ひみつは指で潰してしまえ

nuka

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三章

(1)トキメキの色

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 ◇百瀬視点

 朝の6時、百瀬は目覚ましのアラームを止めて体を起こした。
 目をこすりながら窓を開け、朝の澄んだ空気を吸い込む。気持ちのいい晴天で、今日はきっといい日になると確信した。
 百瀬はイラストレーターという仕事柄、徹夜することも多いが、基本的には朝型で、早起きだ。
 カレンダーが休日でもそれはかわらない。
 土曜の今日も、いつも通りに朝の支度、洗濯や掃除を終わらせたら、すぐに仕事机に向かった。

 悲しいことにまず一番にするのは湿布だ。職業病といえる腱鞘炎は一応病院に行ったけれど、すぐには治りそうもない。
 丁度よいサイズに湿布を切って右手に貼り、それが終わると上からしっかりテーピングして固定する。
 ハサミを使ったりテープを引っ張る作業さえ辛く、もし彼女と続いていればやってもらえたのになぁ、とつい泣き言がでた。
「あー、はやく正真が来てくれないかなぁ~」
 自分の声が部屋に響くのは、情けなくて聞きたくない。でも黙り続けていると声が出なくなりそうだから、無理矢理でもなにか言うようにしている。

 フリーランスで自宅に籠りがちな上に、月曜の朝に彼女にふられてしまい、今週はすごくすごく寂しい一週間だった。
 百瀬は4年前、大学入学を機に上京した。
 寂しかったのと、もともと惚れっぽいのとで、色んな女の子と付き合ったり別れたりを繰り返し、あとは美術とアルバイトが忙しくて、親友とよべるような友達は作りそびれてしまった。
 今は在学中のように、学内のアトリエやアルバイトに行けば、誰かに会えるということもないし、もう正真との約束だけが心の支えだったといっても大げさじゃない。

 正真は百瀬の仕事場が見たいそうだけど、実際は絵の具で汚れているだけの、ごく普通な男の一人部屋だから、がっかりさせないか不安だ。
 もしもあっという間に帰っちゃったら、今日こそ寂しさで死んでしまう。

「約束はお昼の1時だったよな……」
 ぐるぐる巻きで動かしにくい手で、充電器からスマホを外しトーク画面を確認する。
「ウ~ン……」
 昨晩『やっぱり明日は駅まで迎えにいくよ』と送ったのに、今も返信がなくて既読マークもついていない。
 なんだか心配だった。

 昨晩、正真が高成と一緒にいると教えてくれたとき、内心では、それはあまり良くないんじゃないかと思っていた。
 仕事で知り合った高校生をドライブに誘うとか夜に食事に連れ出すとか、いい大人が普通はしない。

 百瀬は以前から、正真がいつか高成から手を出されるんじゃないかと心配していた。
 3人での打ち合わせ中、正真はいつもうわの空で高成ばかり気にしているし、高成も、百瀬と二人きりの時は厳しい注文を言い立てるくせに、正真の前では信じられないくらい大人しくなる。
 子供っぽい顔でジッと高成を見てるだけの正真に対して、高成には大人らしいズルい演技がいっぱいあって、危険な感じがした。

(……いやいや、単に寝ちゃったとか充電切れとかでメッセージに気づいてないだけだよな、多分。)
 一年間何事もなかったし、そのうえ高成はリリンより文芸部を選んで、もうすぐ正真の前からいなくなる。自分の心配は杞憂だったはずだ。

 正真宛に『昨日のメッセージ、届いてる?』と打ち込んだ。でも送信せずにすぐに消す。
 メッセージを交換するようになって知ったけれど、正真はしつこくされるのがすっごく苦手だ。
 もしこれを送ってしまうと、うるさいって言いたげな適当なスタンプが返って来て、しばらく無視される可能性がある。
 そんな失敗を、百瀬はすでに2、3回やっていた。

 失敗の1回目は、泣きそうなレベルのショックだった。
 それはテレビで"スーパー名門校"として紹介されていた学校の制服が、正真とバイオリンの少年が着ていたブレザーと同じことに気づいた日だ。
 百瀬はただ感心して、『正真って凄いんだね! 将来は東大とか行っちゃいそう』と話しかけた。
 そうしたらいつもニコニコしている正真のイメージとはまったく違う返信がきた。
 『俺は全然すごくないし、そういうこと言われたくない』
 すぐにごめんって謝罪した。正真からは変なスタンプがひとつきた。そんなんじゃ許してくれてるのか分からない。
 それでついしつこくして、もう返事がこなくなった。

 こういう流れは百瀬にはよくある事で、仲良くしたいと思っているのに、相手を怒らせてしまう。きっと自分が悪いんだろうけど、直せないままだ。

 正真からの連絡が途絶えて、もしかしたら遊びにくるのも中止かもと思ったらどうしても寂しかった。悩んだ末にこれが最後と覚悟を決めて、自分の一番の取り柄である絵を送った。
 そうしたら百瀬のことを見直してくれたのか、それとも単に時間ができたのか、正真はまた返信してくれるようになった。

