上 下
21 / 58
第二部

1.仕事の付き合い

しおりを挟む
 とうとう、この日が来てしまった。
 秋も深まってきた今日この頃。俺こと千野敬二郎せんのけいじろうは、蓋を閉じた弁当を専用バッグに入れて、大きく肩で深呼吸をする。おかずが少し豪華になったのは、いつもより早めに起きたからだ。
「……ケイ、何してるの?」
 津和がいつの間にか、キッチンの入口に立っていた。弁当の袋を抱えたまま、少しだけ考え込んでいたわずかな間を、見られてしまったようだ。
 俺は観念して、しかたなく重い口を開いた。
「えっと、今夜は帰り遅くなる」
「どうして?」
「会社の飲み会があるから」
「……」
 津和の表情が、わかりやすく曇った。わかっている、俺だって気は進まない。そして当日まで黙っていたことも、悪かったと思ってる。
「じゃあ帰りは迎えにいくよ」
「えっ、いいよ。そんなに遅くまで、いるつもりはないから」
「時間は関係ない。途中で気分が悪くなったらと思うと、俺が心配だから……迎えにいかせて?」
 そう言って微笑まれると、嫌とは言えなかった。津和の心配は、実は俺の心配でもある。夜の飲み会なんて、何年振りだろう。大勢の人間とテーブルを囲み、飲み食いしながら大声でしゃべり、笑い合うといった行為が二時間は続く。その後は二次会のカラオケが定番だろうか。
(考えただけで、頭が痛くなりそうだ……)
 参加を断れない理由は、俺が参加しているプロジェクトの決起会であり、しかも俺の歓迎会もかねているからに他ならない。
 俺はフリーのプログラマーだが、大学時代の友人からの紹介で、新規のクライアントのプロジェクトチームに参加させてもらえることになった。普段は在宅での仕事しか引き受けないのだが、今回はチャレンジもかねて週三回の通勤を承諾した。
(薬もしっかり持ったし、就業時間中はなんとかなるだろうけど……)
 俺は酷い偏頭痛持ちで、人混み、特に混雑した通勤電車が苦手だ。今は医者から処方された薬で対処してるが、以前は市販薬にしか頼ってなかったため、服用しても効かないときが、たびたびあった。痛さのあまり吐きもどしたり、夜も眠れなかったり、また一度倒れると起きあがれないほど酷いときもあった。
 そんな状態でまともに通勤できるわけもなく、前の会社はそれが原因で辞めることになった、という苦い経験がある。
「ケイ、薬は両方持った?」
 津和はこうやって、俺が出社する日は必ず、処方薬と市販薬の両方を持ったか確認してくる。
(どっちが効くか、そのときの頭痛によって違うっていうのも、不思議だよな)
 頭痛には種類があって、処方薬が効くタイプと効かないタイプがある。そして効かない場合は、市販薬が効く。たまに両方飲まなくては治らない場合もあれば、両方飲んでもあまり効かない場合もある。頭痛の対処は非常に難しくて、痛みの感覚であたりをつけて飲むしかない。
(今日は少し、痛くなりそうだな)
 頭痛の予兆は感じるから、そういうときは無理しないように、気をつけて一日過ごす。ラッキーなら、痛みが出ないまま過ごせるときもあった。今日の体調では、本当は早く帰宅したほうがいいのだけど。
「じゃあ行ってくるよ」
 車通勤の津和は、フレックスで十時出社の俺よりも、先に家を出なくてはならない。玄関まで見送りにいくと、靴を履き終えた津和が、心配そうな表情でこちらを見た。
「なんかあったら、すぐ連絡して」
「わかったって。大丈夫だよ、薬もあるんだから。ほら、遅れるから早く行けよ」
 一緒に暮らす恋人に対して、つい素っ気ない態度を取ってしまうのは、照れ隠しもあるが、心配かけたくないのもある。
「キスしてくれないの」
「しねーよ。早く行けよ……」
「わかった、俺からする」
 手首をつかまれ、簡単に引きよせられると、朝にしては濃厚なキスをされた。
「……早く行ってこい」
「うん。帰り迎えにいくからね」
 今夜の飲み会参加は、反対されなかった。そもそも今回の仕事を引き受けるときも協力的だった。でも津和は心配する……そして世話を焼きたがるのだ。
 俺はこのまま、彼の優しさに甘んじていていいのだろうか。

「千野さん、ちょっといいですか」
 社内で声をかけてきたのは、同じプロジェクトのプログラマーである太田さんだった。俺が雇われているITベンチャーの社員で、新卒入社でまだ一年も経ってないのに、今回のプロジェクトの進行役をまかされているすごい人だ。
「この機能なんですけど、今担当いただいてる部分と似てるので、おまかせしてもいいでしょうか」
「あ、はい。もちろんです」
 一緒に仕事して二週間経つのに、太田さんと話すときは、いまだに緊張感が抜けない。俺が長いこと在宅ワークばかりで引きこもっていたから、人付き合いが苦手になっているのもあるが、太田さんの淡々とした物言いや態度が、少し関係してなくもないと思う。
(俺も人と話すの、そんな得意な方じゃねーし、向こうもからみづらいって思ってるかもな)
 今のところ仕事に支障はないが、なにかあったときに気軽に相談できそうなタイプではない。
(まあ考えても、しかたないよな)
 今は与えられた仕事を、きちんと仕上げることに集中するしかない。
「千野さん、今夜の飲み会ですけど」
 隣の席の金森さんから声がかかる。太田さんと同期らしく、同じプロジェクトで同じくプログラマーだ。俺と一緒に分担する部分が多く、たくさん助けてもらっている。
「よかったら七時ごろに、他の何人かと一緒に会社出ませんか。場所がわかりにくいみたいだから、どうせなら皆で一緒に迷おうかと思って」
 迷うことが前提なのが笑いを誘う。金森さんは、とてもフレンドリーで話しやすい。
「はい、是非。俺も方向に自信ないんで助かります」
「今のところ、全員方向音痴なんですよねー……あ、そうだ。相川さーん」
 ちょうど通りかかったのは、営業部の主任の相川さんだった。どこかへ急いでいる様子だったが、金森さんの気さくな呼びかけにも嫌な顔ひとつせず、立ち止まってくれる人格者だ。
「どうした、なんかトラブルでもあったか?」
「やだなあ、違いますよー。ま、トラブルになるのを防ぐって意味でも……今夜チームの連中と集まって出る予定ですけど、相川さん一緒に来ません? 俺たちだけだと、道が不安なんで」
「いいよ。千野さんも一緒ですか?」
「はい」
 ふと相川さんの視線が動いたので、その先を追うと、手持ちのタブレットに視線を落とした太田さんの姿があった。どうやら彼的には会話は終了し、業務へ頭を切り替えたのだろう。俺は聞きたいことがあったので、相川に軽く会釈して太田さんに向き直った。
「すいません、太田さん。この部分なんですが」
「ああ、ちょうどそこの説明をしようと思ってて……」
 太田さんは説明しようとして、ふと近くにいた相川さんの存在を認めると、言葉を切って露骨に眉を寄せた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約破棄ですか? では、最後に一言申しあげます。

にのまえ
恋愛
今宵の舞踏会で婚約破棄を言い渡されました。

婚約者の浮気現場に踏み込んでみたら、大変なことになった。

和泉鷹央
恋愛
 アイリスは国母候補として長年にわたる教育を受けてきた、王太子アズライルの許嫁。  自分を正室として考えてくれるなら、十歳年上の殿下の浮気にも目を瞑ろう。  だって、殿下にはすでに非公式ながら側妃ダイアナがいるのだし。  しかし、素知らぬふりをして見逃せるのも、結婚式前夜までだった。  結婚式前夜には互いに床を共にするという習慣があるのに――彼は深夜になっても戻ってこない。  炎の女神の司祭という側面を持つアイリスの怒りが、静かに爆発する‥‥‥  2021年9月2日。  完結しました。  応援、ありがとうございます。  他の投稿サイトにも掲載しています。

浮気な彼氏

月夜の晩に
BL
同棲する年下彼氏が別の女に気持ちが行ってるみたい…。それでも健気に奮闘する受け。なのに攻めが裏切って…?

推しの完璧超人お兄様になっちゃった

紫 もくれん
BL
『君の心臓にたどりつけたら』というゲーム。体が弱くて一生の大半をベットの上で過ごした僕が命を賭けてやり込んだゲーム。 そのクラウス・フォン・シルヴェスターという推しの大好きな完璧超人兄貴に成り代わってしまった。 ずっと好きで好きでたまらなかった推し。その推しに好かれるためならなんだってできるよ。 そんなBLゲーム世界で生きる僕のお話。

【完結】真実の愛とやらに目覚めてしまった王太子のその後

綾森れん
恋愛
レオノーラ・ドゥランテ侯爵令嬢は夜会にて婚約者の王太子から、 「真実の愛に目覚めた」 と衝撃の告白をされる。 王太子の愛のお相手は男爵令嬢パミーナ。 婚約は破棄され、レオノーラは王太子の弟である公爵との婚約が決まる。 一方、今まで男爵令嬢としての教育しか受けていなかったパミーナには急遽、王妃教育がほどこされるが全く進まない。 文句ばかり言うわがままなパミーナに、王宮の人々は愛想を尽かす。 そんな中「真実の愛」で結ばれた王太子だけが愛する妃パミーナの面倒を見るが、それは不幸の始まりだった。 周囲の忠告を聞かず「真実の愛」とやらを貫いた王太子の末路とは?

【完結】後妻に入ったら、夫のむすめが……でした

仲村 嘉高
恋愛
「むすめの世話をして欲しい」  夫からの求婚の言葉は、愛の言葉では無かったけれど、幼い娘を大切にする誠実な人だと思い、受け入れる事にした。  結婚前の顔合わせを「疲れて出かけたくないと言われた」や「今日はベッドから起きられないようだ」と、何度も反故にされた。  それでも、本当に申し訳なさそうに謝るので、「体が弱いならしょうがないわよ」と許してしまった。  結婚式は、お互いの親戚のみ。  なぜならお互い再婚だから。  そして、結婚式が終わり、新居へ……?  一緒に馬車に乗ったその方は誰ですか?

【完結】ゆるだる転生者の平穏なお嫁さん生活

福の島
BL
家でゴロゴロしてたら、姉と弟と異世界転生なんてよくある話なのか…? しかも家ごと敷地までも…… まぁ異世界転生したらしたで…それなりに保護とかしてもらえるらしいし…いっか…… ……? …この世界って男同士で結婚しても良いの…? 緩〜い元男子高生が、ちょっとだけ頑張ったりする話。 人口、男7割女3割。 特段描写はありませんが男性妊娠等もある世界です。 1万字前後の短編予定。

ヒュントヘン家の仔犬姫〜前世殿下の愛犬だった私ですが、なぜか今世で求愛されています〜

高遠すばる
恋愛
「ご主人さま、会いたかった…!」 公爵令嬢シャルロットの前世は王太子アルブレヒトの愛犬だ。 これは、前世の主人に尽くしたい仔犬な令嬢と、そんな令嬢への愛が重すぎる王太子の、紆余曲折ありながらハッピーエンドへたどり着くまでの長い長いお話。 2024/8/24 タイトルをわかりやすく改題しました。

処理中です...