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第3章

粛親王の旅立ち(10P)<エピソード>

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 年が開けて大正十一年、芳子は、松本で初めての冬を迎えていた。深々と積もった雪を見ていると、故郷の旅順を思い出す。大勢の兄弟達と、雪だるまを作ったり、雪合戦で遊んだ事がある。幼い頃の楽しい記憶は、今も鮮明に残っていた。
 
 二月の凍るよように寒い朝、川島家に”職親王危篤しゅくしんのうきとく”の電報が届いた。浪速は芳子を伴いすぐさま旅順へと向かった。

 芳子が、鎮遠町の我が家に帰ってみると大勢の人達が集まっていた。応接間の壁には、見覚えのある父の自画像が、かかっている。釣りをしている父は、本物そっくりで、父の威厳と優しさがにじみ出ていた。
 その画の下に置かれた真紅の棺桶に粛親王が納められていた。親王の証である真っ赤な棺桶に安らかに眠っている。

 芳子はひつぎの前に立ち尽くした。お父様は遠くへ逝ってしまったのだ。やっと、会えたのに……私には、何も言わず逝ってしまった。芳子は、声を上げ泣きくずれた。粛親王は、まだ五十七歳であった。
 
 葬儀の噂が広まって、旅順の人や、遠い田舎の農民まで大勢見物に来た。親王ということで、葬式は清朝時代と同じに北京で挙げる事になった。
 
 芳子は先頭車に近い車に乗って北京に向かって出発した。
「お父様は、だれもからも慕われるお方でした……」
 隣り合わせに座っている腹違いの姉は、ぐすりとしゃくり上げ、言葉を続けた
「お優しいばかりではなくて、それは、もう聡明な親王でしたよ。
清朝を救おうと何度も西大后様に進言したのです。けれども、”西洋かぶれしている”
と聞き入れられず、西大后様のおそばから、外されてしまった。
清王朝が滅んで西大后様は、とても悔やまれたのでしょう。お葬式に金の延べ棒を賜れたそうよ」
 芳子は、大きくうなづいた。
「清朝の事を誰よりも真剣に思っていらしたのだわ」
「ええ、そうですよ。だからこそ、大好きなあなたを、異国に送ったのです。
 お父様には身を切られるより辛い選択だった。
 あの時は、清と日本が手を結び、清朝を復活させる絶好のチャンスだったのよ。
 その後、日本の政治の方針が変わり計画はダメになった。でも、お父様は諦めていなかった。
 大勢いる子供の中で飛びぬけて優秀なあなたに、復辟ふくへきの夢を託されて亡くなったの」
 芳子は、涙をぬぐい背筋を伸ばす。
「必ず期待に応えてみせますよ」
「あなたは、小さい頃から頑張り屋さんだものね。私は、全然期待されてないから。気楽なものよ」
 姉は、苦笑交じりにいい「母がくれたの。いいでしょう?」と自慢そうに左手を差し出して見せた。
 太めの指に、翡翠ひすい瑪瑙めのう、ダイヤなど、沢山の指輪が輝いている。彼女の母は裕福な皇族出身であった。
 芳子の脳裏に、妃でありながら質素だった母の面影が浮かんできた。
「私の母はどこにいるのでしょうか?日本から帰ってきたのに、まだ会えないんだ」
「……」
 やはり口を閉ざされてしまう。誰に聞いても教えてくれないのだ。
「もしかして病気か?」
「……お父様の看病でお疲れになったみたい。
 十一人目の赤ちゃんをみごもっていたらしいけど……」
「まさか?」
「まだ、どなたも、芳子さんにお知らせしていないのね……お亡くなりになったわ」
「まさか、嘘だろう?」
「……」
「毒を盛られたんだ。二人とも、一緒に亡くなるとは、変じゃないか」
「芳子さん、めったな事をおっしゃるものではないわ。
 まるで、私の母を疑っていらっしゃるような言い方よ」
 姉は、ぷいとして横を向いた。 


 霊柩れいきゅうは、芳子とは別に汽車で奉天を経て北京に運ばれた。北京の駅では大勢の人達が皆ひざまずいて霊柩を迎えた。
 親族がお墓に揃うと、死者の口に大きな真珠をふくませてお墓に埋葬した。清のしきたりで、親族は四十九日間、白い喪服を着る。喪の明ける百日間が過ぎるまで、芳子は旅順で過ごした。粛親王は、財産の管理を浪速に託してこの世を去った。そのために、浪速は、粛親王の所有地で済ませるべき仕事がたくさんあった。
 世界的にも屈指の富豪であった彼の財産は、牧場、森林、畑、金鉱など多岐にわたっている。面積は、北海道ぐらいの広さを持つ領地である。
 浪速は、残された大勢の子供達の生活の面倒をみるばかりではない。清王朝復興の資金を集める為に奔走し、様々な人達と会合を持った。けれど、若い時に患ったマラリアのせいで聴力が衰えはじめ、聞き取れない事もある。芳子は秘書として同行することが多く、なかなか日本に戻れなかった。
 
 芳子が、養父と松本に帰ってきたのは、葬式から半年以上も後だった。
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