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第5章

宮廷デセール:デザート(41p)<エピソード>

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 昭和十三年、初夏、芳子は閑静な北京胡同フートン(高級住宅街)の自宅にいた。

 自宅では、憲兵が、警護という名目で芳子を監視していた。昭和十二年の盧溝橋事件に端を発する、日華事変が延々と続き、戦線が拡大するにつれ、関東軍は、芳子が支那側に情報を漏らす事を恐れていたのである。彼女が積極的に情報を売る事はないとしても、当時の中国の諜報員は、飲物や、食べ物に薬を混ぜて意識を朦朧もうろうとさせ、知っている事を喋らせるのが、常套手段なのだ。
芳子は、満州事変、上海事変、溥儀夫妻の満州への逃亡、さらには、阿片取引の裏事情まで知っていたので、軍は爆弾を抱えたようなものであった。
 
 北京の自宅は、粛秦王家が所有する広大な屋敷である。入り口には、使用人達が住む家があり、芳子の住む母屋は一番奥にある。
 その一室に笹川良一が現れた。笹川良一は、戦後、日本船舶振興会の会長など、各方面で活躍するのであるが、当時は四十歳。大衆党の総裁だった。
 芳子は、入り口に二人の憲兵が立っている部屋で、笹川良一の話を聞いていた。芳子は笹川の主催する大衆党の応援会で演説をした事があり、面識があった。
 芳子は、ふわりとした漢風のチャイナドレスをまとっていた。広がった裾や袖が優雅に揺れ動く。
「ヨシ坊、ますます綺麗になったな。ところで、いくつになった?」
「今年で、二十七歳になる」
「はっはっは。去年も、二十七歳といいよったぞ。いつ聞いても二十七歳だ」
 芳子は、聞こえないふりをして、ワゴンを引き寄せ、羊羹ようかんとお茶を勧める。
「西太后がお好きだった、宮廷デセール(デザート)だ」
「ほう、これは、珍しい」
「エンドウ豆を煮込んで、寒天で固めたお菓子だよ。春から夏の間しか手に入らない」
 笹川は、無造作に一切れつかんでほうばった。羊羹は、口の中でほろりと崩れ上品な味がする。
「ふむ。うまいな。ところで、多田は軍人のくせに卑怯な奴だ。軍で使うだけ使っておいて、都合が悪くなったら、始末する。ヨシ坊も危ないという確かな情報が入ったのだ。悪いことは言わない。日本にお帰りなさい。軍のほうは、ワシが手を打っておく」
芳子は、開け放たれたドアの外の憲兵を顎でしゃくって、声をひそめた。
「あれを、ごらんになって。パパ(多田の事)の命令でここに来ているの。パパがあんまりひどい事をするから、東条に言いつけちゃった。それで、怒っているのよ」
 芳子は、関東軍参謀長になった東条に可愛がられていたのである。
「博多にいい温泉がある。女将さんも信頼できる人だ、ワシが頼んでおくから、しばらく静養しておいで」
 芳子は、優しい言葉を聞いて、こみ上げるものがあった。
 どうにでもなれ、殺したいなら勝手に殺せ。捨て鉢になっていた心がふっと和らいだ。
「ありがとう……」
 ほうをぬぐって、うなずいた。
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