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【ゾンビの章】第1幕 「密室の告白」

【ゾンビの章】第1幕 「密室の告白」

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  【前日2月14日バレンタイン・デー】
        東京・町田



 雨雲が重くたれこめていた。
 雲から暗幕を何重にも垂らしたように霧雨が降り注ぐ。
 雨は横殴りの風に流され、さしている傘はほとんど役にたたない。膝から下のスーツの布地がぐっしょりと水分を吸い、身体に張り付いて気持ちが悪い。

(スーツが台無しじゃないか!)
 茂庭卓郎は心の中で何度も舌打ちした。
(コナカやAOKIじゃないんだぞ!ゼニアだぞ!)

 エルメネジルド・ゼニアは明日香ちゃんのお気に入りの高級ブランドだ。20万円以上するスーツなんて生まれて初めてだが、「ゼッタイに似合うから」と言われて、クレジットで無理して買った。天気予報じゃ、夜まで晴れるはずじゃなかったのか。こんなことなら車で来れば良かった・・・。
 だが、会社の車は営業の連中が使っていて、一台も残っていなかった。この一角はニュータウンの一番北に当たる。正面ゲートとは反対の側にあるので、裏を通る市道のバス停で降り、長い石段を登らなければならない。あの石段は馬鹿に長すぎる。50段以上はあるんじゃないか。おかげで、膝はガクガクだし、ずぶ濡れになっちまった。
 目指す家は、石段の真上に建っていた。登り切った所にある児童公園のちょうど裏。外見はどこにでもある木造モルタル二階建ての建て売り住宅だった。多少変わっている所があるとすれば、屋根瓦が真っ赤なことと、白い木枠で飾られた広めの出窓が大きくせり出していることぐらいか。十年くらい前に流行った洋風建築だ。玄関のドアに続くエントランスには短い階段がついている。
 階段脇に2台分の駐車スペースがあり、白色の「カローラ」と明るいグリーンの「マーチ」が停まったままになっていた。

「みやもりさん! みやもりさん!」
 茂庭の隣では、さっきバイクで到着したばかりの若い警官が大声で叫びながら、呼び鈴を押し続けていた。
 かぶった雨ガッパから絶え間なく水滴が滴り落ちている。
(今日は早めに仕事を切り上げて、横浜で開かれる人気アイドルグループのコンサートに行くことになっていたのに・・・)
 キャバクラ「夜間飛行」の明日香ちゃんが絶対見に行きたいって言うから、苦労してネット・オークションでチケットを手に入れた。ペアで3万8000円はかなり痛かったが、3か月近く店に通い続けてようやく店外デートまでこぎ着けたのだ。会場近くのホテルのジュニアスイートも予約したし、妻には会社の研修で泊まり込みになると言ってある。
 昨日はメールを送っても返事をくれなかったが、明日香ちゃんにはさっきもメールを出しておいた。
(今日は「一発」決めないとな)

 ショーが始まるのは夜の7時だ。まだ、時間はある。この面倒な仕事を5時までに切り上げられれば充分間に合うはずだ。
 だが・・・、と茂庭は思った。
 隣で呼び鈴を鳴らし続けている警官は、なんとも頼りない。だいたい、若すぎる。どうみても、二十歳そこそこだ。素人同然じゃないのか。中からなんの応答もないのに、もう5分以上もチャイムを鳴らし続けてるなんて。
 返事がないのは、家の中に誰もいないか、あるいは、答えられる状態ではないからだろ・・・。そもそも、事務所でたまたま電話を取ったのが間違いだったんだ。それも、あの酒井のばあさんからの電話を。
 ばあさんは電話口で早口でまくし立てた。「もう2週間、宮守さん夫婦の姿を全然見てないのよ。ゴミも全然出してる様子がないし、一度、家の中の様子を見てきた方がいいんじゃないかと思って。だって、ほら、あんな事があったばかりだし・・・・」
 酒井のばあさんというのは、自治会長の奥さんだ。このニュータウンじゃ、口うるさいおせっかいババアで有名だ。ゴミ出しには特にうるさい。四六時中、ゴミ置き場を監視しているという噂だ。夜中に生ゴミを捨てた主婦の家の前に、ゴミ袋の中身をぶちまけて大騒ぎになった事もあった。
 所長の奴、「君が電話を受けたんだから、一度見て来い」なんて、俺に押しつけやがって。自分が関わり合いになりたくないもんだから。
 それでわざわざ、土砂降りの中を、こんな所までやって来るはめになっちまった。
 
