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第三章 A Greek Gift

策謀の夜―⑥―

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午後6時45分 バンクーバー市内 


 硝子ガラス管の立ち並ぶ職場で、ブランドンは防寒服越しの寒さと戦っていた。

 彼の積み重ねた知性を活かせる職業の適正の関係上、一日と言う程長くは無いが、職場の入室確認札カードキー電子演算機コンピューターで、終了時刻を刻む時までの伴侶として割り切っている 

 そんな彼の目の前に聳え立つ、人一人が入る程の大きな硝子ガラス管。

 それは、現在、読んでいるダンテの“神曲”の地獄編を思い出さずにはいられなかった。

 “明けの明星”と謡われた天使が、傲慢ごうまんの余り落ちた凍結地獄。

 神々しさと凛々しさに溢れた天使の体は、地表から地底まで突き出てダンテは導き手のアエギリウスと共に歩む天国への道になり果てた。

 淡い輝きを放ち続ける硝子ガラス管の背後で、蜘蛛の巣の様な配電盤が照らされている。

 その背後には、蛇の様に曲がりくねった配線が、空と地表を貪らん勢いで広がっていた。

 禍々しさと儚さを覚える造形の中で眠るのは、一人の男で悪魔大王ほど、大きくない。

 されど、自分の体より小さくもなく、頑強ではあるが整った輪郭を引き立てる短髪の偉丈夫。

 もう一つの硝子ガラス管には、鍛えられているが、その右乳房に黒くすすけた穴を開けた一糸まとわない女性が眠っている。

――悪魔大王の隣に、天の乙女……煉獄要らずかな?

