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第二部
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テオドアが食堂車両へ向かうと、席はそこそこ埋まっていた。
一番奥のテーブルには、窓際で頬杖をつきながら車窓を眺めるキンバリーの姿があった。テオドアがその正面の椅子を引いても、男は相変わらず顔を車窓に向けたままだ。
「……この目で見るまで、認めたくなかった」
ぼやくキンバリーを他所に、テオドアは注文を取りに来た給仕にエールを頼んだ。
「悪夢だ。あの方が、まさかこんな男に……信じたくない」
「俺だって信じたくねえよ」
テオドアは鼻を鳴らすと、椅子の背もたれに寄りかかって、出されたエールを一気に飲み干した。
「もう一杯頼む」
「……おい、無茶な飲み方するな」
給仕に追加で注文したエールは、キンバリーによって勝手にコーヒーへ変更された。
「あのなあ。エールみてえな弱い酒の一杯や二杯で酔うかよ」
「そう言ってうかつに飲むから、結局泥酔して、どっかの男の部屋に転がり込むことになるんだろう」
キンバリーは眉間に皺を寄せると、痩せた男の人差し指で、無遠慮にテオドアの鼻先を指す。
「テオドア・マレット少尉、立場をわきまえろ」
「人聞きの悪いこと言うなよ。何度かクリフトン大尉の執務室に泊まらせてもらっただけじゃねえか」
「いいか、今後そんな真似したらタダじゃ済まさないぞ。万が一、あの方の耳に届いたらどうする」
どうやら大佐を気づかった上の忠告らしい。テオドアは驚いて、キンバリーの渋面をしげしげと眺めた。
「……あんた、本当に大佐が大事なんだな」
「今さら何をほざいてる」
いまいましそうに舌打ちするキンバリーは、冷めたコーヒーを不味そうにすすった。
正直この男からは、もっと憎悪の感情を向けられるかと思った。先日まで人をドブネズミ呼ばわりし、妙な噂を振りまいて、大佐から遠ざけようとしていた。
「そうだ、あんたと話す機会があったら、誤解を解いておきたかったんだ。俺はプラント准尉とできてなんかねえぞ。そもそも愛妻家の准尉に失礼だろ」
「ふん、あの老いぼれジジイが愛妻家だって? すでに立ち去った人間だからどうでもいいが、あいつはとんでもない食わせ者だぞ」
テオドアは目を見開く。キンバリーの冷ややかな視線は、明らかに嘲りを含んでいた。
「今頃その愛する妻とやらと、孤島の牢獄でさぞや楽しい余生を送っているだろうよ」
「……!」
どうやらテオドアの知っているプラント准尉は、実像とは違っていたようだ。いや、もしかするとキンバリーに騙されている可能性もある。
「あんたが適当に、作り話をしてるだけかも知れねえだろ」
「お前のような男をだまして、俺に何のメリットがある」
「さあ、例えば俺に不信感を抱かせて、最終的に大佐から遠ざける算段とか?」
「ハッ、そんな小細工したって、あの方には通用しない。どんな手段を使っても、お前を逃しはしないだろう」
「……あんたはそれでいいのか」
「いいも何も、あの方のご意志に逆らえない。それだけだ」
テオドアは、なんだかキンバリーが不憫に思えてきた。結局のところ、大佐のやりたい放題なのだから。
『憐れな隷属者たちですね』
ふと、先日のパーティーで耳にした言葉が脳裏に蘇った。
「なあ、デイヴィスって男を知ってるか」
「なんだ、藪から棒に」
「この間の、王宮で開かれたパーティーで会った奴なんだが」
キンバリーは無関心そうに小さく欠伸を噛み殺した。心底どうでもよさそうだが、むしろその態度にテオドアは違和感を覚える。
「大佐の事、話してたぞ」
「……なんて?」
「あいつが俺に……いや、つまり」
そこでテオドアは言葉を濁す。
『彼があなたに隷属してるのでしょう』
あの台詞は冗談混じりの軽口だろうが、キンバリーには通用しない気がした。
「俺に、大佐の補佐官になれてうらやましいって言ったんだよ。あいつ、大佐の取り巻きの一人だろう?」
「……お前の下手な嘘に付き合うのは不本意だが、まあいい。つまらない軽口など、俺は興味ないからな」
完全に見透かされているが、不問にしてくれるならそれに乗っかることにした。
(だって、大佐が俺に入れ込んでるなんて外聞悪いだろうし、コイツだって認めたくねえよな)
しかしまさか、キンバリーとここまでまともに会話ができるとは思わなかった。この旅を通してどうなるか分からないが、少なくとも出発前に感じた杞憂はかなり薄らいでいる。
「あんたが興味ねえなら、この話は終わりだ」
「……調子に乗るなよ、マレット少尉。お前は常に監視されていることを覚えておけ」
「監視って、何のために……」
「大佐に近づく人間に、用心しないわけないだろう。あの方は自分に任せろとおっしゃるが、気を許して不意を突かれる可能性だってある」
つまり信用されてない、という意味だ……キンバリーにはもちろん、大佐にも。
はたして、ふりだしの疑問に戻る。大佐が『取引』と称して、テオドアに近づいた目的は何なのか。
(いや俺みたいな下っぱ相手に、大佐が体を張るなんて馬鹿げてる。色仕掛けで探りを入れるつもりなら、他の奴に任せておけばいいだろうに……)
探られて痛い腹などないのだが、もしや敵方の諜報員か何かと疑われているのだろうか。
そういえば以前大佐は、隣国アシュバートンに送り込んでいた諜報員について触れたことがあった。北での戦闘中に、テオドアが独断で行った『無謀な陽動作戦』によって、その諜報員が救われ、戦況を変えるキッカケとなったらしい……もちろんこれは、テオドアにとっては偶然の産物でしかない。
だが、もしテオドアがその諜報員の存在を知っていて、わざと無謀な行動に出たと疑われていたら?