 ずぶ濡れになりながら立ち続けるのに、いい加減うんざりして、茂庭は叫んだ。
「私だってもう何十回もベルを押したんですよ!それでも返事が無いから、110番して、おまわりさんに来てもらったんじゃないですか」
 呼び鈴を押す手を止めて警官がこっちを見た。
「この家の家族構成は?」
「息子さんが、あんな死に方してからは、夫婦二人だけですよ」
「二人暮らしか・・」
「まさか、後追い心中なんてことはないですよね。困るんですよね、買い手がつかなくなっちゃうんだよ、そうなると」
 少し考え込んでから警官が顔を上げた。
「やむをえないな。合い鍵持ってきてますか。一緒に入ってみましょう」
「えっ!私も中に入るんですか」
「あなた、不動産屋でしょ」
「不動産屋じゃありませんよ。このニュータウンを造ったのが、親会社のゼネコンで、うちは管理を委託されてるだけです」
「それなら、なおさら立ち会ってもらわないと」
 茂庭はしぶしぶポケットから合い鍵の束を取り出した。
 その中の一つを鍵穴に差し込む。ゆっくり右に回すと、ドアは「ゴトリ」とにぶい音を立てて、開いた。

 外は雨ということもあって、家の中はかなり薄暗かった。
 眼をこらすと、玄関にはお揃いのニューバランスのウォーキングシューズが脱ぎ捨てられていた。2足とも靴ひもにまで泥がこびりつき、かなり汚れていた。
 下駄箱の上には花瓶があり、白い百合の花が刺さったまま枯れてしぼんでいた。
 壁には、頭に赤いターバンのようなものを巻いた風変わりな男の肖像画が掛けられている。
 雨で濡れ、気持ち悪いほど水気を含んだ皮靴を脱ぎながら、茂庭が壁を指さした。
「おまわりさん、あそこ」
 電気のスイッチだった。しかし、押しても明かりはつかない。
「切れてるのかな?」
「ブレイカーが落ちているのかもしれない」
 警官がベルトから懐中電灯を引き抜き、明かりを灯した。光の輪の中に奥へと続く長い廊下がうつし出された。
「やっぱり帰りましょうよ」
 茂庭が震える声で言った。


(さっきまで威勢がよかったくせに、やけにだらしないじゃないか、こいつ)
 注意深く懐中電灯で周りを見回しながら、青山健児は思った。
 この管理会社の社員は自分より十歳は年上だろうか。鼻の下とあごにチョビひげ。腹の周りはメタボ気味だが、やけに高そうなスーツを着ている。管理会社ってのは、そんなに儲かるもんなのか。左手の薬指には結婚指輪をしているが、こういうタイプは、どうせ陰で不倫でもしてるに決まってる。
 廊下の突き当たりに二階に続く階段が見えた。懐中電灯を右に振ると、キッチンだ。流し台も食器棚も、きちんと整理されていた。台所の広さにしては大きすぎる冷蔵庫。その隣りにダイニングテーブルがあり、上にはマイセンのカプチーノカップがひとつだけ置かれたままになっていた。
「あの・・」
 身体を密着させるようにして、青山の後を着いてきていた茂庭が声をあげた。
「何か、音がしません?」
 さっきよりもさらに声が震えていた。
 確かに、台所の隣の部屋から「シャー・・・・」という、何かがこすれ合うような物音が聞こえてくる。
 

 懐中電灯の明かりを頼りに、恐る恐る、二人は隣の部屋へと入っていった。
 そこは十二畳程の広い居間だった。闇の中に木製のテーブルとソファーセットが見えた。その奥には横開きのガラス戸があり、縁側に続いている。庭に面したサッシは厚手の遮光カーテンが引かれたままになっていた。
 音の正体は、すぐにわかった。
 電源が入ったままのテレビだ。
 つけっぱなしの画面の中で「シャー・・、シャー・・」と砂嵐が吹き荒れている。
 青山は入り口の壁にある照明のスイッチを見つけ、押してみた。しかし、やはり明かりはつかない。テレビがつけっぱなしになっているという事は、ブレーカーが落ちているわけではなさそうだ。玄関も居間も蛍光灯が切れているということなのか。
 見回してみると、テーブルとソファーは不自然に部屋の隅の方に寄せられていた。そうして作られた中央のスペースには洒落たイタリア風の赤い椅子が一脚、置かれていた。
 テーブルの椅子とは形が違っているから、おそらく別の部屋から持ってきた物だろう。
 さらに不思議なことに、椅子の正面の床にビデオカメラが落ちている。カメラは三脚をつけたまま、横倒しになっていた。
「何を撮ってたんだろう?」
 そう言う茂庭を無視して、青山は居間を出ていこうとする。慌てて茂庭が叫んだ。
「ちょ、ちょっと、どこ行くんですか?」
「ビデオ、再生してみてください。わたしは隣の部屋を見てきます」



 懐中電灯の光の中に、ダブルベットが浮かび上がった。
 自分が「ゴクリ」と唾を飲みこむ音が、青山にははっきり聞こえた。
 キングサイズ用の掛け布団が乱れて、中央の部分が大きく盛り上がっている。
 手にした懐中電灯の明かりが上下左右に揺れ始めていた。震えているのだ。

 布団の下にあるのは何だ?
 死体か?ひからびた死体か?

