上 下
2 / 3

しおりを挟む
 今夜は満月。

 篠田郁之介は、夜空を見上げて目を細めた。

 雲一つなく、丸く輝く月を隠すものはない。

 まだ冬ではないが、夜は空気が冷えて、月の光が鋭さを増しているようにさえ見えた。

 次席家老、加納十太夫の屋敷を出て、帰るところだった。

 武家屋敷の塀が道の両側に続いている。
 ここはまだ、上級の武士が暮らす屋敷地で、篠田家はいくつかの角を曲がって、まだまだ下っていかなければならなかった。

 提灯がいらないのはありがたい。

 加納さまのお屋敷に呼ばれたのは初めてだった。

 噂は聞いている。

 御前試合で良い成績を収めた者は、加納さまのお屋敷に呼ばれて、接待を受けられるという噂だ。

 その接待の中身は定かではなかった。

 接待を受けられる者は限られるし、その者たちが、中身を外へ漏らすようなことはないのだ。

 謎が謎を呼び、恐ろしい噂まであった。

 お屋敷に呼ばれた者の中には、何人か狂い死にする者があるという。

 妙な儀式が行われるとか。

 しかし、呼ばれるのは、藩内でも指折りの剣士だけだ。

 ご家老と言えども、妙なことはできないし、あり得ない。

 そして郁之介は、今夜、その中身を知った。

 ご家老は、刀を見せてくれただけだ。

 他には、夕餉をご馳走になったが、それだけだ。

 中身がわかって、正直ほっとしていた。

 郁之介には、刀の良し悪しを判断できない。
 そもそも、篠田家には、父から譲り受けた刀が一振りあるだけで、他の刀を見たことも、触ったことすらなかった。

 受け継いだ刀も、銘はあるが、土地の鍛冶屋のもので、名のある刀鍛冶のものでもない。

 おそらく、有名な刀鍛冶の名を聞かされても、初めて聞くものだろう。

 禄高、七十石しかない篠田家には、縁のない世界だった。

 まずは備前物だと言って、ご家老は一振りの刀を手渡した。

 抜き方の作法も知らないので、ご家老が抜いてくれた白刃を受け取った。

 夜だ。
 燭台の灯りがゆらめき、刀身があやしい光を放つ。

「どうだ」

 どう、と言われても、なんと答えていいかわからない。

「はあ・・・その・・・」

 ご家老が笑い出した。
「よい。正直でよいぞ」

 恥ずかしくなって顔が赤くなった。

 今夜はそんな感じで、何が何だかわからずに終わったのだった。


 帰り際、廊下を歩いていると、月明かりに照らされて、人が立っているのが見えた。

 澪さまだ。

 夕餉の膳を手ずから運んでくださった。
 ご家老ご自慢の姫だった。

 来年の春、殿の側室として江戸に上られる。

 評判の美人を、この目で拝めるのも、接待の一つなのか。

 身分の低い己が、近づけるような人ではない。
 頭を下げて、後ろを通り過ぎようとした。

「月は、お好きですか?」
「え?」
「国許の月が見られるのも、もう数えるほどになってしまいました」

 澪の言葉に、一瞬かたまったが、何か言わなければ、と焦った。

「好きです。・・・あ、月・・・三日月も・・・」
「私も、好きです。・・・三日月も・・・」

 目が合った。
 澪が笑った。

 郁之介は慌てて下を向いた。
 親しげにしては、ばちが当たる。

「今日は、ありがとうございました」
「またいらしてくださいまし」

 夜風が、ほてった頬を冷やしてくれる。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

夕映え~武田勝頼の妻~

橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。 甲斐の国、天目山。 織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。 そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。 武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。 コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

首切り女とぼんくら男

hiro75
歴史・時代
 ―― 江戸時代  由比は、岩沼領の剣術指南役である佐伯家の一人娘、容姿端麗でありながら、剣術の腕も男を圧倒する程。  そんな彼女に、他の道場で腕前一と称させる男との縁談話が持ち上がったのだが、彼女が選んだのは、「ぼんくら男」と噂される槇田仁左衛門だった………………  領内の派閥争いに巻き込まれる女と男の、儚くも、美しい恋模様………………

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

北条を倒した男

沢藤南湘
歴史・時代
足利尊氏の半生を描いてみました。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

処理中です...