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ぬりかべの餞別
ぬりかべの餞別③
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「俺の名で、書面を持たせる。それがあれば、事実以上の罪を問われることはないだろう」
「え、まって。それって、嘘の罪まで背負わされる可能性があるってこと?」
「言っただろう。あやかしは簡単に嘘をつく、と。現世の、今回の一件を"知った"あやかしが、退屈しのぎにあることないこと吹聴していてもおかしくはない。俺の名がついた書面があれば、そこに書かれた内容だけが事実とされる。……あいつらとは、そういう契約になっている」
つまりこの書面は、郭くんを守ってくれる大事なお手紙ってこと。
理解した私が「ありがと、雅弥。必要なモノって、それのことだったんだ」と告げると、雅弥は一瞬だけ躊躇してから、
「……それと、これも持っていけ」
子狐ちゃんの出てきた袖口とは反対の袖から、雅弥が小さな巾着を取り出す。
翡翠色のそれを戸惑いがちに受け取った郭くんは、ほどなくして何かに気づいたように息を詰め、
「これは、隠世で織られた巾着……?」
「あやかしには鼻の利くヤツが多い。そのハンカチには、ヒトの気配が染みついてるだろう」
「ねえ、その"ヒト"って私のことよね? え? もしかしてなにかマズい?」
「……あやかしには、ヒトを快く思わない連中もいる。隠世の巾着を使えば、ヒトの気配をある程度ごまかせる」
「それって……」
雅弥の用意した、郭くんを守るアイテムその二ってこと。
(私には散々、約束をするなだの甘いだの注意するくせに)
こんなに準備してあげて、一番に"優しい"のは、自分じゃない。
緩みかけた頬に慌てて力を込める。けれど雅弥は目ざとく私を睨んで、
「……言いたいことがあるのなら、聞くが?」
「ちょっと、なんでこんな時に限って乗り気になるの!?」
"優しいじゃん"なんて言葉にしたら、絶対にへそを曲げるくせに……!
言うもんかと無理やり口を噤むも、じりじりと迫る無言の圧。
静かな攻防に、ふふっと笑う声がした。郭くんだ。
「……やっぱりここは、すごく、いいところ」
「でしょでしょ? 戻ってきたアカツキには、ぜひご贔屓を」
「カグラちゃん……抜け目ないわね」
「だってボクは稲荷の眷属だからねー。商売繫盛っだよ」
歌うような調子で紡いだカグラちゃんが、両手を丸めて狐のポーズをとる。
「あ、あざとい……。でもすんっごくカワイイ……!」
「前から思ってたけど、彩愛ちゃんってけっこうボクのこと好きだよねえ」
「だってカワイイには逆らえないもの……!」
「おい。いい加減じゃれついてないで、コイツを隠世へ送れ」
「だって、カグラちゃんが……カグラちゃんがカワイイ……っ!」
「なになに雅弥? ヤキモチ? だいじょーぶだよお。雅弥もちゃーんと、彩愛ちゃんと相性ばっちしだし!」
「カグラ……渉に言って、今夜の油揚げには唐辛子をまぶすからな」
嚇す低い声に、カグラちゃんが「やだやだ! わかったちゃんとやるから!」と血相を変えて首を振る。
(カグラちゃん、唐辛子が苦手なんだ……)
「ホラ、キミは祠の前にきてー!」とキビキビ動きだしたカグラちゃんに応じて、郭くんが楽し気に歩を進めた。
祠前に立つ。途端、郭くんはくるりと振り返り、
「……これ、ありがとう。大事に、使う」
開いた巾着の中に、収められたハンカチ。
紐を引いてしっかりと閉じた郭くんは、深々と頭を下げて、
「……お世話に、なりました」
その瞬間。郭くんの足元が光を帯びた。
――これで、お別れ。
こみ上げてきた哀愁を奥歯ですり潰して、私は「気を付けてね」と笑みを作る。
だって、私たちには"約束"があるのだから。
蛍のような淡い光源が、徐々にその身体を包んでいく。
刹那、郭くんは、どこか申し訳そうに薄く口角を上げて、
