20 / 58
第一部
閑話2 仔猫が苦手なもの(西見視点)
しおりを挟む
昼下がりの都内、某外資系商社の二十五階にある会議室でミーティングを終えた津和と西見は、並んでエレベーターホールの前に立った。
「津和、昼メシ食った?」
西見は人好きする笑顔で、隣の同僚を振り返る。
「食ってないなら、たまには一緒にどうだ?」
「いや、結構だ」
スマホの画面に目を落としたまま、顔も上げようとしない同僚にすげなく断られても、西見はめげたりしない。これでも三回、いや五回に一回はランチに誘うことに成功するようになったから、進歩してるのだ。
この男は、赴任先のニューヨークから帰国して以来、同僚の誰とも馴れ合おうとしなかった。しかしここ一ヶ月の間に、少しずつだが態度が軟化してきた。彼はずば抜けた営業センスと交渉力で、社内でも一目置かれる上、ただ黙って立っているだけで絵になる、恵まれた容姿とオーラを持ち合わせている。当然、周囲から注目されないわけはなく、皆も彼の変化に気づいていた。
周囲の見解では、彼の変化は夏の終わり頃に飼いはじめた仔猫のせいだという。それはある意味正しいが、ある意味正しくない。
なんとなく事情を知っている西見は、賢明にも口を閉ざすことにした。そしてわずかな確率であろう『自分の思い違い』にすがりつき、深く考えることを放棄した。
「……この間、寿司屋を試してみたんだが」
津和に唐突に話をふられて、西見はうろたえる。
「ここ間、本社の役員が来日したときに利用した店」
「ああ、あの高級寿司屋か」
「そう。うちの仔猫が喜ぶかと思って」
まさか彼から『仔猫』の話題を振ってくるとは。西見は落ち着きをなくしたときの癖で、首の後ろをしきりになでた。エレベーターが来るまで、もう少しかかりそうだ。
残念ながら、ランチタイムはとっくに過ぎたせいか、ホールには会話に巻き込む人間も見当たらなかった。つまりこの場は、西見一人で切り抜けなければならない。
「そっか、そりゃよかったなー! あの店は、値段は高いが味は確かだって、部長も言ってたしな、アハハ」
とりあえず笑って受け流す。それが西見のスタンスだ。だが津和は容赦なかった。
「あの店は失敗だった」
「へっ?」
「彼は寿司が嫌いらしい」
はっきり『彼』と呼んだ……はたしてオスの仔猫にも使うだろうかと、西見はグルグル頭を悩ませる。こうやって無駄に思考をめぐらせるのは、無意識のうちに防衛本能が働いて、たったひとつの答えに行き着かないようにするためなのかもしれない。
「そりゃ災難だったなぁ」
「ああ。嫌な思いをさせた」
津和は、スマホをポケットにしまいながら顔を上げると、西見に意味深な視線をよこした。
(なんだ、その『察しろ』的な目は。お前は仔猫について話してるんだよな!? 少なくとも俺はそのつもりだぞ!?)
このまま津和のペースに巻き込まれてはいけない。この世の中には、知らなくていいことが山ほどある。これはきっと、そのうちの一つだ。
西見は必死に、実家の猫を思い浮かべた。茶トラの猫で、妹が可愛がってたっけ……そういやよくネズミのオモチャで遊んでいたなと、ふと思いついて口を開く。
「新しいオモチャでも、買ってやればいいんじゃないか……」
西見がポロッとこぼした言葉に、お互いハッとした。これは明らかに失言だ。
「オモチャ、か」
「やめとけ、絶対買うな!」
「お前が提案したんだろう」
「いや違う! 違わないかもしれないけど、違う!」
「どっちなんだ。まあいい、オモチャで喜ばれても、俺はちっともうれしくない」
「そうだろ、オモチャ『を』喜ばれても、だろ? うちの猫も、いくら買い与えてもすぐ飽きるしな」
「でも一番細いやつなら」
「わー、やめろ! うちのチャトランまでけがすな!」
「誰がお前の猫の話をしている」
「とにかく、絶対にダメだからな! まったく……」
そのとき、ちょうどタイミングよくエレベーターがきた。急いで乗りこもうとする西見の背中に、津和は「ああそういえば」と追いうちをかけた。
「彼がお前に会いたがってる。しかたないから、今週の金曜日うちに来い」
「へっ……」
西見は目を丸くして、肩越しにまじまじと津和の顔を見つめた。今この男の家に招待された? この、非社交的な男に?
