの続きをしに戻っていった。だが池田がその後を追おうとしたら、背後から声をかけられた。

「……そこの天パくん」

「……はい?」

「肩のフケ、払ったほうがいいよ」

「え?……あ、ああ……すいませ……」

「香月新」は、男子校の生徒とは思えぬほどに妖艶で綺麗で、儚げだが目立つ人物だ。きのう教室に殴り込みにきた星崎天音や、生徒会の副委員長の新妻珠希と同じように、いわゆる「美青年」のくくりに入る顔立ちをしている。彼らはバスケ部の千葉大吾郎、テニス部の伴高鷹、あるいは野球部の狸穴耀介のような男らしさにあふれた魅力ではなく、中性的な線の細さが「売り」だ。だがサラは、やさしくておだやかな雰囲気をまとった天音や珠希と違って、ぼんやりとしているくせに狐のような鋭さと妖しさの入り混じった目つきをしており、どことなく性悪そうな雰囲気と静かな威圧感があいまって少しだけ怖かった。ほとんど不登校なのに学年上位をキープし続ける、やる気はないが隙もない漫画のような人物。この学校にサラを知らない生徒はおそらくいないであろう。

「へへ、シャンプー変えて、少しはマシになったんですけど……」

愛想笑いをしながら両肩を払い、「ありがとうございます」と言うと、池田はキツネに追われるウサギのごとくその場からすぐに駆けて行った。サラは少年たちの背中を、筒を片手になおもぼんやりと眺めていた。
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