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 翁の襲来の翌日。
 この日、ようやく春鈴の身柄が正式に蒼嵐預かりになった。
 
 蒼嵐は春鈴を保護した次の日には、菫家側――魅音に手紙を出し侍女の一人――春鈴――を借り受けたい旨を伝えていたのだが、昨日ようやく許諾の返事があったのだ。
 これで菫家の侍女として里に入った春鈴が、蒼嵐の離宮に滞在することに何の問題もなくなった。
 
 春鈴はそれを知らされ(つまり、あの女の侍女やらなくても、お仕事完遂で借金帳消し⁉︎)と、上機嫌で本日の仕事にとりかかっていた。
「んー……今日は何色にしよっかなぁ? ……紫かなぁ? 赤いキラキラも綺麗だったけど、あれやりすぎると墨の色も変わって見えちゃうしなー……――よし! 紫から初めて心の赴くままにすってみよう!」
 むらっけのある春鈴、どうやら墨を磨っていても、それは変わらないようだった。
 ランララーンと、楽しそうに歌いながら墨を磨っていると、春鈴のその手元に影がさし、春鈴はパッと顔を上げた。
 ――春鈴の視線の先にいたのは……
「ああ……また巡り会えたな、美しき宝よ……」
(――この間の銀龍⁉︎ 何でここに⁉︎ ……てか、この人まだ私のかんざし狙ってる……? だからこんな変なこと……――こいつ、まだこんなお世辞でどうにかなると思ってるんの⁉︎)
「……お久しぶりでゴザイマス……?」
 春鈴は椅子ごと大きく下がって距離を取ると、警戒心をむき出しにおざなりな礼の姿勢を取った。
(……龍族の窓からこんにちは率高くない……? 飛べちゃうと扉も窓も違いがないんです……? いやでも、勝手に入ってきたらダメでしょ……? ここ蒼嵐の執務室とつながってるよ……?)
 昨日の翁の襲来を受け、春鈴が執務室での仕事を手伝う際は、執務室の隣に作られていた小部屋でやると、決められていた。
 
 この部屋は元々、荷物や資料を置いておく部屋だったようで、綺麗に整頓されてはいたが、雑多な印象を受ける部屋だった。
 それを浩宇たちが片ずけてくれ、窓の近くに春鈴の作業場所を作ってくれたのだった。
 ――窓の近くだったために、こうして見つかってしまったのだったが……
 
「ここは蒼嵐の館のはず……どうしてここに?」
「えーと……いろんな事情が考慮されまして……? 元々知り合いですし……」
 春鈴は惑いながらもポソポソと答える。
「知り合い……?」
 首をかしげる紫釉がさらに質問を重ねる前に、紫釉に声をかける者が現れた。
 それは少々慌てた様子で部屋に入ってきた蒼嵐だった。
「――これは紫釉様。 気がつきませんで、大変な御無礼を……」
 無礼を働いたのは紫釉の方だったが、それを指摘するには紫釉の身分が高すぎた。
 そのため蒼嵐はギリッと歯を食いしばりながら、無理やりに笑顔を張り付け、綺麗な所作でお辞儀をしてみせる。
そして紫釉にそうとは気取られないよう、極力自然な動作で春鈴を背中に隠した。
「……ああ蒼嵐。 いや、散歩をしていたら美しい歌声が聞こえてきたもので……ついな?」
(龍族、そんな人たちばっかりだな……?)
「ほうほう。紫釉殿は歌声かのー」
 部屋の入り口から中を覗き込んでいた朱の翁が、楽しげな声で紫釉に話しかけた。
「橙実様……?」
 紫釉は驚いたように目を見開き、翁――橙実の名前を呟く。
 その声は疑問に満ちていて、言外に「なぜ貴方がここに?」と、問いかけていた。
「ワシはほれ! ここの菓子につられてな! ははっやはり人間は手が器用じゃ」
 そう言いながら橙実は麻花マーファというロープのようにねじった形の、とても硬い揚げ菓子を両手に持ち、紫釉に見せつけるように高く掲げた。
 よく見るとその口元や長いひげにも菓子のカスが付いている。
(……そうですね。 あなたが明日も来る宣言をして帰ったから、私はここで作業することになったんでしたよね……!)
「――あれはそなたが?」
 紫釉は橙実が掲げるマーファを見つめ、蒼嵐の背後の春鈴を覗き込むようにたずねる。
「あ……はい」
「そうか。 なれば私もぜひとも食べてみたいものよ」
 春鈴が答えた瞬間、ニッコリと笑った紫釉が蒼嵐に圧をかけるように言い放った。
 春鈴はそんな紫釉の行動に驚きながら、心の中で毒付く。
(龍族の偉い奴らってこんなんばっかなの⁉︎ ものすごい強引なんだけど⁉︎ ……でもどれだけ強引に来られたって、私は言うこと聞いたりしないんだから……! このかんざしは絶対渡さない!)
 そんな決意を蒼嵐の背後に隠れながら固める春鈴。
「……今、準備を。 ――優炎、ご案内申しあげろ」
「はっ!」
 蒼嵐の言葉と共に部屋へと入ってきた優炎が紫釉の前でスッと頭を下げる。
 そして隣の執務室のほうへ片手を上げ誘導する。
 ――しかし誘導されるはずの紫釉は、その場に佇んだままジッと春鈴を見つめている。
 蒼嵐が少し戸惑った様子で再び声をかけようとした瞬間、紫釉が少し寂しそうに春鈴に声をかけていた。
「宝はいかぬのか?」
(……宝、は私のことですか? それともこのかんざしのことですか……?
 ――どっちにしたって行かないんですけどね! 偉い人と一緒にお茶とか……気ぃ使いすぎて味分かんなくなっちゃうよ)
 春鈴は蒼嵐の後ろでに小さくなりながらも「はい……」と控えめに頷いた。
「――これなる者には仕事がありますゆえ……」
 蒼嵐もフォローするように言葉を重ねる。
「そうか……残念だ」
 名残惜しそうにしつつ、優炎に促され紫釉はチラチラと優凛を気にしながら部屋を出ていった。
 そして部屋の中に残された春鈴は蒼嵐に小声で確認する。
「――墨、あれじゃ足りない?」
 たずねられた蒼嵐は机の上に視線を流した。
 そしてその量を確認するとゆるゆると首を横に振る。
「いや十分だ。 あとは組紐か機織りでもしていてくれ」
「んー……組紐かな、今使ってる糸、肌触り良くないし」
 春鈴は不満そうに顔をしかめた。
 蒼嵐たちに用意してもらった稀糸は、春鈴が子供の頃、練習で紡いだ糸よりも質が悪いようだと辟易していた。
 ――少なくとも春鈴はこの糸で楽しい機織りなど出来ない、そう考えていた。
「天然物と比べるな……」
「だから稀糸はみんな天然……いや、もうこその話はこの際どうでもよくて、ばっちゃに頼んで糸貰ってこれない?」
「……――後で検討する。 今はそんな場合じゃない」
「――確かに」
「くれぐれも顔を出すなよ」
「言われなくとも……!」
 蒼嵐の言葉に、春鈴は小さくとも力強い返事を返したのだった――
 
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