 警察学校を出て、町田の那智が丘ニュータウンにある派出所に配属されて8か月になる。空き巣やひったくりといった小さな事件は何度か扱ったが、まだ本物の死体は見たことがなかった。
 派出所の先輩は、おもしろおかしく、自分達の武勇伝を語ってくれる。
「マグロって知ってるか。電車に飛び込んだ轢断死体のことさ。ばらばらになった肉片が真っ赤なマグロの刺身に似てるから、そう言うんだ。しかも、飛び込み自殺ってやつは夜が多いだろ。懐中電灯を頼りに、その肉片をひとつひとつ拾い集めなきゃならないから、たまんないぜ。不思議なことに、切断された首ってのはな、地面に転がってもきちんと立ってる事が多いんだ。見つけた時は、ギョッとするよ。懐中電灯を向けると、生首がまっすぐ立ったまま、じっとこっちをにらんでるんだから」
 先輩の「ありがたい話」が頭の中でリアルに蘇る。
 青山はブルッと頭を横に振った。生首や死体なんかここにあるはずがない。

(勇気を出せ!)
(親父に笑われちまうぞ!)

 青山の父・健作は、やはり警視庁の警察官だった。高卒の叩き上げで、今でも本富士署の地域課の巡査部長だが、青山は小さい頃から父親を尊敬していた。だから、高校を卒業すると、迷わず警察官の道を選んだ。父は本当に喜んでくれた。
 なのに、こんな意気地なしだと知ったら・・・。

 硬直していた両足を必死で動かし、一歩ずつ前に出る。
 腰は引けていたが、なんとかベットのすぐ脇まで近づけた。震える手をゆっくりと布団に伸ばす。
 突然、壁の向こうから、大声が響いた。
「ねえ、おまわりさん!」
 驚いて、また身体が硬直した。隣の部屋にいる不動産屋の声だった。
「こんな気味の悪い所で一人にしないでよ!くそっ!このカメラ、どうすりゃ動くんだよ」
 青山は大声で怒鳴り返した。
「どこかに操作ボタンがないですか?それをカメラからビデオに切りかえて!そしたら、巻き戻しのスイッチを押してください
 青山は布団に手を伸ばしたまま、答えが返ってくるのを待った。
 数十秒の間だったが、とてつもなく長く感じられる。
 隣の部屋から茂庭の独り言が聞こえた。
「巻き戻し、って・・、あった!あった!これね。おっ、動いた!お巡りさん、動いたよ!」
 それには答えず、青山は一気に布団をめくりあげた。

 布団の下にあったのは、
 丸まって、よじれた毛布だけだった。
 青山は大きくひとつ、長いため息をついた。



 居間に青山が戻ってくると、茂庭が三脚にビデオカメラを固定し直している所だった。
「隣の部屋、何かありました?」
 青山は黙って首を振った。布団の下の毛布を一瞬でも死体と勘違いした自分が情けなかった。警官としての誇りがしぼんでしまった気がした。
「なんとか巻き戻りましたよ、最初まで」
「じゃあ、再生してみましょう」
「再生ね・・、再生のボタンは・・・と」
 茂庭がもう一度、ビデオカメラの操作パネルを覗き込もうとした。
「これですよ」それより先に青山が再生ボタンを押した。
 ほんの数秒、画面にノイズが走った後、小さなモニターに映ったのは、誰も座っていない椅子だった。
 色や形から、部屋の中央に置かれている赤い椅子に間違いない。
「この部屋だ」
 青山がつぶやいた。
 30秒ほど、そのままの映像が続いた。いらいらした茂庭が口を開きかけた時だった。
 画面の右手前から人影が現れ、ゆっくりと椅子に腰をおろした。
 男だった。
 茶色のスラックスにモスグリーンのカーディガンをはおっている。うつむいているので顔ははっきり見えなかった。服装の感じから年は四十代後半か五十代前半というところか。
 椅子に浅く腰掛け、背もたれに身体を重たそうに持たせかけている。身体全体が右に傾き、ほんの少し力を加えたなら、そのまま床に崩れ落ちそうだ。男が顔を上げた。
「あっ!」
 茂庭が急に声をあげた。
「これ、ここのご主人ですよっ。宮守幸彦さん」
 カメラはかなり引き気味で撮影されていたが、それでも青山の目には、この家の主人だという宮守幸彦の顔が蒼白なのがわかった。ひどく疲れ切った様子で、頬も落ちくぼんでいた。
 幸彦はぼんやりと、カメラのレンズを見つめたまま、何も喋らない。
 部屋の中には、テープが回り続ける機械音だけが、静かに響いている。
「なんだよ、早くなんか喋れよ」
 しびれを切らした茂庭が呻く。
 すると、まるでその言葉が聞こえたかのように、幸彦が口を開いた。
「・・なにから、話せばいいのか・・・」
 亡霊のような顔で、幸彦がつぶやいた。
「あんな物さへ見つけなければ・・・、こんな事には・・、ならなかったのに・・・・・」




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