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第5章

お払い箱(38p)

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   コツ コツ コツ
 芳子は、廊下を歩くハイヒールの足音を聞いて、急いで話題をかえた。山家にジンギスカンの料理の仕方を説明しはじめた時だった。ノックの音がして、ドアが細めに開いた。
「おじ様、お時間です。皆さん、お待ちですけれど?」と、すずを転がすような北京語が聞えた。

 芳子が、ドアをグイと開けると、李香蘭が微笑みながら立っている。芳子に睨まれると、神妙に頭を下げた。山家は、彼女に部屋に入るように手招きする。
「紹介しよう。こちら、李香蘭。日本名は大鷹淑子。ヨコちゃんと同じ”よしこちゃんだよ。”漢字は、淑女の淑だけど」
「じゃぁ、ヨシコちゃんと呼ばせてもらおう。君は、満映にいるの?ボクの兄は、あそこの社長だよ」
「はい。存じております」
 山家は、ステッキを握りトンビマントを羽織った。
「では、これで失礼する」

 山家は、李香蘭に寄り添って出ていった。その仲睦まじい後ろ姿は、芳子の胸をチクリと刺した。同じ”よし子”でも、あの人は、若くて綺麗で女らしくて――彼女は、私が失ったすべてを持っている。悔しくて拳を握りしめると、手の腹に紙切れが食い込んだ。
あ?メモをもらっていたのだわ。開くと旅館の住所と電話番号が書いてある。おじ様に握られた手首に、ぬくもりが残っていた。あの人は、美女に囲まれた生活をしていても、私を心配して来てくれた。
日本に行こう―――

 芳子が、メモを、引き出しにしまう。と、いきなりドアが開いた。
「よう!ヨシ坊!」
顔を出したのは、多田中将だった。
「どうした?そんな暗い顔して?」と、舐めるような目で芳子を見る。
「いや――ちょっと、頭痛がする。」
「そうか。働きすぎだな。店は繁盛しすぎとる。ジンギスカン鍋を食ってきたが、食堂はうるさくてかなわん。ここで、二人で飲もう。ヨシ坊――わしと飲めば頭痛も治るぞ」
 多田は、戸棚からウイスキーを勝手に取り出し、ソファに腰を下ろすと、瓶ごとあおり始めた。
「ヨシ坊も、どうだ?」と、瓶を差し出す。
「いらない」
「ふん。山家と、逢引きか?そこで、ヤツと出会ったぞ」
 吐き出すように言う。
「李香蘭を紹介されただけだ」
「好きで、自殺騒ぎまで起こした男だ。“焼けぼっくりに火がついた”のかと思ってね」
「もう――昔の話だ」
「どうかな……」
 多田は立ち上がり、ドアに鍵をかけると、老獪な笑みを浮かべた。
「ヨシ坊が、俺に甘えてくるのは、魂胆がある時だけだ。色仕掛けで、俺を動かすのは、許せんな」
「いまさら、何を言い出す?利用したのはそっちだろう?」
「利害関係だけじゃない。――惚れている――」
「バカな。よしてくれ」
「あんたの軍の仕事は、もう終わりだ。ごらん、満州は、こんなに平和じゃないか。これからは男の真似など止して、女らしくしなさい。…うんと、可愛がってあげよう」
 耳元で囁きなから、唇を押し付けてきた。
「止めろ!無礼者!」
「なんだと!小娘が!」
 多田は、芳子から離れると、ウイスキー瓶を芳子に投げつけた。素早く身をかわしたので、瓶は床に当たって粉々に散った。
「お前を、お払い箱にしてやる!」
 多田は、軍刀を握りしめ、出て行った。


※満州映画協会(満映)の初代理事長は、清朝の皇族金壁東(第7王子)であるが、実権はなかった。
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