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第二部

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 テオドアは、ズボンのポケットから鍵を取り出すと、古びて建てつけの悪い扉を開いた。

「おっ、久しぶりじゃないか。なんか忘れ物でもしたか?」
「ちげーよ。ここで人と待ち合わせてんの」

 玄関入ってすぐ横の食堂から顔を出したのは、寮の監督官であるブローン元士官だった。将校クラスまで上り詰めた男だが、負傷を理由に潔く退役して久しい。今は軍部の事務方として、若い兵士の世話をしている。
 ブローンは洗い物をしていたらしく、濡れた手をエプロンで拭きながらテオドアを出迎えてくれた。今ではすっかり痩せて細くなってしまったが、眼光の鋭さは今でも健在だ。

「なんでわざわざ旧宿舎で待ち合わせてんだ? お前んとこの荷物は、もう全部運び出しただろ?」
「あー……まあ、そうだけど。ここの方が、場所の説明がしやすかったからな」

 テオドアは、ボソボソ言い訳をしながら食堂の椅子に座ると、足元に擦り切れた旅行鞄を置いた。
 この『旧宿舎』と呼ばれる二階建ての古い建物は、近年老朽化が進み、近々建て替えが予定されている。
 数年前に建てられた『新宿舎』も存在するが、そちらはすでに若い下級士官たちで満室だった。その為、行き場の無いテオドアを含む士官たち十数名ほど、ここ旧宿舎に取り残されていた。
 この場所は軍司令部に程近く、ボロくても居心地は悪くなかった。それはひとえに、建物の適切なメンテナンスと美味い食事を提供してくれる、ブローンのお陰だろう。

(いつか出なくちゃなんねえって分かってたけど……まさかこんなに早まるとはな)

 実はつい一週間程前、テオドアの部屋のすぐ上の階で漏水が起こり、天井の一部が腐って崩れ落ちてしまったのだ。
 今回は幸い無事だったが、他の箇所もいつ何時腐り落ちるか分からない。テオドアは仕方なく、今は王宮警備隊が利用する宿直施設に身を寄せている。

「何もねえけど、茶ぐらい出してやるよ」

 ブローンは、奥の厨房から湯気の立つカップを運んできてくれた。そして茶をすすめながら、テオドアの足元に置かれた鞄に目を留める。

「やっと、溜まっていた有給を消化する気になったか。部屋でぐうたらするのも有りだが、旅は気晴らしにはもってこいだ。たっぷり楽しんでこいよ」
「ああ……そうだな」
「なんだ? それにしちゃ浮かない顔だな」

 眉根を寄せたブローンは、胡麻塩の髭をさすりながらテオドアの隣の椅子を引くと、ぎこちない動きで腰を下ろした。テオドアはそれに気づいて、同じように眉を寄せる。

「また腰痛が悪化したのか?」
「ジジイだから仕方ねえよ。そんなことより、お前の話を聞かせろよ。ちょっと前に昇進して、リンドグレーンとこの坊主の補佐になったんだろう?」

 テオドアは熱い茶を啜りながら、苦笑いを浮かべる。ブローンから見れば、大佐も若造扱いだ。

「お前も厄介な奴に気に入られたもんだ。あいつ、色々しつこそうだからな」
「……?」
「アッチの話だよ。お前らできてんだろ?」

 テオドアは勢いよくお茶を吹いた。むせて、しばらく咳が止まらなくなる。

「きったねえなあ……いや、驚かしてすまん」
「な、な、なん……」

 元老将校はとぼけた顔で、小さく肩をすくめてみせた。

「俺は勘だけは鋭いんだ。ま、半分はハッタリだけどよ。今のお前の反応で、疑いが確信に変わっちまった」
「くそっ……バラすなよ」
「安心しろ。俺だって平和な余生を送りてえからな。ま、よかったじゃねえか」
「何がだよ!?」
「ん、お前を大事にしてくれそうな人に出会えてさ。これでも心配してたんだぜ?」

