11 / 79
第3章
粛親王の旅立ち(10P)<エピソード>
しおりを挟む
年が開けて大正十一年、芳子は、松本で初めての冬を迎えていた。深々と積もった雪を見ていると、故郷の旅順を思い出す。大勢の兄弟達と、雪だるまを作ったり、雪合戦で遊んだ事がある。幼い頃の楽しい記憶は、今も鮮明に残っていた。
二月の凍るよように寒い朝、川島家に”職親王危篤”の電報が届いた。浪速は芳子を伴いすぐさま旅順へと向かった。
芳子が、鎮遠町の我が家に帰ってみると大勢の人達が集まっていた。応接間の壁には、見覚えのある父の自画像が、かかっている。釣りをしている父は、本物そっくりで、父の威厳と優しさがにじみ出ていた。
その画の下に置かれた真紅の棺桶に粛親王が納められていた。親王の証である真っ赤な棺桶に安らかに眠っている。
芳子は棺の前に立ち尽くした。お父様は遠くへ逝ってしまったのだ。やっと、会えたのに……私には、何も言わず逝ってしまった。芳子は、声を上げ泣きくずれた。粛親王は、まだ五十七歳であった。
葬儀の噂が広まって、旅順の人や、遠い田舎の農民まで大勢見物に来た。親王ということで、葬式は清朝時代と同じに北京で挙げる事になった。
芳子は先頭車に近い車に乗って北京に向かって出発した。
「お父様は、だれもからも慕われるお方でした……」
隣り合わせに座っている腹違いの姉は、ぐすりとしゃくり上げ、言葉を続けた
「お優しいばかりではなくて、それは、もう聡明な親王でしたよ。
清朝を救おうと何度も西大后様に進言したのです。けれども、”西洋かぶれしている”
と聞き入れられず、西大后様のおそばから、外されてしまった。
清王朝が滅んで西大后様は、とても悔やまれたのでしょう。お葬式に金の延べ棒を賜れたそうよ」
芳子は、大きくうなづいた。
「清朝の事を誰よりも真剣に思っていらしたのだわ」
「ええ、そうですよ。だからこそ、大好きなあなたを、異国に送ったのです。
お父様には身を切られるより辛い選択だった。
あの時は、清と日本が手を結び、清朝を復活させる絶好のチャンスだったのよ。
その後、日本の政治の方針が変わり計画はダメになった。でも、お父様は諦めていなかった。
大勢いる子供の中で飛びぬけて優秀なあなたに、復辟の夢を託されて亡くなったの」
芳子は、涙をぬぐい背筋を伸ばす。
「必ず期待に応えてみせますよ」
「あなたは、小さい頃から頑張り屋さんだものね。私は、全然期待されてないから。気楽なものよ」
姉は、苦笑交じりにいい「母がくれたの。いいでしょう?」と自慢そうに左手を差し出して見せた。
太めの指に、翡翠、瑪瑙、ダイヤなど、沢山の指輪が輝いている。彼女の母は裕福な皇族出身であった。
芳子の脳裏に、妃でありながら質素だった母の面影が浮かんできた。
「私の母はどこにいるのでしょうか?日本から帰ってきたのに、まだ会えないんだ」
「……」
やはり口を閉ざされてしまう。誰に聞いても教えてくれないのだ。
「もしかして病気か?」
「……お父様の看病でお疲れになったみたい。
十一人目の赤ちゃんをみごもっていたらしいけど……」
「まさか?」
「まだ、どなたも、芳子さんにお知らせしていないのね……お亡くなりになったわ」
「まさか、嘘だろう?」
「……」
「毒を盛られたんだ。二人とも、一緒に亡くなるとは、変じゃないか」
「芳子さん、めったな事をおっしゃるものではないわ。
まるで、私の母を疑っていらっしゃるような言い方よ」
姉は、ぷいとして横を向いた。
霊柩は、芳子とは別に汽車で奉天を経て北京に運ばれた。北京の駅では大勢の人達が皆ひざまずいて霊柩を迎えた。
親族がお墓に揃うと、死者の口に大きな真珠をふくませてお墓に埋葬した。清のしきたりで、親族は四十九日間、白い喪服を着る。喪の明ける百日間が過ぎるまで、芳子は旅順で過ごした。粛親王は、財産の管理を浪速に託してこの世を去った。そのために、浪速は、粛親王の所有地で済ませるべき仕事がたくさんあった。
