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第一部

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「……やはり、君より先にここを買ったのは正解だったな」

 そう言って差し伸べられた手に、テオドアは眉をひそめる。皮の手袋に包まれた手のひらには、空の濃い影が落ちていた。辺りを見回すと、すでに薄闇が広がりつつあり、空も濃い紫色に変化している。
 そろそろ停車場へ向かわないと、最後の列車に間に合わなくなるかもしれない。しかし目の前の男は、相変わらず余裕を感じさせる物腰で、ゆったりと口を開いた。

「さて、改めて『取引』をしようじゃないか」
「……なんだって?」
「君はこの土地が欲しいのだろう? ならば売ってあげるよ」

 大佐の背後では、空の色を吸って黒く染まりつつある草原が、昼間の太陽の名残を含んだ生ぬるい夜風に煽られザワザワと波打っている。テオドアは思わず大佐の手を押しのけると、戸惑いを隠せずに顔を背けた。

「……条件は何ですか。まさか、また俺の体ですか」
「そうだね、君が欲しいかな。一夜ではなく、少なくとも土地の支払いが済むまでの間はずっと。返済期間は君が決めるといい。明日でも構わないし、二十年後だって構わない」

 テオドアは眉根を寄せて唇を引き結ぶ。まさか自分の体がこういった形で役に立つとは、数ヶ月前までは思いもよらなかった。
 大佐の嗜好は理解に苦しむが、いずれにしてもすぐに金が用意できるわけがないのだから、出された条件をのむしかない……少なくとも、この体に価値を見出してくれる間は。

「……分かった、好きにしてください」
「では取引成立、だな」

 大佐はコートの内側から折りたたんだ紙を取り出すと、テオドアの胸に押し付けた。

「辞令だ。君は今日付けで少尉兼、僕の補佐官として務めてもらう」
「なっ……」
「不服か?」

 テオドアは思わず受け取ってしまった紙を広げることすらできず、反射的に大佐に向かって突き返そうとした。

「待ってください! 実績も何もない俺が少尉に昇進なんて、どう考えてもおかしくないですか!?」
「おかしくなんかあるものか。君はゾイドの後任だからな」
「えっ、ゾイド准尉?」
「彼はクリフトンの開けた穴を埋める為、少尉を飛ばして中尉に昇進した。つまり彼が着くはずだった少尉の席が空いた事になる」

 大佐は腕組みをすると、反論は受け付けないとばかりテオドアを高圧的に見つめる。

「君は事あるごとに彼の助けを借りて、仕事を覚えたのだろう? 図らずも後任として、これ以上の適任者はいないというわけだ」

 大佐の言葉尻には、どこか非難めいた響きを感じる。ゾイドに頼って仕事をしていた事を、暗に責めているようにも聞こえるが、考えすぎだろうか。

「それに……大佐以上の補佐官は、少尉以上でなくてはいけない軍部の決まりがあってな」
「えっ!」
「僕の傍に置いておくにも、色々都合がある。以上だ」

 大佐は一方的に会話を終わらせてしまうと、テオドアの肩に手を回して強引に引き寄せた。埃だらけの軍服が上質なフロックコートを汚しそうで、テオドアは体を引こうとしたが、逆に深く抱き寄せられてしまう。

「さあ急ごう。今から駅へ向かえば、最終列車には間に合う」
「分かってますよ……ちゃんと歩きますから、離れてください」

 テオドアは何とか距離を取ろうとするも、強くは拒絶できない。この男から土地を買い取るまで、傍から離れるわけにはいかないのだ。

(……間違っても、二度とあいつらの手に渡さねえ)

 父親が継ぐはずだった領地を奪った男……大叔父の一族が、どこかで生きている可能性がある。再び彼らの手に渡らないよう、今のところは大佐の所有地としておいてもらう方がまだ安心だ。
 その後、急いで停車場へ向かった二人は、なんとか最終列車に滑り込むことができた。テオドアは復路のチケットを持っていたものの、大佐に有無を言わさず取り上げられてしまう。