結果、その功績が認められたテオドアは軍曹へ昇進したが、出世への野心はおさまらず、大佐がチラつかせた餌に食いついた……体を張ることに躊躇いもなく『取引』に応じて大佐の誘いに乗った。
これでは、軍の中枢に潜り込もうとする諜報員と疑われても、仕方ない状況ではないか?
(つまり俺を近くに置いて、監視するつもりだったのか……)
テオドアは軽いショックを受けている自分に動揺した。お互い利害関係から成り立っている付き合いだ。相手がどう思おうと気に病む必要はないはずだ。
テオドアはふと車窓へ目を向けた。すっかり日が沈み、窓の外は真っ暗な闇に覆われて何も見えない。まるで出口のないトンネルを走っているかのようだ。
黒いガラス窓を見つめると、疲れた男の顔がこちらを見返した。父親の故郷でもある北の国境付近は、隣国アシュバートンからの移民も多い。テオドアの外見的特徴は、彼らに近いものがある。むしろアシュバートン出身と言った方が説得力があるかもしれない。
(待てよ、じゃあ俺は……今でも疑われてんのか?)
キンバリーはテオドアを『ドブネズミ』と呼んだ。ネズミは諜報員を揶揄する言葉でもある。汚い手を使ってでも潜り込む、隣国のスパイ活動と疑われても不思議ではない。
「……お客様、追加で何かお持ちしましょうか」
テオドアの前に座っていたキンバリーは、いつの間にか退席していた。後に残されたのは、空っぽの椅子とコーヒーカップだけだった。
一番奥のテーブルには、窓際で頬杖をつきながら車窓を眺めるキンバリーの姿があった。テオドアがその正面の椅子を引いても、男は相変わらず顔を車窓に向けたままだ。
「……この目で見るまで、認めたくなかった」
ぼやくキンバリーを他所に、テオドアは注文を取りに来た給仕にエールを頼んだ。
「悪夢だ。あの方が、まさかこんな男に……信じたくない」
「俺だって信じたくねえよ」
テオドアは鼻を鳴らすと、椅子の背もたれに寄りかかって、出されたエールを一気に飲み干した。
「もう一杯頼む」
「……おい、無茶な飲み方するな」
給仕に追加で注文したエールは、キンバリーによって勝手にコーヒーへ変更された。
「あのなあ。エールみてえな弱い酒の一杯や二杯で酔うかよ」
「そう言ってうかつに飲むから、結局泥酔して、どっかの男の部屋に転がり込むことになるんだろう」
キンバリーは眉間に皺を寄せると、痩せた男の人差し指で、無遠慮にテオドアの鼻先を指す。
「テオドア・マレット少尉、立場をわきまえろ」
「人聞きの悪いこと言うなよ。何度かクリフトン大尉の執務室に泊まらせてもらっただけじゃねえか」
「いいか、今後そんな真似したらタダじゃ済まさないぞ。万が一、あの方の耳に届いたらどうする」
どうやら大佐を気づかった上の忠告らしい。テオドアは驚いて、キンバリーの渋面をしげしげと眺めた。
「……あんた、本当に大佐が大事なんだな」
「今さら何をほざいてる」
いまいましそうに舌打ちするキンバリーは、冷めたコーヒーを不味そうにすすった。
正直この男からは、もっと憎悪の感情を向けられるかと思った。先日まで人をドブネズミ呼ばわりし、妙な噂を振りまいて、大佐から遠ざけようとしていた。
「そうだ、あんたと話す機会があったら、誤解を解いておきたかったんだ。俺はプラント准尉とできてなんかねえぞ。そもそも愛妻家の准尉に失礼だろ」
「ふん、あの老いぼれジジイが愛妻家だって? すでに立ち去った人間だからどうでもいいが、あいつはとんでもない食わせ者だぞ」
テオドアは目を見開く。キンバリーの冷ややかな視線は、明らかに嘲りを含んでいた。
「今頃その愛する妻とやらと、孤島の牢獄でさぞや楽しい余生を送っているだろうよ」
「……!」
どうやらテオドアの知っているプラント准尉は、実像とは違っていたようだ。いや、もしかするとキンバリーに騙されている可能性もある。
「あんたが適当に、作り話をしてるだけかも知れねえだろ」
「お前のような男をだまして、俺に何のメリットがある」
「さあ、例えば俺に不信感を抱かせて、最終的に大佐から遠ざける算段とか?」
「ハッ、そんな小細工したって、あの方には通用しない。どんな手段を使っても、お前を逃しはしないだろう」