「……こんなこと言ったら、怒られるかもだけど。あの家でずっと待ってて、良かった。……あなたたちに、会えたから」
どこからか吹き上げた風が、銀糸の髪を散らした。
悲しみではなく、決意と願いに満ちた真摯な双眸が、私を映してきらめく。
「……必ず戻ってくるから、待っていて。あなたは――彩愛は、いなくならないで」
「!」
祈るような囁きが、押し込めていた感情を刺激する。
――いなくらないで。
そう。ずっと近くにいてほしかった。だって、大好きだったから。
もっと一緒にご飯を食べて、言葉を交わして、いろんな景色を見に行って――置いていかないで、ほしかった。
そんな私の拭いきれない渇望に、郭くんは、気付いていた。
達観したようなことを口にするくせに、心の中ではまだ必死に、大切な人を失った喪失感と戦っているんだって。
「――っ」
溢れた感情が、目尻からこぼれて頬を伝う。
きっといま私は、酷く情けない顔をしているに違いない。
けれども隠すよりも答えたくて、必死に頷く。
「絶対に、待ってる……っ!」
郭くんは、小さく笑った。
幼い少年の顔じゃなくて、子供を宥める大人のような表情で、小指を上げた右手を掲げる。
「……約束、だからね」
「……っ、うん。約束、ね」
この"約束"は、心の糧。
"理由"は重ねれば重ねただけ、この先の世界に未練を与えてくれるから。
私のあげた小指に、郭くんが頷いたその瞬間。光が四散して、郭くんの姿が消えた。
目の前に広がるのは、ちょっと寂しげながらも、緑と朱が美しい庭。
それはいたって"普通"の、今、目の前で起きたことが夢だとも思えるくらいの――。
「……酷い状態だな」
「そう思うなら、ハンカチかティッシュちょうだい。手ぶらできちゃった」
「……今は持ち合わせていない」
「ボク、先にお店戻って用意しておくよ。落ち着いたら戻ってきてね」
「ありがとカグラちゃん……」
閉まる扉の内側に消えた背を見送って、手の内側で簡易的に涙を拭う。
これだけの水分とあっては、化粧も崩れているに違いない。
けれど別に、隠す気は毛頭ない。
だってここには雅弥しかいないし、この人は私の"顔"の良し悪しなんて、微塵も興味ないって分かってるから。
私を前にして、品定めの目を向けてこない人の傍は、気楽で心地いい。
(私がここに居付く一番の理由が自分だなんて、雅弥は夢にも思わないだろうな)
戻ったら、お手洗いを借りないと。ポーチの中身を思い浮かべながら、私は横目で背後を伺う。
雅弥も中に戻るものだと思っていたけど、動く気配はない。
たぶん、私を気にかけてくれているから。
かといって、何を言うでもなくただ黙ってそこに居てくれるってのが、雅弥らしいというか。
私はなんの違和もない祠へと視線を戻し、両腕を開いて伸びをする。
「郭くん、どれくらいしたら戻ってこれるかな」
「……さあな。あやかしとヒトでは、同じ年数でも価値が違う。アンタがその"約束"を覚えているうちに、戻ってこれればいいほうだ」
「そんなに……。まあ私はおばあちゃまになっても美しく! かっこよくいる予定だから、その辺の心配はいらないかな。問題は、それまで『忘れ傘』があるかどうかのほうが……」
「アンタ、老体になっても入り浸るつもりか」
「そういう『条件』をつけたのは雅弥でしょ? 針千本なんてのめないし、"約束"を果たすまで、ちゃーんと付き合ってもらうから」
"夢"なんかで終わらせない。
共にした楽しい時間も、胸を締める寂しさも、未来への期待だって。
そんな決意を胸に雅弥を振り返った私は、視界に飛び込んできた光景に息をのんだ。
薄く上がった口角。柔らかく形を変えた眉。
呆れだけではない、淡く穏やかに緩んだ黒い瞳。
「――アンタは、相変わらず自由だな」
染み入るような心地よい声に、うっすらと羨望の欠片。
それを優しい彼の、"この先"への了承と受け取って、私は「ありがとう」と微笑んだ。
