上 下
50 / 79
第5章

山家脱獄(49p)

しおりを挟む
 昭和十八年の秋――山家は、突然内地へ召喚された。そして軍法会議で禁固刑十年の判決を受け、名古屋の陸軍刑務所に収容された。罪状は、国家反逆罪、機密漏えい、麻薬吸引など、信じられないものだった。

 芳子が、日本の新聞を取り寄せて、情報を探していると、恋人バイ・クァンが、山家亨を追って来日したと報じられていた。あんな小娘が行っても何も出来はしない。芳子も日本に行って、山家を助ける為に奔走したかった。けれど、“川島芳子が、恋の恨みで、山家の罪状を密告した”と、デマを書き立てられては、何も出来なかった。

 寒い日の午後――突然、邵文凱と名乗る男が芳子を尋ねて来た。家亨から私を守るように頼まれたと言う。王家亨は山家亨の中国名。彼は、日本に帰る直前まで、芳子を案じて手を打っていた。
 
 邵文凱は山家より、少し年上に見えた。汪兆銘の側近で、日本寄りの新政権を樹立しようと動き初めていた。蒋介石を敵にまわし、日本軍にも必要とされなくなった芳子は、和平工作を模索している汪兆銘と組むのが妥当かもしれない。満州の裏側を知り尽くした山家の策略だった。

 山家を信じよう――芳子は、邵文凱の赴任先、開封に行く事にした。開封は、北京と南京の中間にあって宋の時代に栄えた古都である。スパイが横行する北京や上海より安全に違いない。

 昭和十九年の夏の終わり――芳子はとうとう北京を離れ、小保方を連れて開封に転居した。邵文凱の屋敷は、かつての宮殿で広い庭がある。家も庭も荒れ果てていたが、庭木は青々と生い茂り、花があちこちに咲いていた。芳子は、藤の椅子に座り庭を眺め、昼寝をするのが日課になっていた。

 いつものように、昼寝をしていた芳子は、小鳥の声で、目が覚めた。秋風が金木犀きんもくせいの香りを運んでくる。山家と初めて会った日もこんな気持ちのいい風が吹いていた。あれから、二十年。なにもかも変わってしまった。

「ヨコちゃん……元気か?」
 眠気まなこの芳子の前に山家が、立っていた。
「どうして…?ここに?」
 芳子は、名古屋刑務所にいるはずの山家が突然現れておどろいた。

「名古屋刑務所が空襲で爆撃された。どさくさに紛れて脱獄したのだ。日本じゃ、お尋者だし人目がうるさい。広い大陸に逃げてきたよ。とにかく、生きている間に、ヨコちゃんにご挨拶したくてね」
「やるじゃないか。脱獄とは、勇敢だ。しかも、まっ先に僕を訪ねてくれたとは、うれしいね」
「俺の一番大切な人はヨコちゃんだ」
「ふっ。今さら、何を言い出すの」
「たしかに遅かったな。俺達の命は風前の灯だ」
「おじ様も、私も、スパイ容疑で、捕まって―――仲良く死刑よ」
「もう、日本の軍部には愛想がつきた。いまさら、何をやっても、日本は負ける。それなら、大勢の人を助けてやろう。そう決めて……国民党に情報を漏らしたのだ。つまり、家反逆罪ってことさ。
俺は、国という概念が嫌になった―――人は、国を愛し守ろうとして、戦争を初めてしまう―――君をここまで苦しめたのも、“国“だろう…俺は、国ではなく人を愛していたい」
「そうか……おじ様らしいな」
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