「その代わり、今夜の定例会議は、お前ひとりで出席してくれ」
「なんでそうなる!?」
すると津和は、ポケットからスマホを取りだして軽く振った。
「今夜使えそうな資料は、先にまとめて送っておいた」
「マジか……」
津和の資料は何より心強い。これは大きな借りを作ってしまった。
「分かったよ、今夜は俺ひとりで出席するわ」
「あと金曜日も空けとけよ」
「ハイハイ……」
もはや完全に津和のペースだ。西見は大きく肩で息を吐きつつ、エレベーターに乗りこむ。後ろから続いて乗ってきた津和は、一階のボタンを押しながら口を開いた。
「ところで金曜日の手土産は、酒と生魚は避けてくれ。彼が嫌がるだろうからな」
「!」
「うちの仔猫は、偏頭痛持ちで生モノが苦手なんだ」
振り返った津和は、してやったと言わんばかりの表情を浮かべていた。
(秘密の共犯者にされちまった……)
よく考えれば、最初の寿司屋の話題から失敗していたのだ。猫がカウンター越しに生魚を食べるわけがない。津和はわかっていて、わざと西見の悪あがきに付き合っていたのだ。
(いやでも、テイクアウトした寿司を猫に食べさせたのかもしれないじゃないか……いや無理があるか。だいたいなんで俺を巻きこむんだ……やっぱりコイツ変わった、前はこんな奴じゃなかったのに!)
あの非常階段での出会いに居合わせたのが、運のつきだったのだろう……西見は観念して目を閉じた。
(おわり)
「津和、昼メシ食った?」
西見は人好きする笑顔で、隣の同僚を振り返る。
「食ってないなら、たまには一緒にどうだ?」
「いや、結構だ」
スマホの画面に目を落としたまま、顔も上げようとしない同僚にすげなく断られても、西見はめげたりしない。これでも三回、いや五回に一回はランチに誘うことに成功するようになったから、進歩してるのだ。
この男は、赴任先のニューヨークから帰国して以来、同僚の誰とも馴れ合おうとしなかった。しかしここ一ヶ月の間に、少しずつだが態度が軟化してきた。彼はずば抜けた営業センスと交渉力で、社内でも一目置かれる上、ただ黙って立っているだけで絵になる、恵まれた容姿とオーラを持ち合わせている。当然、周囲から注目されないわけはなく、皆も彼の変化に気づいていた。
周囲の見解では、彼の変化は夏の終わり頃に飼いはじめた仔猫のせいだという。それはある意味正しいが、ある意味正しくない。
なんとなく事情を知っている西見は、賢明にも口を閉ざすことにした。そしてわずかな確率であろう『自分の思い違い』にすがりつき、深く考えることを放棄した。
「……この間、寿司屋を試してみたんだが」
津和に唐突に話をふられて、西見はうろたえる。
「ここ間、本社の役員が来日したときに利用した店」
「ああ、あの高級寿司屋か」
「そう。うちの仔猫が喜ぶかと思って」
まさか彼から『仔猫』の話題を振ってくるとは。西見は落ち着きをなくしたときの癖で、首の後ろをしきりになでた。エレベーターが来るまで、もう少しかかりそうだ。
残念ながら、ランチタイムはとっくに過ぎたせいか、ホールには会話に巻き込む人間も見当たらなかった。つまりこの場は、西見一人で切り抜けなければならない。
「そっか、そりゃよかったなー! あの店は、値段は高いが味は確かだって、部長も言ってたしな、アハハ」
とりあえず笑って受け流す。それが西見のスタンスだ。だが津和は容赦なかった。
「あの店は失敗だった」
「へっ?」
「彼は寿司が嫌いらしい」
はっきり『彼』と呼んだ……はたしてオスの仔猫にも使うだろうかと、西見はグルグル頭を悩ませる。こうやって無駄に思考をめぐらせるのは、無意識のうちに防衛本能が働いて、たったひとつの答えに行き着かないようにするためなのかもしれない。
「そりゃ災難だったなぁ」
「ああ。嫌な思いをさせた」
津和は、スマホをポケットにしまいながら顔を上げると、西見に意味深な視線をよこした。
(なんだ、その『察しろ』的な目は。お前は仔猫について話してるんだよな!? 少なくとも俺はそのつもりだぞ!?)