 その後ちょこっとずつ正真が話してくれたこと、勉強がきついとか成績の低迷に不安になるというのは百瀬にも身に覚えがあった。
『スッゲーよく分かる。俺も長ーい大学受験、ホント辛かったんだ。』


 百瀬は3月に国立の美術学部を卒業したばかりだが、その大学に合格するまで、相当きつい思いをした。
 美術学部の入試には学科試験と絵の実技試験があるから、高校に通いながら美術の予備校にも通う。自由な時間はほとんどない。
 加えて予備校の授業料はバカ高い。ごく一般家庭の百瀬には、他の受験生のように滑り止めの私大に行ったり浪人したりする選択肢はなかった。
 国立の芸大に現役合格という、難関中の難関に挑むことに自信が持てなくて、夢よりも堅実な大学を目指すか、高校3年間は悩みに悩み抜いた。

 ──そんな自分の思い出を伝えた日から、正真は愚痴を聞かせてくれるようになった。時々は話しながら泣いてしまう。
 いつもニコニコと笑って、回りを明るくしてくれる彼が、こんなに悩んでいることを知っているのは、もしかしたら自分だけかもしれない。手助けあげたいのに、まだ何も出来ていない。


 百瀬の場合は、美術を諦められないまま歯を食いしばって耐えるうちに春になり、志望校からの合格通知が届いた。
 百瀬にとって最高の結果だったけれど、だからって今の正真に「頑張るしかない」なんて言えない。そうじゃなくて、元気が出るようなことを言ってあげたいのに、思い浮かばないままだ。


「やっぱりなんか描こうかな。今からなら正真がくる時間までに仕上げられるはず……」
 収入面は我慢して腱鞘炎を治すために休んでいるのに、他にやりたいこともないから結局ずっと絵を描いている。
 せっかく遊びに来てくれるんだから、‘’正真が気に入ってくれる絵‘’を準備しようと思った。
 独りよがりなのは分かっているから、無理に押しつけたりはしないけど、もし本当に貰ってくれたら嬉しい。

(彩度高めで、元気が出そうな色使いにしよう。でも、正真には柔らかい感じの絵が似合うよな~。飾るなら部屋との相性も大事だし……正真の部屋がどんな感じかなんて知る由もないけど……)

 正真って、なにが好きなんだろう。一年も顔を合わせていたのに、なぜ聞いておかなかったのか悔しい。

(うーん、もうすぐ夏だし……金魚かな。うん、かわいくて、みんな好きだろ。プレゼントにピッタリ)
 正真が喜んでくれる顔を想像したところで、ハッとして頭を振った。
「ダメダメ、過剰な期待は禁物……。」
 冷静になるために深呼吸を繰り返す。
 こういう時の百瀬の絵はいつも下心丸出しの最悪の出来になってしまうから、邪念は消さないといけない。
(でも、正真は俺の絵を好きだって言ってくれてるし、これでもっと仲良くなれたら、最高だな……)
 絵の具や筆を準備しているだけでも胸がドキドキと脈打って、全然冷静じゃなかった。


 約束の1時寸前になってやっと、正真から返信がきた。
 百瀬の絵は無事に完成して、絵の具を乾かすために風をかけているところだった。
『ごめん! 二度寝しちゃって今向かってる。10分ほど遅刻しそう。じゃあ駅で待ってるね。わざわざありがとう。』

 迎えに行った駅で正真はすぐに見つかった。
 着ているレモン色のパーカーが、太陽の光で輝いて見える。
 正真はまだこちらに気づいていない様子なので、百瀬から近づいていった。

 なんだか顔色が悪かった。もともと色白の顔がさらに白く、すごく眠そうにしている。
 心配になっていると正真がその場にうずくまったので、百瀬はびっくりして駆け寄った。同じ低さに屈んで小柄な背中に手を伸ばす。

「正真大丈夫!? ……うわぁ!?」

「わっ、なに!?」

 突然背後から百瀬に叫ばれて、正真は目を丸くして振り向いた。その手にあったのは、百瀬が大の苦手な……。
「ちょ、ちょっと正真、なんでそんなもの持ってんだ!?」
 大ぶりでツノも立派なカタツムリ2匹だった。


「えーっ、この前のてんとう虫も、このカタツムリも可愛いじゃん。紫陽花にくっついていたから、つい捕まえたんだ。ちなみにカタツムリは虫じゃなくて貝の仲間だよ」
 正真はカタツムリの殻を持ち上げながら、ろくに見ることもできない百瀬を呆れている。
「へぇ。でも苦手だ……。正真は好きなんだね、金魚にしちゃったなぁ」
「ふぅん、金魚?」
 何も知らなくて首をかしげている正真は、いつも通りの明るい顔で安心した。

 じゃあ出発、となってカタツムリを紫陽花に返そうとするのを、百瀬はあわてて止めた。
「絵のモチーフにしたいんだ。悪いけどウチまで持っててくれる?」

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