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第三部

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 腰を直角に折り曲げ、廊下の床を見つめた状態でいたら、頭上からカタンと音がした。

「なんだか、ずいぶんと仰々しいね」
「親父」
「あら、あなた。雅之と、お肉買いに出掛けたんじゃなかったの」

 そろそろと顔を上げると、初老の男性が階段の手すりから身を乗り出して、こちらを見下ろしてる。恐らく外国の血を引いてるであろう事は、淡い髪の色と青味がかった瞳の色から容易に推測できた。

(津和さんの、お父さんだ)

 俺は大きく深呼吸すると、今度は階段に向かって深々とお辞儀した。

「はじめまして、千野と申します。本日はお邪魔させていただいてますっ……」
「こちらこそ、はじめまして。うちのせがれ、梓とは、付き合ってどのくらいなんだい?」

 何のてらいも無く確信を突いた質問に、俺はかえって冷静になった。

「ああ、ええと……そろそろ一年になります」

 津和と出会ったのは、去年の夏の終わり頃だ。あれからもう一年近く経っているとは、にわかに信じ難い。
 まさかこんなに長く関係が続くとは、付き合い始めた頃には想像つかなかった。別に津和を信じてないわけじゃない。ただ、自分に自信が無いだけだ。

「一年も、付き合っているのかね」
「すいません、ご挨拶が遅くなって……」
「いや、そう言う意味ではなくて、よく梓と付き合えるなあと思……」
「親父、そろそろバーベキューの準備始めようか」

 父親の言葉を遮るように津和が口を挟んだところで、タイミングよく玄関の扉が開いた。

「みんな、こんなところで何やってんだ」

 背の高い男性が、両手に買い物袋を下げて登場した。顔立ちから、間違いなく津和の兄弟だと見て取れた。

「おかえり、雅之。ちょうど今、梓の恋人に挨拶してたところだよ」
「ああ。そうか……梓の、ね」

 向けられる視線がやけに鋭いのは、恐らく母親似なのだろう。一方、津和は完全に父親似だ。少し甘めの顔立ちである津和と違い、雅之さんの精悍で端正な顔立ちは、時代劇に登場する武士をほうふつとさせた。

「どうも、梓の兄の雅之です」
「はじめまして、千野と申します」

 大きく頭を下げたら、なぜかフッと笑われてしまった。堅苦しいのは嫌いだから楽にしろと言われ、中身も母親似なのだなあと少し安心する。

 こうして家族が揃ったところで、バーベキューが始まった。肉は和牛サーロイン、豚肉、鳥のもも肉等が豪勢に網の上に乗せられ、油を滴らせて香ばしい香りを立てている。野菜は先刻サービスエリアで、津和と一緒に購入したナスやタマネギ、ピーマンにトマトが並んだ。

「猫舌なんだから、火傷するなよ」

 そう津和に注意されたにもかかわらず、俺はちょっぴり舌を火傷してしまった。焼きトマトは熱々で中がトロトロで、爽やかな酸味が口に広がりとても美味しかった。

「ケイ君、お酒は? ビールもワインも冷えてるよ」
「あー……いえ、水で結構です。お気遣いありがとうございます」

 雅之さんに勧められた酒は、丁重にお断りした。酒を飲まないのは、なにも遠慮しているわけじゃない。先ほどから頭の調子が不穏なのだ……まだ痛みまで感じてないけど、明らかに偏頭痛の兆候である。
 偏頭痛の薬は、痛み出した頃に飲むと効果がある。しかし痛む前や、痛くなり過ぎた後だと、俺の経験上あまり効かなくなるケースが多い。

(ヤバイなあ……薬、車のダッシュボードの中に置いてきちゃったんだよな)

 車を走行中に痛くなった場合を想定して、医者から処方された偏頭痛の薬をわざわざ手荷物から取り出して、なるべく側に置いたのが仇となった。
 それでも昔からの習慣で、普通の市販薬はズボンのポケットに忍ばせてある。いざとなったら、これに頼るしかない。

(津和は勘が鋭いから、バレないよう気をつけないと……)

 普段ならこんな風に隠したりせず、体調が悪ければすぐに津和に知らせる。会社の同僚の前ではいざ知らず、津和の前でこっそり薬を飲むことはない。
 でも津和の家族を前にして、しかもせっかくバーベキューをしてるのに水を差したくなかった。

(いや、そうじゃない)

 単に皆に知られたくないだけだ……津和の家族の前で、具合が悪いとか言いたくない。情けない姿を見せたくない。頼りない奴だと思われたくない。

「俺に遠慮してないで、飲みたいなら飲んでいいよ?」

 津和がそう声を掛けてきたのは、運転する自分の手前、俺が気を使っていると勘違いしたのだろう。いや、それも多少はあるが、こんな時にアルコールを摂取するなんて、とても恐ろしくて出来ないだけだ。津和だって、俺の今の体調を知っていたら、全力で止めるだろうことは想像できる。

(大丈夫、たしか津和は二時には引き上げるって言ってた……もう一時過ぎだから、あと小一時間我慢すればいいだけだ)

 だんだんと目眩がしてきた……俺にとってこの感覚は、十中八九偏頭痛の予兆だ。あと五分もしないうちに痛みだすだろう。

(今、市販薬を飲むか?)

