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2.仲直りの醤油めし

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 銀天街も終わりに近づき、地下街へ続く階段が見えてきたときだった。


「兄ちゃん……!」

 突然、隣にいた和樹くんがそう叫んで、ヒュンと風のような速さで身を翻す。


「……え? ちょっと……!」

 このあと目の前の階段を降りて、地下街を歩いた先にある百貨店の屋上にある大観覧車に乗るんだと、ついさっき和樹くんから聞いたばかりだった。

 しかし、彼が向かったのは地下街へと続く階段のそばにある商店街の出口だ。

 追いつけるわけがないとわかってはいるけれど、こんなところに一人取り残されても困る。

 それに和樹くんは、確かに「兄ちゃん」と言っていた。もしかしたら、和樹くんの未練と何か関係があるのかもしれない。

 私は急いで和樹くんの移動した方向へ、人混みをよけて駆け出した。


 銀天街を一歩出ると、目の前には百貨店が見え、そばにはバスのロータリーや路面電車が見える。

 すっかり日は落ちて星空が瞬き始める中、キョロキョロと辺りを見回すと、哀愁を帯びた幽霊の背中が見えた。


「和樹くん……?」


 声をかけていいのかな、と思いながらも、声をかけないわけにもいかず、そっと背後から呼び掛ける。

 すると和樹くんは、ハッとしたようにこちらを振り返った。


「ごめんごめん。いきなり隣からいなくなってビビったよな」


 私を見て、和樹くんはおどけたように笑った。
 だけど、彼の表情はどこか弱々しくて寂しげに見える。


「……えっと、その」

 何か話さなきゃと口を開いたけれど、続く言葉が見当たらなくて口ごもってしまった。

 だって、私は彼が抱えているものを何も知らない。どんな言葉が今の和樹くんを傷つけてしまうかがわからなかったからだ。


「俺は大丈夫やけん。さっき、ちょっと知り合いの姿が見えたから行ってみたんやけど、よく考えたら俺って幽霊やけん、ケイちゃんや民宿の人たちが特別なだけで他の人間には見えんのんよな」

 こちらに心配させないようにだろうか。おどけたように笑う和樹くんだけど、彼の目尻には小さな水滴が光っていた。


「……はははっ。わかっとったはずなのに、バカやなぁ俺って」

 そんな姿が痛々しくて、見てられなくて、私は思わず声を上げていた。


「あの……っ。あれだよね、百貨店の屋上の観覧車って」

 突然大きな声を出した私に驚きながらも、和樹くんは私が指さした先を見た。

 一人で話す私を通りすがりの人がギョッとした目で見てきたけれど、そんなの今はどうでもよかった。


「え? ああ、そうだけど……」

「もう夜市は充分満喫させてもらったので、あれに乗って一休みしましょう」

 さすがに和樹くんを連れて喫茶店に入ったところで、人目が気になってゆっくり話せないだろう。

 観覧車なら、ゴンドラの中に入ってしまえば幽霊の和樹くんとも普通に話せるだろうし。何より、こんな風につらさを我慢している和樹くんと元いた場所に戻れば、きっとまた無理させてしまうような気がした。

 今まで私に見せてくれていた陽気な笑みの下に、つらい気持ちを抑え込んでいたのだろうから。


 *


 百貨店の屋上にある大観覧車は、“くるりん”という名前らしい。可愛らしい名称で好感が持てた。

 チケット売り場や乗り場では、同じように土曜夜市に行ってきたと思われるカップルや友達同士のグループがちらほら見える。

 そんな中、スタッフの方の「何名様ですか?」という問いに「一人です」とこたえるのは、少しだけ気まずかった。

 案外早く順番が回ってきて、ホッとしながら私が乗り込むのと同時に和樹くんもゴンドラ内に滑り込む。

 ゴンドラ内は四人乗りで、広かった。

 スタッフの方にゴンドラのドアを閉められて、向かい合わせに座った私たちはゆっくりと動く観覧車の動きにつられて窓の外へと視線を移す。

 そこには松山の市街地の夜景があった。

 都会と比べると明るくはないものの、程よい暗闇の中に控えめに光る街の灯りがのどかに感じられる。


「松山も良い所だね」

 外の空間と遮断されたゴンドラ内はやけに静かだ。ずっとおしゃべりだった和樹くんがここにきて何も話していないことも、静寂を感じた理由のひとつなのだろう。

 何と声をかけていいのかはわからなかったけれど、当たり障りなく思ったことを口に出してみた。


「そうやね。都会に住んでみたいと思うことはあっても、やっぱり住み慣れた場所が一番なんよね」

 和樹くんはそれに応えてくれたけれど、その瞳はゴンドラの外に広がる闇に向けられていて、どこを見ているのかはわからない。

 突然商店街の外に飛び出した和樹くん。

 “兄ちゃん”って言ってるのが聞こえたところから、お兄さんが近くにいたのだろうか。
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