 同僚の女性を振り向かせる為に読んでいる本にちなんだ表現は、我ながら余りにもお粗末だった。

 考えながら硝子ガラスの足元で広がる、鍵盤キーボードと画面に目を向ける。

『ブランドン。検体の状態は?』

 遠隔操作の送受声機で、変換された声が防寒服の頭部に響いた。

 ブランドンは音声の発生元に目を向ける。

 自分と同じ、黄色い極低温用の防寒服を纏った者が立っていた。

 防寒服を着た者の背後に広がる、規則正しく並んだ、硝子ガラス管から繋がった計器への配線。

 それは、さながら血管で、無数の柱は骨となり、無機質な巨人の体内を思わせる。

「二人いるけど……どっちの方?」

『私の観点から言うと、あなたはに何かご執心のようだけど?』

 電子変換された女性の声が指しているのは、男ではない方だろう。

 女性の声は何処か楽しく、試す様な口調で、

だった?』

 ブランドンの息の根を止めに、掛かってきた。

「ルチア……男の前で、それを言うのは少し……酷すぎないかな?」

『あら……ダンテは、セイレーンの誘惑に関して、ヴェルギリウスの警告を拝聴したわよ?』

 ルチアの言葉に、ブランドンは再度溜息を吐かされた。

『それに、あなた……は、なるわよ?』

 そう言われて、彼は極低温用の防寒服の頭部、その口元に手を置く。

 当然話を持ち掛けたルチアの眼に、猫背となったブランドンが映るので、

?』

 ルチアに言われて、彼は気付いた。

『まだまだ、“至高天“への道のりは長いようね……』

 彼女の呆れたような、何処か楽しんでいる言動にブランドンは素直に負けを認め、

「分かりました……愛しのベアトリーチェ様。私の考えていることは――」

『職務上の範囲に限るわ』

 釘を刺されたが、『は後で、』と思い人の抑えた蠱惑こわく的な呟きを耳にしたブランドンは、地獄から十天を、もう十回は巡れそうな気分だった。

「デュラハンの中にいた男の体温は、安定している。彼を覆う“リア・ファイル”を直ぐ、低温状態に置いたのが功を奏しているのかもしれない」

 ブランドンが話し始めると、ルチアと、その場にいる研究員七人が傾聴する為に作業を止める。

 硝子ガラス水槽に眠る男にあるのは、ブランドンの知る限り、神の加護でも無ければ、悪魔の呪詛でもない。

 “リア・ファイル”という超微細機械ナノマシンだ。

 変わった性質として、宿主の“熱“を物理現象に変換して攻撃、防御、回復を行う。

 しかし、それと引き換えに、使用した熱を宿主から、“リア・ファイル”は強制的に奪う。

 使い続ければ、体の一部、または全部が燃えつくされる。

 ブランドンは、英国の大学で極低温を扱う工学を専攻していた。

 彼の隣にいる女性のルチアの在学時代の専門は、ナノ工学である。

 演算器コンピューターを扱う上で、熱問題は切っても切り離せない。

 二人の出会いは、運命だったと言っても良い。

 しかし、二人が距離を急接近させたのは、進路を決める時だ。 

 端的に言えば、将来の進路と学問を一致させる、理想的な職場が見つからなかった。

 ブランドンとルチアも同じだった。

 だが、知人の紹介から”ブライトン・ロック社”の門を叩くことになった。

 面接をして、二人の仕事は、超微細機械ナノマシンの研究、観察と保管を担当することになったのだ。

 初め、“過熱状態“の情報管理計器の冷却と、量子演算機の発展と言われたが、何故か現在、裸の男女を眺め、揶揄からかい、揶揄からかわれる仕事をしている。

 天職という言葉は、個人の持つではなく、それを活かしたにあったのではと、ブランドンは愚か、ルチアも今なら断言出来るだろう。 

 自分の知識を動員し、まるで詩の朗読の様に話すブランドンは、自分の口調が重くなっていくことに気付きつつ、続ける。

「ただ、こっちの検体は良くない」

 そうして、ルチアに指したのは、硝子ガラス柱の女性だ。

 名前は、アデライン=アレサンドラ。

 キャニスという名前で、通っていた命導巧ウェイル・ベオ使いである。

 運ばれた時、彼女が十代最後の歳で命を落としたと聞き、ブランドンは大学へ入学した当時に思いをはせた。

 色々な出会いや別れをの中で、掛け替えのない存在を見つける希望に満ちた年齢だったことを思い返す。

 ブランドンと同じことを、ルチアも考えていたのか、キャニスの情報を聞く度に言葉数が少なくなっていた。

 キャニスが得られると思ったであろう、19歳の未来がに。

 ルチアは息を整え、

『やはり、”ウィッカー・マン”の致命傷?』

「そうとは言えない、妙な傷だ」

 ブランドンは、キャニスの背面をルチアに示す。

 指された部位は、角に突かれたように抉れ、傷口は褐色の肌よりも黒ずんでいた。

 七人の研究員は、防寒服のまま、キャニスの体へ首を向ける。