「僕と同じ車両に乗るといい。君の分のチケットもすでに用意してある」
「いや、でもここ一等車……」
「上官命令だ。君は僕の補佐官だろう?」

 そう言われると何も反論できない。観念して一等車の個室についていくと、中は想像した以上に豪華だった。
 座席に着いた途端、車掌が飲み物の注文を取りに来たことに衝撃を受ける。一般客が利用する三等車とは、あまりにも格差があって不快感すら覚える。
 テオドアは、向かい合わせで席に着く大佐をチラリと見やった。頬杖をついて車窓の外を眺める横顔は、やはり軍人らしからぬ風貌だ。一等車の個室の豪華さが、彼にはしっくりくる。

(くそっ……落ち着かねえ)

 座席はほどよくスプリングがきいていて、座り心地は抜群だ。個室で人目が無い為、リラックスできそうなものだが、やたら高級感漂う空間に緊張感は解れそうになかった。





「……メインディッシュは牛肉で。付け合わせには、こちらの温野菜をもらおう。ワインはそうだな……赤でもいいが、君は苦手だったか?」

 テオドアは憮然としたまま、白いテーブルクロスを見下ろす。手元には銀色に輝くカトラリーがズラリと並び、その奥には磨き上げられたワイングラスが三つ並べられている……なんでこんなことに、と頭の中で同じ言葉を反芻する。

「テオドア?」

 物思いに耽っていたテオドアは、ハッとして顔を上げた。ランプの光を反射させた青い瞳が、問う様に向けられている。

「ワインだよ、どうする?」
「……なんでも結構です」
「なんでも、というリクエストが一番厄介なんだが」

 大佐は不満気にこぼすも、機嫌は悪くなさそうだ。先ほどからテオドアの袖口をつかんだまま、親指で手首を撫でてくる。我慢ならず乱暴に手を引っ込めると、袖口のカフスがカトラリーにぶつかって鋭い音を立てた。

「こら、いい加減機嫌を直せ」
「……」
「どうせ明日は仕事も休みなのだし、少しばかり寄り道しても罰は当たらないだろう」

 ここは王都から少し離れた街の、停車場からほど近いホテルに併設された食堂内だ。
 先刻まで乗っていた列車は、王都まで走っておらず、終着駅がこの街だった。駅を降りる頃には、すでにこの日の乗り換え列車は終わっていたので、二人は選択の余地もなくこの街で一泊することになったのだが……テオドアは大佐の手の感触が残る手首を、もう片方の手でグッと握りしめる。

(絶対、確信犯だろ……!)

 大佐の落ち着いた様子や、迷いなくホテルへ向かう姿に、テオドアは驚きを通り越してあきれ果てた。しかも食堂ではドレスコードがあると告げられ、ホテル内にあるブティックでジャケットやらシャツやらを一揃え用意されてしまい、着慣れない窮屈な服でやたら豪勢な夕食を取る羽目になって今に至る。

「今後は、僕と行動を共にすることが増えるのだから、こういう場にも慣れてもらわないと」
「……」
「君、腹が空いているだろう? せっかくだから好きな物をたくさん食べるといい」

 その時ちょうど二人分のステーキが運ばれてきた。たしかに今日は、列車で買った弁当を食べたきりだ……それだって腐りかけていた為、半分も口にできなかった。
 いろいろ言いたい事はあるが、食べ物に罪は無い。テオドアは戸惑いながらも、なんとかフォークとナイフで食事を始める。

「ふうん、基本のテーブルマナーは出来ているじゃないか」
「……小さい頃、躾けられたんです」

 幼い頃から大した食事でなくても、父親には食べ方について厳しく躾けられた。何の意味があるのかと、慣れない安物のカトラリーを手に不貞腐れていた記憶がある……嫌な思い出の一つだ。

「そうか、君は愛されて育ったんだな」
「……ただのつまらない見栄ですよ」

 父親は間違いなく、自分の出自に誇りを持っていた。爵位も継げず、社交界に出入りしたこともないくせに、テオドアには『いつか外に出たとき恥ずかしくないように』と、あれこれ厳しく躾けた。

(いつかって、いつだよ。今か? 冗談じゃねえ……たらればの話なんて、一文の得にもなりゃしねーよ)

 父親の、あの昔を懐かしむ瞳が大嫌いだった。今ある生活を否定しているかのような態度に、憤りしか感じなかった。だったら、この生活でしか存在できない母親やテオドアは何なのか。
 まるで自分の存在が軽んじられているようで、あたかも彼の不幸の象徴のようで、腹が立って仕方なかった。そう、テオドアは父親が大嫌いだった。そして軽蔑もしていた。

