花浮舟 ―祷―

那須たつみ

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第三幕

同胞

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  山路を回り込み、息を忍ばせて東軍本陣へと迫る鯨一郎達。道中数人の僧とすれ違ったが、彼らは路の端へ避け、軽く頭を下げるのみで、敵意は見られなかった。

「この京に寺社の類は管納院の他にはない。だが、彼らは先の合戦で果てた者達の供養に参られるのだろう、武装はしていない」

 言葉と裏腹、鯨一郎の目はいつまでも僧達の後ろ姿を注視している。しかしその視線は警戒するものではなく、何か、否、誰かを探しているらしかった。

「鯨一郎殿」

 繁國の声に我に返ったのか、鯨一郎は小さく頭かぶりを振って、「すまぬ」と漏らす。

 宵君と同じ病で顔を失い、当主の座を弟に譲り管納院へ身を寄せた鯨一郎の兄。彼の人は本堂の奥にある室から出ることは滅多にないが、この非常時ならば久方ぶりにあいまみえる機会があるかも知れぬ。そんな期待を抱いた視線は、やがて諦めたように前方を向いた。

「進軍中に感傷に浸られるとは、さすが鯨一郎殿ほどの方には此度の戦、易いものと見える」

 気配もなく近くから響いた声に驚き、三人は弾かれたようにそちらへ構える。しかしそこに居たのは、恭也ただ一人だった。目には笑みを浮かべ、馬の背から降りた恭也は脇差のつばに指をかけ、鯨一郎の瑠璃色の目を見据える。

「手合わせ願おう、鯨一郎殿」


 これはいつの時分であったか、恭也は正式な席に美瞳を伴ってやれぬ鯨一郎を気遣い、自らの妻と四人で花見でもどうかと誘ったことがあった。供の者もなく、他の家人もなく、ただ心休まる者達と共に観た桜は、なんとも優しい色をしていた。薄い色をした空を指差し、恭也の妻は「あの雲は餅に似ている」と無邪気に笑うのだ。



 雲間から差した光が、足元の泥濘を瑞々しく照り返していた。深々と突き刺さった脇差の鍔。そこに鈍く輝く家紋を掲げた軍旗に、何度救われ、励まされたか。木々の波間から鴉が飛び立ち、地に伏した広い背に不規則な影を落とす。


 勝負は決した。

 引き攣る呼吸を押さえつけ、鯨一郎は土にくずおれれる。戦闘により滲み出した汗とは別に、嫌に冷たい汗が身体中を流れていた。視界が霞み、定まらない。酷い熱に魘された夜のようだ。嗚咽のような鯨一郎の息だけが空気を鳴らしていたが、やがて後方から明頼が息を呑む音がした。

「鯨一郎殿、お見事でした」

 繁國の手が肩に置かれ、鯨一郎は顔を上げる。目前では、柔らかな土が多量の血を啜り、赤褐色に染まっていた。苦しげに掠れた声が蘇る。

介錯かいしゃくを、お頼みしても良いだろうか。宵殿や上様には面目ないが、最早これまで。私の首、其方になら差し上げても良かろう』

 敵将を討った、とは語り難い喪失に、鯨一郎は唇を噛む。

「何故、笑っておられたのだ、恭也殿」

 身体から離れた横顔は、鯨一郎の腕に抱かれ、それでも尚悔いのない穏やかな笑みを浮かべていた。或いは、諦観かも知れない。今となっては、鯨一郎には推測することしか出来なかった。

「丁重に……丁重に、お連れしよう。強く、立派な御方であった」

 鈍い動作で立ち上がった鯨一郎に、繁國が静かに棺物を差し出す。ひのきで誂えた桶に首を納め、乳白の帯を十文字にからげる手が、かじかんだようにたどたどしくもつれた。
 路から外れた場所へ恭也の身体を横たえ、馬の背に預けていた鯨一郎の外套で覆う。「粗末で申し訳ないが、じき迎えが来ましょう」。そう呟き、震える手を合わせる。

 水面に映すように次から次へと思い出される去りし日の面影を必死に振り払った。嘆き悲しむことが許されるのは戦のあとであろう。馬の腿を蹴り、一先ず本陣へ戻るべく引き返した鯨一郎達三人の背を、杉の枝から密やかに見送る影があった。



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