世界的にも屈指の富豪であった彼の財産は、牧場、森林、畑、金鉱など多岐にわたっている。面積は、北海道ぐらいの広さを持つ領地である。
浪速は、残された大勢の子供達の生活の面倒をみるばかりではない。清王朝復興の資金を集める為に奔走し、様々な人達と会合を持った。けれど、若い時に患ったマラリアのせいで聴力が衰えはじめ、聞き取れない事もある。芳子は秘書として同行することが多く、なかなか日本に戻れなかった。
芳子が、養父と松本に帰ってきたのは、葬式から半年以上も後だった。
二月の凍るよように寒い朝、川島家に”職親王危篤”の電報が届いた。浪速は芳子を伴いすぐさま旅順へと向かった。
芳子が、鎮遠町の我が家に帰ってみると大勢の人達が集まっていた。応接間の壁には、見覚えのある父の自画像が、かかっている。釣りをしている父は、本物そっくりで、父の威厳と優しさがにじみ出ていた。
その画の下に置かれた真紅の棺桶に粛親王が納められていた。親王の証である真っ赤な棺桶に安らかに眠っている。
芳子は棺の前に立ち尽くした。お父様は遠くへ逝ってしまったのだ。やっと、会えたのに……私には、何も言わず逝ってしまった。芳子は、声を上げ泣きくずれた。粛親王は、まだ五十七歳であった。
葬儀の噂が広まって、旅順の人や、遠い田舎の農民まで大勢見物に来た。親王ということで、葬式は清朝時代と同じに北京で挙げる事になった。
芳子は先頭車に近い車に乗って北京に向かって出発した。
「お父様は、だれもからも慕われるお方でした……」
隣り合わせに座っている腹違いの姉は、ぐすりとしゃくり上げ、言葉を続けた
「お優しいばかりではなくて、それは、もう聡明な親王でしたよ。
清朝を救おうと何度も西大后様に進言したのです。けれども、”西洋かぶれしている”
と聞き入れられず、西大后様のおそばから、外されてしまった。
清王朝が滅んで西大后様は、とても悔やまれたのでしょう。お葬式に金の延べ棒を賜れたそうよ」
芳子は、大きくうなづいた。
「清朝の事を誰よりも真剣に思っていらしたのだわ」
「ええ、そうですよ。だからこそ、大好きなあなたを、異国に送ったのです。
お父様には身を切られるより辛い選択だった。
あの時は、清と日本が手を結び、清朝を復活させる絶好のチャンスだったのよ。
その後、日本の政治の方針が変わり計画はダメになった。でも、お父様は諦めていなかった。
大勢いる子供の中で飛びぬけて優秀なあなたに、復辟の夢を託されて亡くなったの」
芳子は、涙をぬぐい背筋を伸ばす。
「必ず期待に応えてみせますよ」
「あなたは、小さい頃から頑張り屋さんだものね。私は、全然期待されてないから。気楽なものよ」
姉は、苦笑交じりにいい「母がくれたの。いいでしょう?」と自慢そうに左手を差し出して見せた。
太めの指に、翡翠、瑪瑙、ダイヤなど、沢山の指輪が輝いている。彼女の母は裕福な皇族出身であった。
芳子の脳裏に、妃でありながら質素だった母の面影が浮かんできた。
「私の母はどこにいるのでしょうか?日本から帰ってきたのに、まだ会えないんだ」
「……」
やはり口を閉ざされてしまう。誰に聞いても教えてくれないのだ。
「もしかして病気か?」
「……お父様の看病でお疲れになったみたい。
十一人目の赤ちゃんをみごもっていたらしいけど……」
「まさか?」
「まだ、どなたも、芳子さんにお知らせしていないのね……お亡くなりになったわ」
「まさか、嘘だろう?」
「……」
「毒を盛られたんだ。二人とも、一緒に亡くなるとは、変じゃないか」
「芳子さん、めったな事をおっしゃるものではないわ。
まるで、私の母を疑っていらっしゃるような言い方よ」
姉は、ぷいとして横を向いた。
霊柩は、芳子とは別に汽車で奉天を経て北京に運ばれた。北京の駅では大勢の人達が皆ひざまずいて霊柩を迎えた。
親族がお墓に揃うと、死者の口に大きな真珠をふくませてお墓に埋葬した。清のしきたりで、親族は四十九日間、白い喪服を着る。喪の明ける百日間が過ぎるまで、芳子は旅順で過ごした。粛親王は、財産の管理を浪速に託してこの世を去った。そのために、浪速は、粛親王の所有地で済ませるべき仕事がたくさんあった。