 目尻に幾重も皺を寄せて見つめられ、テオドアは複雑な気持ちになる。
 どの士官も入寮する際は、寮の監督官にこれまでの経歴や家族構成を伝えなくてはならない。当然ブローンも、テオドアの経歴や家族について知っていた。

「もう無茶な戦い方はしてないだろ。そもそも今は、退屈なデスクワークばっかだよ」
「そっちは心配してねえよ。それにお前の戦い方は、お前が決めるもんだ。俺が心配してんのは、もっと精神的な支えだよ」

 テオドアは目を瞬いた。まさかと思うが、大佐がその支えとやらになってるとでも言うのか。

「あいつとはそんなんじゃねえよ」
「じゃあ、どういう関係なんだ」

 二人の間に一瞬、沈黙が落ちた。ブローンは心配そうに身を乗り出す。

「何があったか聞かねえが、今は合意の上なんだろう?」
「俺だって、いろいろ事情があんだよ。でもあいつは……そのうち飽きるんじゃねえの。そしたら俺なんざ即お払い箱だよ」

 大佐は無駄を嫌う人間だ。テオドアに興味があるうちは手元に置くだろうが、必要無くなれば容赦なく切り捨てるだろう。

(だって俺には……何もねえから)

 仕事面について言及すれば、テオドアは極めて凡庸で、突出した才能や技術を買われたわけではない。唯一少しばかり自信のある戦闘力だが、それだって戦時下でなければ何の役にも立たない。

「お前は自分のことを、低く見積もるとこがあるからな。捨て駒みてえに敵方へ突っ込むのは良くねえ」
「そんなつもりじゃねーけど」
「無自覚なんだよ。これまで散々えれえ目に合ってきただろ。北の前線での一件は、さすがの俺も肝が冷えたぞ」

 テオドアが命令に背いて、独断で『囮』となった一件を、ブローンはまだ苦々しく思っている。帰還した時には、彼の鉄拳で容赦なく殴られたものだ。

「お前みたいな奴は、たぶん幸せを感じるのが怖いんだよ……幸せの次は不幸が来るって、頑なに信じてやがる。うまく事が運ぶことを恐れるあまり、不幸を求めるようになるんだ」
「そういうもんかね」
「人ごとみてえに言うな。それに……お前はどこか危なっかしいとこがあるからな」

 ブローンは大あくびをすると、わざとらしく肩をすくめてみせた。

「あちらさんも、目が離せねえだろうなあ。だから監視が厳しくなるんだよ」
「なんだよ、監視って。俺は干渉されんのが、一番嫌いなんだよ……」

 テオドアが口を尖らせたその時、玄関の扉が無遠慮に開かれた。
 扉の向こうには、憮然とした表情のキンバリー少佐が立っていた。いつもの軍服ではなく、黒のスーツを身に纏う姿は、彼の黒髪黒目と相まって硬質なイメージをより一層深めていた。

「支度が出来てるのなら、さっさと来い」
「やれやれ、近頃の若いもんはせっかちだな。茶の一杯くらい飲んでけ」

 ブローンがかったるそうに立ち上がると、表情を緩めないキンバリーを一瞥して苦笑いした。

「懐かしい古巣に寄ったんだから、ちょっとはリラックスしろよ」
「……ブローンさん」

 キンバリーの黒目が少し戸惑いの色を見せた。
 こうして改めて見ると、かなり童顔の方だろう。少佐と言う階級と、言動や物腰から、明らかにテオドアよりも年配なのは分かるが、外見はテオドアと同じくらいか、ひょっとするともっと若く見えるかもしれない。

「何をジロジロ見ている」
「あ、いえ……」

 気まずそうに舌打ちしたキンバリーは、古びた板張りの床を踏み鳴らしながら、テオドアの座っているテーブルに近づいてきた。




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