「戻るぞ」と背を向けた雅弥が自身の"この先"を思って、秘かに懐の"薄紫"へと触れていたことなど、微塵も気が付かなかった。
「え、まって。それって、嘘の罪まで背負わされる可能性があるってこと?」
「言っただろう。あやかしは簡単に嘘をつく、と。現世の、今回の一件を"知った"あやかしが、退屈しのぎにあることないこと吹聴していてもおかしくはない。俺の名がついた書面があれば、そこに書かれた内容だけが事実とされる。……あいつらとは、そういう契約になっている」
つまりこの書面は、郭くんを守ってくれる大事なお手紙ってこと。
理解した私が「ありがと、雅弥。必要なモノって、それのことだったんだ」と告げると、雅弥は一瞬だけ躊躇してから、
「……それと、これも持っていけ」
子狐ちゃんの出てきた袖口とは反対の袖から、雅弥が小さな巾着を取り出す。
翡翠色のそれを戸惑いがちに受け取った郭くんは、ほどなくして何かに気づいたように息を詰め、
「これは、隠世で織られた巾着……?」
「あやかしには鼻の利くヤツが多い。そのハンカチには、ヒトの気配が染みついてるだろう」
「ねえ、その"ヒト"って私のことよね? え? もしかしてなにかマズい?」
「……あやかしには、ヒトを快く思わない連中もいる。隠世の巾着を使えば、ヒトの気配をある程度ごまかせる」
「それって……」
雅弥の用意した、郭くんを守るアイテムその二ってこと。
(私には散々、約束をするなだの甘いだの注意するくせに)
こんなに準備してあげて、一番に"優しい"のは、自分じゃない。
緩みかけた頬に慌てて力を込める。けれど雅弥は目ざとく私を睨んで、
「……言いたいことがあるのなら、聞くが?」
「ちょっと、なんでこんな時に限って乗り気になるの!?」
"優しいじゃん"なんて言葉にしたら、絶対にへそを曲げるくせに……!
言うもんかと無理やり口を噤むも、じりじりと迫る無言の圧。
静かな攻防に、ふふっと笑う声がした。郭くんだ。
「……やっぱりここは、すごく、いいところ」
「でしょでしょ? 戻ってきたアカツキには、ぜひご贔屓を」
「カグラちゃん……抜け目ないわね」
「だってボクは稲荷の眷属だからねー。商売繫盛っだよ」
歌うような調子で紡いだカグラちゃんが、両手を丸めて狐のポーズをとる。
「あ、あざとい……。でもすんっごくカワイイ……!」
「前から思ってたけど、彩愛ちゃんってけっこうボクのこと好きだよねえ」
「だってカワイイには逆らえないもの……!」
「おい。いい加減じゃれついてないで、コイツを隠世へ送れ」
「だって、カグラちゃんが……カグラちゃんがカワイイ……っ!」
「なになに雅弥? ヤキモチ? だいじょーぶだよお。雅弥もちゃーんと、彩愛ちゃんと相性ばっちしだし!」
「カグラ……渉に言って、今夜の油揚げには唐辛子をまぶすからな」
嚇す低い声に、カグラちゃんが「やだやだ! わかったちゃんとやるから!」と血相を変えて首を振る。
(カグラちゃん、唐辛子が苦手なんだ……)
「ホラ、キミは祠の前にきてー!」とキビキビ動きだしたカグラちゃんに応じて、郭くんが楽し気に歩を進めた。
祠前に立つ。途端、郭くんはくるりと振り返り、
「……これ、ありがとう。大事に、使う」
開いた巾着の中に、収められたハンカチ。
紐を引いてしっかりと閉じた郭くんは、深々と頭を下げて、
「……お世話に、なりました」
その瞬間。郭くんの足元が光を帯びた。
――これで、お別れ。
こみ上げてきた哀愁を奥歯ですり潰して、私は「気を付けてね」と笑みを作る。
だって、私たちには"約束"があるのだから。
蛍のような淡い光源が、徐々にその身体を包んでいく。
刹那、郭くんは、どこか申し訳そうに薄く口角を上げて、
「……こんなこと言ったら、怒られるかもだけど。あの家でずっと待ってて、良かった。……あなたたちに、会えたから」
どこからか吹き上げた風が、銀糸の髪を散らした。
悲しみではなく、決意と願いに満ちた真摯な双眸が、私を映してきらめく。