「……あんたはそれでいいのか」
「いいも何も、あの方のご意志に逆らえない。それだけだ」
テオドアは、なんだかキンバリーが不憫に思えてきた。結局のところ、大佐のやりたい放題なのだから。
『憐れな隷属者たちですね』
ふと、先日のパーティーで耳にした言葉が脳裏に蘇った。
「なあ、デイヴィスって男を知ってるか」
「なんだ、藪から棒に」
「この間の、王宮で開かれたパーティーで会った奴なんだが」
キンバリーは無関心そうに小さく欠伸を噛み殺した。心底どうでもよさそうだが、むしろその態度にテオドアは違和感を覚える。
「大佐の事、話してたぞ」
「……なんて?」
「あいつが俺に……いや、つまり」
そこでテオドアは言葉を濁す。
『彼があなたに隷属してるのでしょう』
あの台詞は冗談混じりの軽口だろうが、キンバリーには通用しない気がした。
「俺に、大佐の補佐官になれてうらやましいって言ったんだよ。あいつ、大佐の取り巻きの一人だろう?」
「……お前の下手な嘘に付き合うのは不本意だが、まあいい。つまらない軽口など、俺は興味ないからな」
完全に見透かされているが、不問にしてくれるならそれに乗っかることにした。
(だって、大佐が俺に入れ込んでるなんて外聞悪いだろうし、コイツだって認めたくねえよな)
しかしまさか、キンバリーとここまでまともに会話ができるとは思わなかった。この旅を通してどうなるか分からないが、少なくとも出発前に感じた杞憂はかなり薄らいでいる。
「あんたが興味ねえなら、この話は終わりだ」
「……調子に乗るなよ、マレット少尉。お前は常に監視されていることを覚えておけ」
「監視って、何のために……」
「大佐に近づく人間に、用心しないわけないだろう。あの方は自分に任せろとおっしゃるが、気を許して不意を突かれる可能性だってある」
つまり信用されてない、という意味だ……キンバリーにはもちろん、大佐にも。
はたして、ふりだしの疑問に戻る。大佐が『取引』と称して、テオドアに近づいた目的は何なのか。
(いや俺みたいな下っぱ相手に、大佐が体を張るなんて馬鹿げてる。色仕掛けで探りを入れるつもりなら、他の奴に任せておけばいいだろうに……)
探られて痛い腹などないのだが、もしや敵方の諜報員か何かと疑われているのだろうか。
そういえば以前大佐は、隣国アシュバートンに送り込んでいた諜報員について触れたことがあった。北での戦闘中に、テオドアが独断で行った『無謀な陽動作戦』によって、その諜報員が救われ、戦況を変えるキッカケとなったらしい……もちろんこれは、テオドアにとっては偶然の産物でしかない。
だが、もしテオドアがその諜報員の存在を知っていて、わざと無謀な行動に出たと疑われていたら?
結果、その功績が認められたテオドアは軍曹へ昇進したが、出世への野心はおさまらず、大佐がチラつかせた餌に食いついた……体を張ることに躊躇いもなく『取引』に応じて大佐の誘いに乗った。
これでは、軍の中枢に潜り込もうとする諜報員と疑われても、仕方ない状況ではないか?
(つまり俺を近くに置いて、監視するつもりだったのか……)
テオドアは軽いショックを受けている自分に動揺した。お互い利害関係から成り立っている付き合いだ。相手がどう思おうと気に病む必要はないはずだ。
テオドアはふと車窓へ目を向けた。すっかり日が沈み、窓の外は真っ暗な闇に覆われて何も見えない。まるで出口のないトンネルを走っているかのようだ。
黒いガラス窓を見つめると、疲れた男の顔がこちらを見返した。父親の故郷でもある北の国境付近は、隣国アシュバートンからの移民も多い。テオドアの外見的特徴は、彼らに近いものがある。むしろアシュバートン出身と言った方が説得力があるかもしれない。
(待てよ、じゃあ俺は……今でも疑われてんのか?)
キンバリーはテオドアを『ドブネズミ』と呼んだ。ネズミは諜報員を揶揄する言葉でもある。汚い手を使ってでも潜り込む、隣国のスパイ活動と疑われても不思議ではない。
「……お客様、追加で何かお持ちしましょうか」
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