「……そんな顔するな。さあ、これも食べるといい。パンもおかわりをもらおう。それから飲み物は、軽いエールにレモンを絞ったものを……」

 大佐は淡々とした口調で、テオドアにあれこれ食べ物や飲み物を勧めてくる。こうなったら好きなだけ食いまくってやると、無理やり気持ちを切り替えることに成功した。

(このくらい楽しみがあったって、罰当たんねーだろ……)

 その後は食べる事に集中して、会話は主に大佐の話すことに相槌を打つだけに留めた。エールをいつもより多めに飲んでしまい、出された料理をしこたま腹に詰め込むと、少しばかり溜飲が下がった。

(ちょっと飲み過ぎたか……)

 食事を終えると、二人は連れ立って今夜の宿泊先の部屋へ戻った。
 チェックインした時は、服装を整えるだとかで翻弄されてよく分からなかったが、改めて室内を見回すと田舎町のホテルとはいえ、なかなか広くて洒落た内装に整えられている。寝る為だけに泊まるのが、少々勿体ない気がするくらいだ。
 テオドアは部屋に着くなり、さっそく堅苦しいジャケットを脱ぎ捨てた。首に絡まるアスコットタイの生地がなだらか過ぎて、何度も指から滑り落ちてなかなか解けず舌打ちする。

(くそっ、早く横になりてえ)

 目の前には豪華なベッドが二つ並んでいる。大佐と同室なのは少々引っかかるが、明日も早いのだからさっさと寝てしまえば問題ない。

「ほら、外してあげるよ」
「ん……わりい」

 シュルッと音を立てて、首から邪魔な布が取り除かれ、襟元のボタンが外されると、ようやく呼吸が楽になった。ズボンからベルトを引き抜かれながら、そっと肩を押されて背中からベッドに倒れる。

「気持ち良さそうだね」
「ああ……うん、そうだな……」

 大佐の顔が肩口に埋められる。首筋の濡れた感触に、思わず体を震わせた。

「やめろ、くすぐったい……」
「感じてるって言うんだよ。ほら、ここも」

 シャツの下から熱い手が差し入れられ、指先が胸の飾りにそっと触れた。酒のせいで皮膚が敏感になっているのだろうか。むず痒い感覚にたまらなくなり、体を横に向けて逃れようとすると、シャツの前がはだけて素肌の胸をシーツに押し付ける形となった。

「ふっ……何度見ても、君の肌はそそられるね」
「うるせ……きたねえから、見んな……」
「汚いって?」
「傷だらけで、見れたもんじゃねーだろ……」
「ああ、これ?」

 大佐の湿り気を帯びた熱い唇が、胸の古傷をなぞっていく。濡れた部分に軽く息を吹きかけられると、背筋に痺れるような戦慄が走り、腰が甘く切なくうずいた。

「ばか、やめろって……んん」

 大佐の頭を押しのけようと手を伸ばすも、酔っているせいかうまく力が入らない。

「白いシャツだと、透けて見えそうだ……色っぽくてたまらないな」
「ばっ、何を……」
「こんな傷ばかり作って、どれだけ無茶な戦い方してきたのやら。君は本当に、自分の体を粗雑に扱ってきたんだな」

 大佐の唇が一つ一つの傷にやさしく押し付けられる。何をしたいのだろう、どうしてそんな風に触れるのだろう……これではまるで、慰められているようではないか。

「君が大切にできないのなら、僕によこせ」
「えっ……」
「命を粗末にして、いい気になっている時分よりは多少マシになったようだが……まだまだ目が離せそうにないな」

 その言葉に既視感を覚えた。暗闇の中で響いた一言が頭に過る。

 ――命を粗末にして昇進か。いい気なものだ。

 テオドアの意識を変えるきっかけとなった、あの言葉は……こんな声ではなかったか?

(まさか……)

 急に浮上してきた疑念に気を取られていると、頭上から情欲に濡れた声が響いた。

「ずいぶんと余裕だな?」

 シーツに両手をついて半身を起こした大佐は、少し不満そうにテオドアの顔を覗き込む。瞼にキスを落とされて思わず目をつぶると、閉ざされた視界の向こうで小さく笑う気配がした。
 その夜、テオドアはやさしく丁寧に抱かれた。もどかしくて泣きたくなる度、もっと泣けと言われ続けた。これまでで一番、羞恥心を煽られる夜となった。




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