 まだ完全に痛み出してない……頭がしめつけられる感覚はするが、もう少し待った方がいい。いや、市販薬は偏頭痛の薬とは全く異質だから、すぐ飲んでも構わない? でも本当に偏頭痛なら、市販薬は効かないだろう。

(どうしよう……本当に酷くなる前に、津和にだけでも正直に言った方がいいのか……?)

 悩みながらも、串に差した焼きたての牛肉を齧りつき、素早く咀嚼する。愛想笑いが難しくなる前に、とにかく食べ物をたくさん皿にもらって、後はひたすら口に運んだ。血が胃に集まれば、頭の膨らんだ血管が少しマシになって、多少は痛みが引くかもしれない。

「ケイ……眠いんじゃないの?」

 先ほどまで肉や野菜を焼いてた津和は、いつの間にか隣にいて、俺の顔を覗きこんでいた。

「いや、別に眠くは……コレ焼きたてで、うまいよな。つい夢中で食べてた」
「ふうん……母さん、二階の客室のベッド使える?」
「ええ、一応ベッドメイクはしてあるわよ」

 津和は俺の言葉を軽く受け流すと、ビールを手にくつろぐ母親と話し出した。そんなに俺、眠そうに見えたのだろうか?

(いや、コレはきっとバレてるな……)

 俺は居たたまれないあまり、口に野菜や肉をめちゃくちゃに頬張ったままうつむく。すると向かいの椅子でビールを飲んでいた津和父が、俺と津和に向かって心配そうに身を乗り出してきた。

「何、ケイ君具合が悪いの?」
「いや、昨日まで仕事詰めてて、寝不足なんだよ。今朝も早かったのに、ずっと助手席でナビしてくれてて、な?」
「……うん」

 かばわれてる。俺が、具合が悪いことを悟られたくない事まで察してフォローしてくれる。

「ほらケイ、二階で少し休もう。ん、どうした? けーい、眠いならおんぶしようか?」
「……っ、一人で歩ける」

 涙をこらえていたら、津和に腕を取られ、椅子から引っ張り上げられた。そのまま支えられた状態で、庭から玄関に回って屋内に入ると、今度こそ抱き上げられてしまう。

「いいってば……重いだろ」
「まあ軽くはないけど。そう思うなら、俺の首に腕を回して協力して。少しはマシになる」

 横向きに抱かれるのは嫌いじゃないが、大抵の場合は『そう言う意味で』ベッドへ連れていかれる時なので、自然と顔が赤らんでしまう。そんな俺の様子に、目ざとく気づいた津和が口角を上げると、鼻先がぶつかりそうなくらい顔を近づけてきた。

「何、期待してる?」
「馬鹿、こんなところでよせ」
「冗談だよ」

 小さく笑った津和の瞳から、俺の体を気づかってることが分かる。俺のネガティブ思考を払拭するかのように、こうやって冗談言ったりふざけたりする。
 二階の客室に着くと、ベッドの上にゆっくりと降ろされた。洗いたてのシーツの感触が、頬をサリっと撫でていく。ようやく気が張ってたのが解きほぐれて、体から力を抜くことができた。

「薬はたしかダッシュボードに置いてたよな、今取りに行ってくるから、少し待ってろよ」
「……悪い」
「何が?」

 素っ気ない言葉とは裏腹に、津和の口調はとてもやさしかった。しばらく部屋に一人残されたが、あまり待つ事もなく津和は水のボトルを手に戻ってきてくれた。

「ほら、ゆっくり飲んで」

 わざわざ錠剤を口まで運んでくれる。素直に開くと、津和は開封したてのペットボトルを『このままじゃ零すから』と、自ら半分ほど飲み干してから、飲み口を俺の唇に押し当てた。たしかにこの量ならば、横向きになったまま飲んでもこぼれにくい。

「飲んだな……後は眠ってるといい。一時間もすれば薬も効いてくるだろうから、そうしたらここを出よう」
「……悪い」
「だから何が」

 津和は小さく笑うと、俺の頭をそっとひと撫でして部屋を出ていった。
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