このまま津和のペースに巻き込まれてはいけない。この世の中には、知らなくていいことが山ほどある。これはきっと、そのうちの一つだ。
西見は必死に、実家の猫を思い浮かべた。茶トラの猫で、妹が可愛がってたっけ……そういやよくネズミのオモチャで遊んでいたなと、ふと思いついて口を開く。
「新しいオモチャでも、買ってやればいいんじゃないか……」
西見がポロッとこぼした言葉に、お互いハッとした。これは明らかに失言だ。
「オモチャ、か」
「やめとけ、絶対買うな!」
「お前が提案したんだろう」
「いや違う! 違わないかもしれないけど、違う!」
「どっちなんだ。まあいい、オモチャで喜ばれても、俺はちっともうれしくない」
「そうだろ、オモチャ『を』喜ばれても、だろ? うちの猫も、いくら買い与えてもすぐ飽きるしな」
「でも一番細いやつなら」
「わー、やめろ! うちのチャトランまでけがすな!」
「誰がお前の猫の話をしている」
「とにかく、絶対にダメだからな! まったく……」
そのとき、ちょうどタイミングよくエレベーターがきた。急いで乗りこもうとする西見の背中に、津和は「ああそういえば」と追いうちをかけた。
「彼がお前に会いたがってる。しかたないから、今週の金曜日うちに来い」
「へっ……」
西見は目を丸くして、肩越しにまじまじと津和の顔を見つめた。今この男の家に招待された? この、非社交的な男に?
「その代わり、今夜の定例会議は、お前ひとりで出席してくれ」
「なんでそうなる!?」
すると津和は、ポケットからスマホを取りだして軽く振った。
「今夜使えそうな資料は、先にまとめて送っておいた」
「マジか……」
津和の資料は何より心強い。これは大きな借りを作ってしまった。
「分かったよ、今夜は俺ひとりで出席するわ」
「あと金曜日も空けとけよ」
「ハイハイ……」
もはや完全に津和のペースだ。西見は大きく肩で息を吐きつつ、エレベーターに乗りこむ。後ろから続いて乗ってきた津和は、一階のボタンを押しながら口を開いた。
「ところで金曜日の手土産は、酒と生魚は避けてくれ。彼が嫌がるだろうからな」
「!」
「うちの仔猫は、偏頭痛持ちで生モノが苦手なんだ」
振り返った津和は、してやったと言わんばかりの表情を浮かべていた。
(秘密の共犯者にされちまった……)
よく考えれば、最初の寿司屋の話題から失敗していたのだ。猫がカウンター越しに生魚を食べるわけがない。津和はわかっていて、わざと西見の悪あがきに付き合っていたのだ。
(いやでも、テイクアウトした寿司を猫に食べさせたのかもしれないじゃないか……いや無理があるか。だいたいなんで俺を巻きこむんだ……やっぱりコイツ変わった、前はこんな奴じゃなかったのに!)
あの非常階段での出会いに居合わせたのが、運のつきだったのだろう……西見は観念して目を閉じた。
(おわり)
76
お気に入りに追加
1,540
あなたにおすすめの小説
くまさんのマッサージ♡
はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。
2024.03.06
閲覧、お気に入りありがとうございます。
m(_ _)m
もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。
2024.03.10
完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m
今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。
2024.03.19
https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy
イベントページになります。
25日0時より開始です!
※補足
サークルスペースが確定いたしました。
一次創作2: え5
にて出展させていただいてます!
2024.10.28
11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。
2024.11.01
https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2
本日22時より、イベントが開催されます。
よろしければ遊びに来てください。
幼馴染から離れたい。
June
BL
アルファの朔に俺はとってただの幼馴染であって、それ以上もそれ以下でもない。
だけどベータの俺にとって朔は幼馴染で、それ以上に大切な存在だと、そう気づいてしまったんだ。
βの谷口優希がある日Ωになってしまった。幼馴染でいられないとそう思った優希は幼馴染のα、伊賀崎朔から離れようとする。
誤字脱字あるかも。
最後らへんグダグダ。下手だ。
ちんぷんかんぷんかも。
パッと思いつき設定でさっと書いたから・・・
すいません。
変なαとΩに両脇を包囲されたβが、色々奪われながら頑張る話
ベポ田
BL
ヒトの性別が、雄と雌、さらにα、β、Ωの三種類のバース性に分類される世界。総人口の僅か5%しか存在しないαとΩは、フェロモンの分泌器官・受容体の発達度合いで、さらにI型、II型、Ⅲ型に分類される。
βである主人公・九条博人の通う私立帝高校高校は、αやΩ、さらにI型、II型が多く所属する伝統ある名門校だった。
そんな魔境のなかで、変なI型αとII型Ωに理不尽に執着されては、色々な物を奪われ、手に入れながら頑張る不憫なβの話。
イベントにて頒布予定の合同誌サンプルです。
3部構成のうち、1部まで公開予定です。
イラストは、漫画・イラスト担当のいぽいぽさんが描いたものです。
最新はTwitterに掲載しています。
平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです
おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの)
BDSM要素はほぼ無し。
甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。
順次スケベパートも追加していきます
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる