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第7章

方おばさん(60p)

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 芳子は、北京の牢獄から逃亡して九か月後――長春から少し離れた新立城の農家を終の棲家と決めて暮らし始めた。彼女は、”フアンおばさん”と呼ばれていた。”芳”の草冠がとれた”方”の字で、芳子の”フアン”と同じ発音になる。

(草)かんむりがとれた芳子は、方おばさんとなって、生まれてはじめて、人目がない静かな生活を知った。虚勢を張り、自分をボクと呼ぶ必要もない。山家のおじ様と、美味しく食べて、山道を歩きながら鳥の声を聞き、ぐっすり眠る。
  
 なんと、幸せになことだろう。そもそも、自分の幸せなど、考えた事もなかった。

 農家の周りには野菜畑が広がり、家は木々に囲まれて外からは見つからない。食料は、于景泰が、野菜や米、肉などを毎日届けてくれる。芳子は、それを、料理して、山家と食べるのが楽しみであった。
 
 于景泰が来ない日は彼の友人である連祥れんしょうがやって来た。彼は、満州族の血筋で、まるで家臣のように芳子に仕えた。彼は黒ぶち目がねをかけた知的な若者で、満州の警察学校で学んだ事もある。

 逃避行が終わり、芳子の安全を確かめると、山家は時折、長春に出向き、しばらく滞在する。帰ってくる時は、街で手に入るご馳走や、洋服をお土産に買って来た。芳子の家は、田舎で電話はなく、緊急の用事がある時は飼っている伝書鳩で連絡をとっていた。


 短い夏が終わった頃―――山家の鳩が『しばらく日本に帰る。』とメモを運んできた。そして、山家の消息がぷつりと切れた。

 山家は、日本で暮らすのだろうか?芳子は、山家の身を案じていた。日本と中国は国交が断絶しており、以前のように、パスポートなしで、自由に行き来できる時代は終わっている。山家は、中国にいながらも、日本にいる娘を気にかけていた。

 数か月後、山家は元気に戻って来た。心配していた芳子に「山家亨は、死んだから――もう、大丈夫」と言う。
「え?!」
「“ペンは剣より強し”だ。死亡記事が載れば……世間じゃ、死人だろ?」
「私の死亡記事は二回も出たけど。こうして、ピンピンしている。おじ様も、死亡記事が出たの?」
「俺は、諜報部員、元、報道部だよ。新聞社を使って、細工をし、俺は死んだ事にした。(※)

 数か月前に、長春で、日本の新聞を見ていたら、損傷がひどく身元が分からない心中遺体が発見されたという記事を見つけた。急いで、日本に帰り、新聞社に”山家亨”の遺書を送ってやった。もちろん、俺が直接出すには、遅すぎる。だから、浮浪者を装い”遺体のサイフからこの遺書を見つけました。死人からサイフを盗んだのが、バレてしまうので、警察には言えません。でも、それじゃ仏様が浮かばれないと思います。どうぞ、家族に渡してやって下さい”と筆跡を変えた手紙も同封した」

「心中って?日本で再婚していたの?」

「ああ。遠縁の若い娘さんでね。娘の世話をしてもらおうと、結婚したが、うまくいかなかった。義理の母と娘は喧嘩ばかり。結婚は、失敗だった。俺は、君の逮捕を知ってなんとか助けたいと、事業を起こすと偽って、借金をした。君を助け出す事が出来たけれど、金は返済できない。それに下手に動くと、君の事まで明るみに出てしまう。
 ついに、妻に打ち明けた。すると、彼女は、死んだ事にすれば、借金取りがこなくてすむ。戸籍がなくても、好きな男性と自由に暮らしたい。と言って協力してくれたのだ」

「でも、娘さんは?」

「俺が満映で、面倒をみていた日本人の女優に頼んできた。あの子は、もう大人だ。小さい頃から俺と離れて日本で暮らしているから、彼女には、父親は必要ない。しっかりした娘でね。婚約者もいて張りきっている。娘が結婚すれば、親戚づきあいも出来るだろう。娘も、留守がちな私の生活に不安を感じているんだ。このままでは、君の事がバレてしまう。中国か、日本か、今の俺は、自分の居場所を選択しなければならない。

 ――正直、娘との別れは辛いけれど――君に辛い思いをさせた罪滅ぼしをしたい。
 
 いや―――俺はどうしてもヨコちゃんが欲しいから、ついに我がままを通す事にしたのだ。ひどい父親だが、きっと娘も許してくれるだろう」


  (※)戦後、長春での芳子の生活を知る人の証言です。
『刑務所から芳子を救い出した秀竹は、その後、生活を共にし、芳子の遺骨をひきとった。芳子と、秀竹は、古い恋人同志のように仲睦まじい様子だった』

 秀竹は、芳子の初恋の人、山家に違いありません。山家は、中国では、優秀な諜報部員。名古屋刑務所から、脱獄するぐらいの人ですから、芳子と同様、自分も替え玉を使って、死んだ事にしたのでは?と思うのです。  
  いかがでしょうか?
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