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今夜は満月。
篠田郁之介は、夜空を見上げて目を細めた。
雲一つなく、丸く輝く月を隠すものはない。
まだ冬ではないが、夜は空気が冷えて、月の光が鋭さを増しているようにさえ見えた。
次席家老、加納十太夫の屋敷を出て、帰るところだった。
武家屋敷の塀が道の両側に続いている。
ここはまだ、上級の武士が暮らす屋敷地で、篠田家はいくつかの角を曲がって、まだまだ下っていかなければならなかった。
提灯がいらないのはありがたい。
加納さまのお屋敷に呼ばれたのは初めてだった。
噂は聞いている。
御前試合で良い成績を収めた者は、加納さまのお屋敷に呼ばれて、接待を受けられるという噂だ。
その接待の中身は定かではなかった。
接待を受けられる者は限られるし、その者たちが、中身を外へ漏らすようなことはないのだ。
謎が謎を呼び、恐ろしい噂まであった。
お屋敷に呼ばれた者の中には、何人か狂い死にする者があるという。
妙な儀式が行われるとか。
しかし、呼ばれるのは、藩内でも指折りの剣士だけだ。
ご家老と言えども、妙なことはできないし、あり得ない。
そして郁之介は、今夜、その中身を知った。
ご家老は、刀を見せてくれただけだ。
他には、夕餉をご馳走になったが、それだけだ。
中身がわかって、正直ほっとしていた。
郁之介には、刀の良し悪しを判断できない。
そもそも、篠田家には、父から譲り受けた刀が一振りあるだけで、他の刀を見たことも、触ったことすらなかった。
受け継いだ刀も、銘はあるが、土地の鍛冶屋のもので、名のある刀鍛冶のものでもない。
おそらく、有名な刀鍛冶の名を聞かされても、初めて聞くものだろう。
禄高、七十石しかない篠田家には、縁のない世界だった。
まずは備前物だと言って、ご家老は一振りの刀を手渡した。
抜き方の作法も知らないので、ご家老が抜いてくれた白刃を受け取った。
夜だ。
燭台の灯りがゆらめき、刀身があやしい光を放つ。
「どうだ」
どう、と言われても、なんと答えていいかわからない。
「はあ・・・その・・・」
ご家老が笑い出した。
「よい。正直でよいぞ」
恥ずかしくなって顔が赤くなった。
今夜はそんな感じで、何が何だかわからずに終わったのだった。
帰り際、廊下を歩いていると、月明かりに照らされて、人が立っているのが見えた。
澪さまだ。
夕餉の膳を手ずから運んでくださった。
ご家老ご自慢の姫だった。
来年の春、殿の側室として江戸に上られる。
評判の美人を、この目で拝めるのも、接待の一つなのか。
身分の低い己が、近づけるような人ではない。
頭を下げて、後ろを通り過ぎようとした。
「月は、お好きですか?」
「え?」
「国許の月が見られるのも、もう数えるほどになってしまいました」
澪の言葉に、一瞬かたまったが、何か言わなければ、と焦った。
「好きです。・・・あ、月・・・三日月も・・・」
「私も、好きです。・・・三日月も・・・」
目が合った。
澪が笑った。
郁之介は慌てて下を向いた。
親しげにしては、ばちが当たる。
「今日は、ありがとうございました」
「またいらしてくださいまし」
夜風が、ほてった頬を冷やしてくれる。
篠田郁之介は、夜空を見上げて目を細めた。
雲一つなく、丸く輝く月を隠すものはない。
まだ冬ではないが、夜は空気が冷えて、月の光が鋭さを増しているようにさえ見えた。
次席家老、加納十太夫の屋敷を出て、帰るところだった。
武家屋敷の塀が道の両側に続いている。
ここはまだ、上級の武士が暮らす屋敷地で、篠田家はいくつかの角を曲がって、まだまだ下っていかなければならなかった。
提灯がいらないのはありがたい。
加納さまのお屋敷に呼ばれたのは初めてだった。
噂は聞いている。
御前試合で良い成績を収めた者は、加納さまのお屋敷に呼ばれて、接待を受けられるという噂だ。
その接待の中身は定かではなかった。
接待を受けられる者は限られるし、その者たちが、中身を外へ漏らすようなことはないのだ。
謎が謎を呼び、恐ろしい噂まであった。
お屋敷に呼ばれた者の中には、何人か狂い死にする者があるという。
妙な儀式が行われるとか。
しかし、呼ばれるのは、藩内でも指折りの剣士だけだ。
ご家老と言えども、妙なことはできないし、あり得ない。
そして郁之介は、今夜、その中身を知った。
ご家老は、刀を見せてくれただけだ。
他には、夕餉をご馳走になったが、それだけだ。
中身がわかって、正直ほっとしていた。
郁之介には、刀の良し悪しを判断できない。
そもそも、篠田家には、父から譲り受けた刀が一振りあるだけで、他の刀を見たことも、触ったことすらなかった。
受け継いだ刀も、銘はあるが、土地の鍛冶屋のもので、名のある刀鍛冶のものでもない。
おそらく、有名な刀鍛冶の名を聞かされても、初めて聞くものだろう。
禄高、七十石しかない篠田家には、縁のない世界だった。
まずは備前物だと言って、ご家老は一振りの刀を手渡した。
抜き方の作法も知らないので、ご家老が抜いてくれた白刃を受け取った。
夜だ。
燭台の灯りがゆらめき、刀身があやしい光を放つ。
「どうだ」
どう、と言われても、なんと答えていいかわからない。
「はあ・・・その・・・」
ご家老が笑い出した。
「よい。正直でよいぞ」
恥ずかしくなって顔が赤くなった。
今夜はそんな感じで、何が何だかわからずに終わったのだった。
帰り際、廊下を歩いていると、月明かりに照らされて、人が立っているのが見えた。
澪さまだ。
夕餉の膳を手ずから運んでくださった。
ご家老ご自慢の姫だった。
来年の春、殿の側室として江戸に上られる。
評判の美人を、この目で拝めるのも、接待の一つなのか。
身分の低い己が、近づけるような人ではない。
頭を下げて、後ろを通り過ぎようとした。
「月は、お好きですか?」
「え?」
「国許の月が見られるのも、もう数えるほどになってしまいました」
澪の言葉に、一瞬かたまったが、何か言わなければ、と焦った。
「好きです。・・・あ、月・・・三日月も・・・」
「私も、好きです。・・・三日月も・・・」
目が合った。
澪が笑った。
郁之介は慌てて下を向いた。
親しげにしては、ばちが当たる。
「今日は、ありがとうございました」
「またいらしてくださいまし」
夜風が、ほてった頬を冷やしてくれる。
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