吉原お嬢

あさのりんご
歴史・時代
 鈴子は、15歳で借金を返す為に遊郭に身売りされています。けれど、ひょんな事から、伯爵令嬢に転身。社交界デビューするが…… 

トノサマニンジャ 外伝 『剣客 原口源左衛門』

原口源太郎
歴史・時代
御前試合で相手の腕を折った山本道場の師範代原口源左衛門は、浪人の身となり仕官の道を探して美濃の地へ流れてきた。資金は尽き、その地で仕官できなければ刀を捨てる覚悟であった。そこで源左衛門は不思議な感覚に出会う。影風流の使い手である源左衛門は人の気配に敏感であったが、近くに誰かがいて見られているはずなのに、それが何者なのか全くつかめないのである。そのような感覚は初めてであった。

織田信長に育てられた、斎藤道三の子~斎藤新五利治~

黒坂 わかな
歴史・時代
信長に臣従した佐藤家の姫・紅茂と、斎藤道三の血を引く新五。 新五は美濃斎藤家を継ぐことになるが、信長の勘気に触れ、二人は窮地に立たされる。やがて明らかになる本能寺の意外な黒幕、二人の行く末はいかに。 信長の美濃攻略から本能寺の変の後までを、紅茂と新五双方の語り口で描いた、戦国の物語。

二見夫婦岩 昼九つ

筑前助広
歴史・時代
 これは、女になりたいと願った、武士の物語――。  安永九年、筑前の北西部を領する斯摩藩は、宍戸川多聞とその一派によって牛耳られていた。  宍戸川が白と言えば黒でも白になる世。その中で、中老・千倉蔵人が反対の声を挙げた事で藩内に歪みが生まれるのだが――。

ドリンクバーさえあれば、私たちは無限に語れるのです。

藍沢咲良
恋愛
同じ中学校だった澄麗、英、碧、梨愛はあることがきっかけで再会し、定期的に集まって近況報告をしている。 集まるときには常にドリンクバーがある。飲み物とつまむ物さえあれば、私達は無限に語り合える。 器用に見えて器用じゃない、仕事や恋愛に人付き合いに苦労する私達。 転んでも擦りむいても前を向いて歩けるのは、この時間があるから。 〜main cast〜 ・如月 澄麗(Kisaragi Sumire) 表紙右から二番目 age.26 ・山吹 英(Yamabuki Hana) 表紙左から二番目 age.26 ・葉月 碧(Haduki Midori) 表紙一番右 age.26 ・早乙女 梨愛(Saotome Ria) 表紙一番左 age.26 ※作中の地名、団体名は架空のものです。 ※この作品はエブリスタ、小説家になろうでも連載しています。

春雷のあと

紫乃森統子
歴史・時代
番頭の赤沢太兵衛に嫁して八年。初(はつ)には子が出来ず、婚家で冷遇されていた。夫に愛妾を迎えるよう説得するも、太兵衛は一向に頷かず、自ら離縁を申し出るべきか悩んでいた。 その矢先、領内で野盗による被害が頻発し、藩では太兵衛を筆頭として派兵することを決定する。 太兵衛の不在中、実家の八巻家を訪れた初は、昔馴染みで近習頭取を勤める宗方政之丞と再会するが……

秦宜禄の妻のこと

N2
歴史・時代
秦宜禄(しんぎろく)という人物をしっていますか? 三国志演義(ものがたりの三国志)にはいっさい登場しません。 正史(歴史の三国志)関羽伝、明帝紀にのみちょろっと顔を出して、どうも場違いのようなエピソードを提供してくれる、あの秦宜禄です。 はなばなしい逸話ではありません。けれど初めて読んだとき「これは三国志の暗い良心だ」と直感しました。いまでも認識は変わりません。 たいへん短いお話しです。三国志のかんたんな流れをご存じだと楽しみやすいでしょう。 関羽、張飛に思い入れのある方にとっては心にざらざらした砂の残るような内容ではありましょうが、こういう夾雑物が歴史のなかに置かれているのを見て、とても穏やかな気持ちになります。 それゆえ大きく弄ることをせず、虚心坦懐に書くべきことを書いたつもりです。むやみに書き替える必要もないほどに、ある意味清冽な出来事だからです。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

処理中です...