『これ、”ウィッカー・マン”の傷じゃないわ……』

 ルチアの電子変換された声が、騒めく研究員の声と共にブランドンに伝わる。

「“クァトロ”は愚か、“フル・フロンタル“とも一致しない。サロメからの攻撃みたいだけど、奇妙なことに再生が進んでいない」

 “リア・ファイル“で分かっていることは、宿主を選ぶことである。

 宿主そのものを、たとえ防衛する。

 硝子ガラス管に送られる液体窒素による、極低温処置は、“リア・ファイル“の再生過程による“過活性化“――つまり、自然発火――を抑える為のものだ。

 しかし、このキャニスで通っている少女の“リア・ファイル“は、奇妙なことに活動していなかった。

『待って……それって、ブルースと同じじゃないの?』

 ルチアは、硝子ガラス管から離れた演算機コンピューター鍵盤キーボードを叩き、画面を呼び起こす。

 画面には、“Bruce Balt“と描かれた人体図が大きく浮かんだ。

 正面と背面、二つの図で後者の大部分を赤が染めている。

 ブランドンは、ルチアに示された内容を見て頷いた。

 グランヴィル・アイランドの騒動で、負傷したブルースを、ブランドンと仲間たちは無線通信を通して診断。

 その際に受けた損傷の映像を記録している。

 記録を基に、“リア・ファイル“の活動を把握するための立体投影図を作成。

 彼の生体標本――血液――も併せて調査した結果、彼の体内の“リア・ファイル“が活性化していないことが判明した。

「ブルースの場合は、何故か知らないが……その後、再生速度が戻ったんだ」

 赤く染められたブルースの二面図の背中の絵が、緑に変わっていく。“リア・ファイル”が活動を開始が、開始された。

 ブルースの記録映像の方も、修復を開始していく様を映している。

「問題は――」

 ブランドンは、ルチアの横で、別の画面を出した。

「……ロックのデータ。これは――」

 ルチアは、ブランドンの見せたモノに対して、言葉を無くす。

 ロックも、ブルースと同じ診断を受けた。

 二面図と遠隔撮影によるものだが、傷は塞がっている。

 しかし、二面図の活動は赤いまま――否、赤から緑や青と、表れていた。

 ルチアが隣で言葉を途切れさせた雑音や研究員の息を呑む音が、ブランドンの耳に伝わる。

『“リア・ファイル”が機能しているけど……これは』

 ルチアと他の研究員の息遣いを背景音楽に見立てながら、

と言っても良い。それに、ロックは妙なフラッシュバックに悩まされているとも言っていた。気になることに、ブルースの傷も、ロックの超微細機械ナノマシンの活動に合わせて回復に向かっていった」

 様々な色が明滅する、ロックの背面を見入るルチアに、ブランドンは続けた。

『標本が少ない分、分からないことだらけね。ロックの場合、フラッシュバックについても本社に問い合わせないとね』

 ルチアは、ブランドンと七人の研究員に観察を続けるように促す。

「後は、“回復水“も送らせた方が良いと思う。ブルースは治ったばかりで、ロックの過活動も、“リア・ファイル”が余計に体から熱を消費している可能性が高い」

 ブランドンは、要求事項を伝え終えた。

 彼は思考を、に移行させる。

 職のある者の恋愛は、若い時と比べて「」や「」で事足りる問題ではない。

 ブランドンとルチアの関係は、殆ど職場の黙認だった。

 春になるから、次の段階へ進めという、十人の同僚からの無言の圧力を、ブランドンと目の前のルチアは受けている。

 だが、気が知れているからこそ、力技で押し通すのは難しい。

 それで、ルチアの考えを知る為に本を借りた。

 ダンテの“神曲”だ。

 ルチアも、ブランドンの好きなロシア文学――トルストイの“アンナ・カレーニナ“を借りて、お互いの人生の指標を読み合っている。

 読んだ内容を話し合い、議論し合うのだが、これが意外と面白い。

 自分と違う視点を話し合うことで、今までの考えをいい意味で破壊し、常に思考を更新させてくれるのだ。

――男を見せろ、ブランドン。

 そう考えていると、ルチアが振り返った。

 心が通じたかと期待したが、

『チャドから連絡が無いの。少し、様子を見て来てくれない?』

 その名前で、一気に現実へ引き戻された。

 チャドは、ブランドンだけでなくルチアの恩人でもある。

 量子演算器コンピューターの研究を専攻していた友人だが、今の職場に、ブランドンとルチアを紹介してくれたのだ。

 就職が成功したのは、自分の考えを訴える技術を面接や大学の研究で培ったのが大きい。

 しかし、電子演算器コンピューターの技術を高めても、面接の訓練を得ても、電子空間での就職活動が盛んでも、それらを活かせる機会を与えてくれるのはいつだって――ブランドンとルチアの場合は――なのは、変わらなかった。

に関して、友人には頭が上がらない。 

 だが、は別問題である。

『“ヴェルギリウス”の案内は、まだ必要よ?』

 ルチアが、ブランドンの背後で笑いながら電子変換音声で見送る。

――チャド、結婚式のスピーチで、飛び切りの面白い冗句を言ってもらうからな。

 いつ来るか分からない遠未来で下す、恩人への辱めを考えながら硝子ガラス柱と配線にひしめく広場を後にした。

 今いる研究施設は、多くの液体窒素を使う。

 液体窒素は適度に空調を管理していないと、外部の酸素と結合し、爆発事故を起こす。

 当然、生身であれば凍傷を負い、最悪、結合した空気が肺に入ると窒息死だ。

 その為に、液体窒素の含まれた貯蔵管内の調節弁を緩めて、膨張する前に解放しないといけない。加えて、酸素との結合を防ぐ為に、貯蔵管も閉じないといけない。

 その管理は当番制で、今日の担当は三人。

 その一人が、友人で恩人にして、朴念仁のチャドだった。

 ブランドンの前で、その本人と思しき、仁王立ちの人影が立っている。

「おい、チャド。そんなところで突っ立ってどうした? 『凍結地獄を案内する』って言ったら、笑えねぇぞ?」

 拳闘の牽制と言わんばかりに、皮肉を言う。

 チャドもダンテの神曲を読んでいたので、ルチアの考えを知る為にブランドンの相談に乗ってくれる。

 しかし、どこからそれを知ったのか、ルチアは、自分を“ダンテ=アエギリウス“で、恩人を“ヴェルギリウス“と称し始めたのだ。

 知己故の、おふざけである。

 本来なら、そのよしみで、チャドから一言返って来る筈なのだが、

「笑えね――!?」

 ブランドンは、思わず口を緩める。

 だが、彼の紡ごうとした言葉が喪失。

 ブランドンが、タンクの計量装置の針が、右側の赤い領域に差し掛かっているのが見えたのだ。

 圧力が上がっていることを示している。

 一つだけでなく、二つでもなく、貯蔵管が。

 こんな、危険な状態となっているというのに、面倒見の良い友人が、

 今、ブランドンがそのものが異常だった。

 彼は、外気と体内から来る寒さを振り絞りながら、チャドの両肩を揺する。

 振り向かせると、言葉と息……いや、口から出る全てが、ブランドンから消えた風に思った。

 まるで、何かにが喉元から広がっている。

 なにより、から、辛うじて見える黒くすすけた、眼窩と鼻孔が液体窒素と外気で生まれた風に、崩れ去っていった。

「そいつ、酷いと思わないか?」

 白い冷気に包まれた先に、男がいた。

 防護服がなく、フード付きトレーナーしか着ていない。

 頭を覆うフードの中から見える、銀光の右目がブランドンを射抜いている。

「心優しい俺が、寒いから““やったら、『止めろ!』や『動くな!』と言われたんだぜ?」

 ブランドンは、銀面の男の言葉で事態を理解し、取り抑えようとした。

 怒り故の行動である。

 だが、それは、叶わなかった。

 トレーナーから伸びる銀色の右腕が、ブランドンの腹と防寒服を貫く。

 まるで、熱された刃物に切られたバターの様に、音もなかった。

「取り敢えず……落ち着け。そう顔を?」

 顔の左半分が銀灰色となった、男の目の前の視界が途絶。

 人を温めるものではなく、中から人を食い尽くさんとする青い灼熱が眼に入るもの全てを奪いつくすように思えた。

 銀色の固まった男の顔が、ブランドンの今際の際の映像だった。

 だが、それでも、彼の心で思い続けたのは、ルチアだった。

 そう構わず、防寒服を着ていない侵入者は、

「さて、もうアイツらは入れたかな~?」

 喜びに何処か満ちた、場違いな独り言を宣う。

 意識を失いつつあるブランドンの耳に、耳障りな死を呼ぶ声、炎に焼かれる音と共に、防護服の無線越しに響いたルチアの言葉が入る。

『ブランドン、逃げて!!』

 彼女の言葉が、薄れゆくブランドンの耳を抜けた。

 彼女の祈りを叶えられぬブランドンの身は天国に。

 彼は自らの心を、“憂いの国”に送った。
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