「……必ず戻ってくるから、待っていて。あなたは――彩愛は、いなくならないで」
「!」
祈るような囁きが、押し込めていた感情を刺激する。
――いなくらないで。
そう。ずっと近くにいてほしかった。だって、大好きだったから。
もっと一緒にご飯を食べて、言葉を交わして、いろんな景色を見に行って――置いていかないで、ほしかった。
そんな私の拭いきれない渇望に、郭くんは、気付いていた。
達観したようなことを口にするくせに、心の中ではまだ必死に、大切な人を失った喪失感と戦っているんだって。
「――っ」
溢れた感情が、目尻からこぼれて頬を伝う。
きっといま私は、酷く情けない顔をしているに違いない。
けれども隠すよりも答えたくて、必死に頷く。
「絶対に、待ってる……っ!」
郭くんは、小さく笑った。
幼い少年の顔じゃなくて、子供を宥める大人のような表情で、小指を上げた右手を掲げる。
「……約束、だからね」
「……っ、うん。約束、ね」
この"約束"は、心の糧。
"理由"は重ねれば重ねただけ、この先の世界に未練を与えてくれるから。
私のあげた小指に、郭くんが頷いたその瞬間。光が四散して、郭くんの姿が消えた。
目の前に広がるのは、ちょっと寂しげながらも、緑と朱が美しい庭。
それはいたって"普通"の、今、目の前で起きたことが夢だとも思えるくらいの――。
「……酷い状態だな」
「そう思うなら、ハンカチかティッシュちょうだい。手ぶらできちゃった」
「……今は持ち合わせていない」
「ボク、先にお店戻って用意しておくよ。落ち着いたら戻ってきてね」
「ありがとカグラちゃん……」
閉まる扉の内側に消えた背を見送って、手の内側で簡易的に涙を拭う。
これだけの水分とあっては、化粧も崩れているに違いない。
けれど別に、隠す気は毛頭ない。
だってここには雅弥しかいないし、この人は私の"顔"の良し悪しなんて、微塵も興味ないって分かってるから。
私を前にして、品定めの目を向けてこない人の傍は、気楽で心地いい。
(私がここに居付く一番の理由が自分だなんて、雅弥は夢にも思わないだろうな)
戻ったら、お手洗いを借りないと。ポーチの中身を思い浮かべながら、私は横目で背後を伺う。
雅弥も中に戻るものだと思っていたけど、動く気配はない。
たぶん、私を気にかけてくれているから。
かといって、何を言うでもなくただ黙ってそこに居てくれるってのが、雅弥らしいというか。
私はなんの違和もない祠へと視線を戻し、両腕を開いて伸びをする。
「郭くん、どれくらいしたら戻ってこれるかな」
「……さあな。あやかしとヒトでは、同じ年数でも価値が違う。アンタがその"約束"を覚えているうちに、戻ってこれればいいほうだ」
「そんなに……。まあ私はおばあちゃまになっても美しく! かっこよくいる予定だから、その辺の心配はいらないかな。問題は、それまで『忘れ傘』があるかどうかのほうが……」
「アンタ、老体になっても入り浸るつもりか」
「そういう『条件』をつけたのは雅弥でしょ? 針千本なんてのめないし、"約束"を果たすまで、ちゃーんと付き合ってもらうから」
"夢"なんかで終わらせない。
共にした楽しい時間も、胸を締める寂しさも、未来への期待だって。
そんな決意を胸に雅弥を振り返った私は、視界に飛び込んできた光景に息をのんだ。
薄く上がった口角。柔らかく形を変えた眉。
呆れだけではない、淡く穏やかに緩んだ黒い瞳。
「――アンタは、相変わらず自由だな」
染み入るような心地よい声に、うっすらと羨望の欠片。
それを優しい彼の、"この先"への了承と受け取って、私は「ありがとう」と微笑んだ。
「戻るぞ」と背を向けた雅弥が自身の"この先"を思って、秘かに懐の"薄紫"へと触れていたことなど、微塵も気が付かなかった。
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