世界的にも屈指の富豪であった彼の財産は、牧場、森林、畑、金鉱など多岐にわたっている。面積は、北海道ぐらいの広さを持つ領地である。
浪速は、残された大勢の子供達の生活の面倒をみるばかりではない。清王朝復興の資金を集める為に奔走し、様々な人達と会合を持った。けれど、若い時に患ったマラリアのせいで聴力が衰えはじめ、聞き取れない事もある。芳子は秘書として同行することが多く、なかなか日本に戻れなかった。
芳子が、養父と松本に帰ってきたのは、葬式から半年以上も後だった。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
トノサマニンジャ 外伝 『剣客 原口源左衛門』
原口源太郎
歴史・時代
御前試合で相手の腕を折った山本道場の師範代原口源左衛門は、浪人の身となり仕官の道を探して美濃の地へ流れてきた。資金は尽き、その地で仕官できなければ刀を捨てる覚悟であった。そこで源左衛門は不思議な感覚に出会う。影風流の使い手である源左衛門は人の気配に敏感であったが、近くに誰かがいて見られているはずなのに、それが何者なのか全くつかめないのである。そのような感覚は初めてであった。
二見夫婦岩 昼九つ
筑前助広
歴史・時代
これは、女になりたいと願った、武士の物語――。
安永九年、筑前の北西部を領する斯摩藩は、宍戸川多聞とその一派によって牛耳られていた。
宍戸川が白と言えば黒でも白になる世。その中で、中老・千倉蔵人が反対の声を挙げた事で藩内に歪みが生まれるのだが――。
ドリンクバーさえあれば、私たちは無限に語れるのです。
藍沢咲良
恋愛
同じ中学校だった澄麗、英、碧、梨愛はあることがきっかけで再会し、定期的に集まって近況報告をしている。
集まるときには常にドリンクバーがある。飲み物とつまむ物さえあれば、私達は無限に語り合える。
器用に見えて器用じゃない、仕事や恋愛に人付き合いに苦労する私達。
転んでも擦りむいても前を向いて歩けるのは、この時間があるから。
〜main cast〜
・如月 澄麗(Kisaragi Sumire) 表紙右から二番目 age.26
・山吹 英(Yamabuki Hana) 表紙左から二番目 age.26
・葉月 碧(Haduki Midori) 表紙一番右 age.26
・早乙女 梨愛(Saotome Ria) 表紙一番左 age.26
※作中の地名、団体名は架空のものです。
※この作品はエブリスタ、小説家になろうでも連載しています。
春雷のあと
紫乃森統子
歴史・時代
番頭の赤沢太兵衛に嫁して八年。初(はつ)には子が出来ず、婚家で冷遇されていた。夫に愛妾を迎えるよう説得するも、太兵衛は一向に頷かず、自ら離縁を申し出るべきか悩んでいた。
その矢先、領内で野盗による被害が頻発し、藩では太兵衛を筆頭として派兵することを決定する。
太兵衛の不在中、実家の八巻家を訪れた初は、昔馴染みで近習頭取を勤める宗方政之丞と再会するが……
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
とべない天狗とひなの旅
ちはやれいめい
歴史・時代
人間嫌いで悪行の限りを尽してきた天狗、フェノエレーゼ。
主君サルタヒコの怒りを買い、翼を封じられ人里に落とされてしまう。
「心から人間に寄り添い助けろ。これ以上悪さをすると天狗に戻れなくなるぞ」
とべなくなったフェノエレーゼの事情を知って、人里の童女ヒナが、旅についてきた。
人間嫌いの偏屈天狗と、天真爛漫な幼女。
翼を取り戻すため善行を積む旅、はじまりはじまり。
絵・文 ちはやれいめい
https://mypage.syosetu.com/487329/
フェノエレーゼデザイン トトさん
https://mypage.syosetu.com/432625/
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる