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烏天狗と浅草散歩にいきます

烏天狗と浅草散歩にいきます④

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「……っ、よか、ったあ……」

 安堵に力が抜け、私はぺたりと石畳に膝をついた。
 鼻の奥がツンと痛い。
 荒い息はまだ整わないし、弛緩するままこの場に倒れこんでしまいたい。
 けど。

「いやはや、これはこれは実に見事」

「……っ、壱袈!」

 黒く重なる"念"の向こう側から、上機嫌に手を打つ音がする。

「彩愛、俺はその方を少し見くびっていたようだ。それだけの"念"を抱え陰の気に染まらぬばかりか、"護り"を育て、その身に纏うとは」

 しかしな、と壱袈は諭すように囁き、

「そこまでしても、その方を追う"念"は変わらず仕舞いだ。その身体は、もはや支えるだけで精一杯であろう?」

 もう、諦めろ。
 その言葉と共に、"念"を突き破るようにして壱袈の腕が現れる。

「この手を取れ、彩愛。俺が救い出してやろう。ヒトにしては、実に良く奮闘した」

「…………」

 あやかしは簡単に嘘をつく。耳にタコができるほど繰り返された雅弥の忠告が、脳裏を過る。
 けれどきっと。私がその手をとったなら、壱袈は"念"を散らし、助けてくれる。
 そんな直感にも似た確信に、私は視線を自身の掌に落とした。
 上体を起こし、毛を逆立てて壱袈を威嚇する子狐ちゃん。鈴はその傍らで、淡い光を送り続けている。

(……この光だって、いつまで続くか)

 この鈴の"護り"が消えれば、子狐ちゃんは再び苦しむことになる。
 わかってる。ここで諦めて、壱袈に"助けて"もらうのが一番なんだって。

 ――けれど。

 その手を取ってしまったら。
 きっともう、雅弥の隣は許されない。

「……っ、悪いけど」

 ジンジンと熱く痺れる両足を叱咤して、ゆらりと立ち上がる。
 心配げに見上げてくる子狐ちゃんに、「ごめんね、もう少し付き合って」と苦笑を向け、私は決意に"念"の外を睨めつけた。

「助けてもらうのは、最後の最後にさせて!」

 傾けた上体と左脚でバランスを取り、右脚で勢いよく蹴り上げる。
 即座に退いた壱袈の手。"念"がざわざわとせわしくうごめきはじめた。

「"念"が風で散らせるなら……っ!」

 もう一度、おろした右脚で蹴り上げる。
 と、光る足先の軌道を描くようにして、"念"の壁に白い跡が浮かんだ。
 向こう側が見える。

(やっぱり……っ!)

 今、私の身体は鈴の"護り"――つまり、陽の気が覆っている。
 なら、きっと。

「キックボクシング……っ、始めておいてよかった!」

(感謝するわよ、高倉さん!)

 手ごたえに口角を上げ、私は再び右、今度は左と周囲の"念"目がけて宙を蹴り上げていく。
 祓えているのか、散らしているのか。細かいことはよくわからない。
 けれども蹴り上げるたびに"念"は、薄く、少なくなっていく。

(――いけるっ!)

 息が上がる。腕も足も、きっととっくに限界を迎えている。
 なのに不思議と辛くはない。どころか思考は妙に冴え冴えとして、ちょっとした興奮状態に陥っている。
 もしかしたら。これでやっと雅弥に守られるだけの"お荷物"じゃなくて、"戦力"としてその隣に並び立てるかもしれないって歓喜が勝っているからで――。

(これで、ラスト……っ!)

 眼前で濃く固まるひとつを狙い、感覚のままに右膝を振り上げた。
 瞬間。

「――"薄紫"」

「!?」

 蹴り上げた軌道の、すぐ真下。
 同じ"念"を裂く、銀の切っ先。真っ黒な着物姿の青年。金の美しいこしらえ
 俯く顔が微かに上がり、長い前髪の隙間から、夜を灯した瞳が私をとらえた。

「ま、さや……?」

 零れた名に、彼はぎゅっと眉根を寄せ、

「……遅くなった。すまない」

 心底悔いた、悲痛な面持ち。
 私は衝動に「そっ――」と口を開き、

「そっちじゃないでしょ謝るなら! もうーっ! この"念"ラストだったんだからね!? 私が全部ケリつけたかったのに! 来るならもうちょっと遅く来てよ!」

「な……っ! 俺は早くアンタを助けようと必死に……!」

「分かってるけど! そこはありがとうだけど! でも違うんだってば……っ! 私だってせっかく"念"をなんかいい感じに消せてたんだから、最後まで私が――」

 刹那、視界が揺れた。
 違う。座り込んでしまったらしい。雅弥が「おいっ!」と焦った顔で手を伸ばす。

「あー……、ううん。ごめん、大丈夫。ちょっと、やっぱり限界だったみたい」

 感覚のない足に視線を落とす。と、細かく震え、先ほどまでの光はすっかり消え去っている。
 ――残念。
 そう思った途端、どっと疲労が襲ってきた。
 私は子狐ちゃんと鈴が落ちないようにと、なけなしの神経を遣りながら、両腕を石畳に落とす。

「……これのどこが大丈夫なんだ」

 呻くようにして見下ろしてくる雅弥に、

「どこがって……子狐ちゃんも私も無事でしょ」

「だから、狐はともかくアンタはどこがっ……いや」

 雅弥は怒りを抑えるようにして言葉を切ると、

「……高等な"狭間"は、招かれなければ簡単には見つからない。俺がここに辿り着いたのは、その式がしるべになったからだ」

 雅弥が片膝を石畳について、その視線を私に合わせる。
 珍しく慈しむような眼で子狐ちゃんを見遣ったかと思うと、再び私に向いて、

「……よく、ソイツを守ってくれた」

「――っ!」

 安堵と感謝の滲む、柔い顔。
 そうそうお目にかかれない、色のさした表情に思わず言葉をのんだ、刹那。

「――くっはは! そうかそうか。俺はてっきり、雅弥が"松"なのだと思っていたのだがなあ」

「……壱袈っ」

 瞬時に頬を硬直させ、怒りを滲ませた雅弥が立ち上がる。
 口元に手をやりながら歩み寄る壱袈は、その眼光だけで切裂けそうな雅弥の睨みにも一切動じない。

「思っていたよりも遅かったな、雅弥」

 雅弥は"薄紫"を構えずとも、握る右手に力を込めて、

「"狭間"に連れこむなど聞いてない」

「だが、連れ込まぬとも言っていまい」

「隠世警備隊の隊長でありながら、法度を破るのか」

「とんでもない。俺が隠世法度を破るわけがなかろう」

 雅弥が苛立ち交じりに奥歯を噛む。

「コイツに"念"を……っ、ヒトに危害を与えたのにか」

「ふむ。どうやら誤解があるようだな」

 心外だとでもいう風にして、壱袈は肩を竦める。

「彩愛との和やかな散歩の最中、淀みとなりかけた"念"を見つけたのでな。休暇中とはいえ、俺は隠世警備隊のおさ。参拝客に危害の及ばぬ"狭間"にて職務を全うしようとしたのだが、"ついうっかり"手が滑り、念をひと束散らし損ねた」

(つ、ついうっかり……!?)

 うっかりどころか、しっかり狙ってきたくせに!?
 もしかして聞き間違えた? なんて唖然としていると、にこやかな壱袈の双眸とかち合った。

「彩愛は"見える"ヒトだ。故にはぐれた"念"に気づかれてしまってなあ。彩愛は"念"に捕らわれながらも、その身を呈し、必死に手助けしてくれたのだ」

「なっ……」

(なんて嘘を平然と!?)
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