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第二部

7.秘密の訓練

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 翌朝。バージルが執務のため迎えにきたピアースと部屋を出ていくと、ソファーに座って見送ったカシュアは扉が閉まるなり立ち上がった。
「上着を用意してもらえますか」
 すっかり顔馴染みになったコニーという名の侍従は、その言葉に微笑む。カシュアより背が高いが、線が細いので威圧感はなく、柔らかそうな栗色の短髪と緑の瞳には親しみやすさがあった。
「多少の散歩ならば、典医殿もむしろ推奨されるでしょう」
 コニーはまだ十七歳と年若いが医学に明るく、カシュアの日々の体調管理を請け負ってくれている。要するにガイヤから送られた見張りであり、日々カシュアが無理しないか監視しているのだ。しかしそれはカシュアにとってはありがたかった。なぜならガイヤは正しくコニーに見張らせているからだ。ただ安静にするのをよしとせず、適度に体を動かすことで体力をつけていくという至極当たり前であり、過保護な侍女らや特にバージルには通じない理屈を持ち合わせていた。
 コニーが一緒ならば、カシュアが部屋を出ても侍女は心配しないし、バージルに報告もしない。典医殿の有能な助手として知られている彼が、妃殿下を危険な目に合わせるはずがないと正しく理解してるからだ。そんなわけでカシュアはコニーと連れ立って堂々と中庭を抜けると、その先に広がる本宮殿の庭園へと向かう。コニーが同行するからこそ、どこへ行くにも彼の顔パスで行けるという利点があった。
 二人が広い庭園の一角に設えた東家を目指すと、先に着いたのであろう人物が柱の影から現れた。カシュアは一旦足を止めて、丁寧に礼をする。
「王妃殿下、お待たせして申し訳ありません」
「いえ、私が早く着きすぎてしまったんです」
 カシュアと待ち合わせていたのは、エドワード国王陛下の正妃、レジーナ王妃殿下だった。こうして待ち合わせるのは三度目だが、相変わらず気さくで話しやすい雰囲気があった。夕焼け色の髪は鮮やかで目を引くものの、顔の造作はいたって控えめなため威圧感は微塵も感じない。ただ一点どうしても目を引くのは、右目を覆う黒の眼帯だった。左目の瞳の色によく似た緑の糸で美しい刺繍が施されている。
「レジーナ様ってば、お付きの侍女はどうされたのです?」
「遠慮してもらったよ。いたらお茶やら用意したがって邪魔されそうだからね」
 コニーの問いに、レジーナは肩をすくめた。前回までは少なくとも、侍女がひとり付き添っていたが、それすらも我慢ならなかったらしい。だが当然、侍女は離れた生垣に待機してこちらの様子をうかがっていた。また見回りの兵士がさりげなく数名、東家の周りを通りかかる。レジーナは眉を下げて、しかたないんだと苦笑を漏らす。
「東家の中までは、聞き耳立てることはしないと思うよ」
「それは……どうでしょう。聞かれて困る話はしませんけど。さあカシュア様はこちらへお座りください」
 コニーは持ってきた毛布を冷たい石造りのベンチに敷いてくれた。当然レジーナの席も同様に設けたが、彼女は柱にもたれたまま座ろうとはしなかった。
「いつも座りっぱなしで疲れてるんだ」
「王妃様のご公務上、避けられませんよね」
「おかげでだいぶ体力も落ちちゃった。衛兵時代が懐かしいよ」
 カシュアは王妃とコニーの話を黙って聞いていたが、テーブルに置かれたものが気になってチラチラと視線を向ける。それに気づいたレジーナは、しまったとばかりそれをずいっとカシュアへ押しやった。
「おしゃべりに夢中で、お待たせして申し訳ありません、カシュア様。こちらがご所望の本です」
「あの、ありがとうございます。ところで俺に対して、そのように丁寧な言葉遣いは不要です。むしろ俺のほうが」
「いいえカシュア様、これは最初に申し上げた通りです。私はもともと平民で、しかもたまたま王妃の役を与えられた、言わば『かりそめの王妃』なのですから」
 聞けばレジーナは、数年前にとある戦場で王太子、つまり現エドワード国王陛下の率いる軍に加わって戦ったことがあったそうだ。その際に王太子をかばって右目を負傷したという。その功績より『王太子への忠誠心が強い者』として、戦後は王太子の近衛兵に抜擢され、最終的に長年空席だった王太子妃の位を賜ったらしい。その理由はひとえに腐敗しきった貴族間のしがらみを避けるためだったという。
「陛下には『下手にどこかの貴族の娘を妃に迎えるわけにいかないから、とりあえずお前がなってくれ』と言われただけなんです」
 クーデターの後は、幸せそうな国王夫妻の形を国民に示して、少しでも明るい未来を期待できるよう示唆したかったそうだ。当時からエドワードの周囲には信頼できる人間は限られていた上、安定した国づくりの一歩だと言われたら、断れなかったと彼女はぼやく。
「時間があれば、他にもっとこのお役目にふさわしい人がいたはずなんですけど」
「それでもあなた様は王妃殿下です。少しは自覚をお持ちください」
 そうお説教混じりに言うコニーは、かつてレジーナと戦場を共にした過去があるらしい。遠慮ない物言いと親しみのある言動からは、厳しい状況を共に乗り越えた仲間意識のような絆を汲み取れた。
「ところでカシュア様、ご用意した本は基本的な体術の指南書ですが、本気で体術を学ぶおつもりですか?」
「はい。簡単なものから学べればと思います。ご指導よろしくお願いします」
「本当に私でいいんですか? バージル殿下にお願いしたほうが」
「バージル殿下は、俺に教えてくれないでしょう。なにしろ中庭の散歩ですら、心配されるかたですから」
 バージル殿下は、少々心配症過ぎるとカシュアは考えていた。少しの運動でも、ましてや体術なんて危険だと反対されそうだ。しかし体術を習う目的はあくまでも自己防衛で、戦力になるなんておこがましい考えはない。ただ足手まといになりなくないだけ、自分の身ぐらい自分で守れるようになりたいだけだ。カシュアは耳からすべり落ちる灰色の髪をすくい上げ、うしろでひとつに結びながら目を伏せた。
(守られてばかりでは、ずっとお荷物のままだ。見捨てられないよう、役に立つ人間になりたい)
 そんなカシュアはコニーに相談し、彼を通じて協力者を得たわけだが、まさかその協力者が王妃殿下とは思わなかった。しかし今では彼女にお願いしてよかったと思う。仮に兵士にたのんだら、普段から訓練をしている彼らのことだ。生傷がたえない彼らの痛みに触れて、耐えきれる自信がカシュアにはなかった。その点レジーナは、古傷こそたまにうずくものの、今は戦いとは無縁に暮らしていて、体調管理もきちんとされている。また彼女の教えかたはとても丁寧でわかりやすいと思った。

「バレてないと思ってるところが、また可愛いな」
 王宮の一角に設えた会議室の窓辺で、エドワード国王陛下は遠くに見える東家を見つめながらクスクス笑った。残念ながら王妃の姿は、この部屋からはまったく見えない。しかし報告だけは逐一受けているので、彼女の行動はすべてが筒抜けだった。
「……いつまで、だまされた振りをすれはいいのです?」
 会議室のテーブルでは、バージルが書類を片手に苦々しくつぶやいた。先ほどから同じページを開いたままだが、内容はまったく頭に入ってないようだった。
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