上 下
3 / 204

江戸の百鬼夜行

しおりを挟む
 戸田研水は、足元を提灯で照らしながら歩いていた。
 後からは、薬箱を担いだ下男の六郎がついてくる。
 神田川の向こうまで、往診に出た帰りであった。

 宵の五ツを過ぎ、町の通りからは、人の姿が無くなりかけている。
 そろそろ、町から町へと通り抜ける際の木戸が閉じられるため、たまにすれ違う人は、みな提灯をゆらし、早足に家路を急いでいた。

 と、後ろから無遠慮な胴間声が響いた。
 「なあ、先生、今日はどんな病を診よりましたかい?」
 下男の六郎である。
 研水は情けない顔で溜息をついた。

 六郎の方が八歳ほど年上とはいえ、主人に対する物言いでは無い。
 研水は顔のつくりが幼く、実際の歳より若くみられることが多い。
 蘭学塾の天真楼で学び、すでに二十代半ばを越えているのだが、ともすれば十代後半に見られてしまうことさえある。

 月代を剃らず、髪を後ろで束ねるクワイ頭にし、医師の正装ともいえる十徳を羽織っているのだが、その装いに威厳がついてこない。
 親しみやすいという友人もいるが、ただ単に、軽く見られている気がしてならなかった。

 患者の病名など、軽々しく口にすべきではない。
 研水は威厳をみせようと、無言で拒絶の意思を示した。
 示したが、六郎は、まるで気にしたようすもなく研水の背にしゃべり続けた。
 研水の返事など、あってもなくてもよかったらしい。

 「一昨日、麹町に住む杉原というお侍の屋敷の庭に、ヌエが出た話は知っとりますかい? 
 斬りかかったお侍が、ヌエの尻尾に打たれて、死んじまったらしいですのう」
 六郎は、最初の質問と脈絡のないことを言った。

 ヌエとは鵺と書く。
 ヒヒの顔、タヌキの胴体とトラの四肢、そしてヘビの尾を持つといわれる妖怪である。
 「ヒィー、ヒィー」と狂女のような声で鳴き、平安時代の末期には、夜な夜な御所に現れは帝を悩ませ、これを源頼政が弓で退治したと言われている。

 そのヌエが武家屋敷の庭に現れ、そこの主人を殺したという噂は、研水も耳にしていた。
 尾で打たれた衝撃で死んだのではなく、打たれた後に苦しみながら泡を吹き、全身が紫色になって悶死したらしい。

ヌエの祟りだといわれているが、研水は、毒物による中毒死のように感じていた。

 「駒込の辺りじゃ、麒麟が出たと大勢が騒いどる」
 六郎が続けて、そう言った。
 それは知らなかった。

 麒麟とは、唐より伝わった霊獣である。
 頭部は龍のようであり、尾は牛、蹄は馬、全体の姿は鹿に似ると言われている。
 また全身はウロコに覆われ、背は五色に輝く毛がなびいているとも言われる。
 「瑞兆だな」
 思わず研水は、言葉を返していた。

 「ずい……?
 なんですかい、それは?」
 「良いことが起きる兆しのことだ。
 麒麟は霊獣、瑞獣といってな、現れれば良いことが起こる前触れといわれておるのさ。
 もっとも、ヌエにしろ、麒麟にしろ、何かの見間違いであろうがな」

 「良いことねえ。
 化け物が出てきて、良いことの前触れというのもおかしな話でしょう」
 笑いを含んだ六郎の言葉に、どこか小馬鹿にしたような響きを感じてしまう。

 「それにあれ、犬神憑きに死人歩き」
 ヌエ騒動も麒麟の目撃例も合わせ、六郎は、最近、江戸の町を混乱させている不可思議な話を羅列しているようであった。

 犬神憑きは、狐憑きと並び、昔からよく聞く憑物である。
 江戸よりも、四国、九州など、西国での話が多い。
 犬神憑きと言うが、憑くのは犬では無く、イタチやテンに似た霊獣だともいわれる。

 憑かれた者は延々と眠り込んだり、時に人格が変わって、神託のようなことを口走ったりするという。
 しかし、今、江戸に流れている犬神憑きの噂は、そういう類のものでは無かった。

 犬神が憑き、半分獣となった人間が現れるという噂である。
 しかも、この犬神憑きは、大店に忍び込んで蔵破りをするという。
 盗みを働くのだ。

 盗みを働く犬神憑きなど、研水は聞いたことが無かった。
 大方、黒装束に頭巾を被った賊を見間違えたのであろうと思っている。

 死人歩きは、医師として少し興味があった。
 若い女性が夜中になると、ふらふらと家をさ迷い出るのだ。
 これを繰り返すうちに、どんどんやつれて顔色が悪くなり、まるで死人が歩くようだということから、死人歩きと呼ばれている。

 朝になって戻ってきた本人に、どこへ出かけていたのだと問い質してみても何も覚えていない。

 睡眠中の人間が歩き回り、起きた後に尋ねても、そのことを覚えていないというような病は昔からあった。
 子供に多い病である。
 しかし、今回の場合は色々と様子が違った。

 死人歩きにかかる者は常に一人、そして若い女性である。
 さらに死人歩きにかかった女性は、家の者がなんとかして止めようとしても、それを振り切って外に出てしまう。

 二階の窓から飛び出し、ふいっと夜の町に消えていくこともあるらしい。
 そして、夜明け前にどこからともなく帰ってくるのだ。
 二階から飛び降りたと言うのに、大きな怪我はしていない。

 木戸番にも引っ掛からず、どこで何をしているのか、さっぱりと分からない。
 これを繰り返すうちに、当人は衰弱して、ついには寝込み、息を引き取ってしまう。
 そして、死人歩きにかかったものが死ぬと、また江戸の町のどこかで、新たに若い女性の死人歩きが始まるのだ。

 若い娘たちは、いつ自分の番が来るのかと怯え、若い娘を持つ親たちは、娘の番が来ませんようにと、社寺に押しかけては祈祷を頼み、護符を買い占めている。

 「先生、今日の病は、犬神憑きや死人歩きではありませなんだか?」
 六郎の言葉は、ぐるりと回って最初の質問に戻ってきた。

 ……ほう。
 研水は感心した。
 案外、六郎は、頭が回るのかも知れぬと思ったのだ。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

時代小説の愉しみ

相良武有
歴史・時代
 女渡世人、やさぐれ同心、錺簪師、お庭番に酌女・・・ 武士も町人も、不器用にしか生きられない男と女。男が呻吟し女が慟哭する・・・ 剣が舞い落花が散り・・・時代小説の愉しみ

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

戦国三法師伝

kya
歴史・時代
歴史物だけれども、誰にでも見てもらえるような作品にしていこうと思っています。 異世界転生物を見る気分で読んでみてください。 本能寺の変は戦国の覇王織田信長ばかりではなく織田家当主織田信忠をも戦国の世から葬り去り、織田家没落の危機を迎えるはずだったが。 信忠が子、三法師は平成日本の人間が転生した者だった…

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

処理中です...