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襲撃と"念"祓い

襲撃と"念"祓い①

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 けれどまあ、現実はそう上手くはいかないもので。

「……今日も駄目だった」

 時刻は二十一時。溜息交じりに錦糸町駅で降りた私は、自身の無力さに項垂れながらトボトボと帰路を歩く。
 時は無常に過ぎること、あれから三日。
 結局、店に行く機会を得られないまま、水曜日も終わろうとしている。

 高倉さんは相変わらず、ちぐはぐの服に跳ね放題の髪、ズレの目立つ化粧のまま。
 周囲の社員も初めは心配の声を次々にかけていたけれど、高倉さんの噛み合わない自信満々な受け応えと、ヒステリックな憤怒を恐れて触れなくなってしまった。
 代わりに本人の居ない場で、密めき合う。

 ――まるで何かに取り付かれているみたいだ、と。

(……やっぱり、あの黒い靄が関係しているとしか思えないんですけど)

 高倉さんに纏わりつくあの黒い靄は、日に日に大きく濃くなっている。
 お葉都ちゃんみたいに実体があるようではないみたいだし、となると、あやかしではない。
 だったら、何なのか。目的は。高倉さんは、これから一体どうなってしまうんだろう。

 私の記憶が正しければ、雅弥はお葉都ちゃんのことを誤解していたあの夜、"取り込む"という言葉を使っていた。
 なんだろう。嫌な予感がする。
 このままいくと、高倉さんはアレに"取り込まれて"しまうんじゃ――。

「――美しい顔は、ひとつあれば十分」

 え、と。声を上げるよりも早く、突き飛ばされるようにして背に衝撃を受けた。
 重力に引かれるまま鈍い音をたてて、路地に転がる。

「いっ――」

 事態を把握する間もなく、強い力が左肩を掴み、アスファルトに手をつく私を仰向けにして押さえつけた。
 刹那、馬乗りにして腹にまたがるその人の手が、首に伸びてくる。

「――っ!」

 見えたのは、夜道だというのに異様に白く浮かぶ、微笑む高倉さんの顔。
 明確な意図をもって締め上げる両手に必死に抵抗しながら、私は圧倒的な危機に混乱していた。

(――どうしてここに、高倉さんが。なんで、こんな……っ!)

 正気とは思えない、光のない瞳。
 彼女を覆う、あの黒い靄。

「っ、た……く、ら……さんっ!」

 全身で必死に抗って、名を呼ぶ。
 けれど彼女はまるで美しい花畑を愛でているかのように、うっとりと頬を和らげ、

「そう、そうよ。私だけがいればいいの。まがい物を消してしまえば、あの人も本当の美しさに目を覚ます」

 ぎりりと喉に食い込む、十の指。どんなに暴れても、彼女の身体は微動だにしない。
 切れ切れの呼吸さえ阻まれ、意識が朦朧としていく。

(――あ、駄目かも)

 本能的に限界を悟った、その瞬間。

「――"薄紫"」

 低く圧を纏う声と共に、吹き飛んだ重み。
 解放と同時に大きく息を吸いこんだ私は、それまでを取り返すようにして、繰り返し酸素を取り込んだ。
 あまりに必死すぎたのか、今度はゲホゲホと激しくむせ込んでしまう。
 身体がだるい。
 アスファルトに手を付き、なんとか起こした上体の更に上から、苛立ち交じりの声が降ってきた。

「あの時、大人しくカグラに頼んでおけば良かったものを」

「っ、まさや」

 うまく力の入らない首を動かし、顔を上げる。
 私を見下ろしていたのは、不機嫌をありありと浮かべた仏頂面。
 ああ、うん。間違いない。雅弥だ。
 私は吹き出た安堵に顔を歪めて、

「た、すかった……。ありがと……」

 どうしてここにいるのかとか、いまはどうでもいい。
 それよりも、この状況下において一番に頼れる存在が目の前に在ることが、何よりも心強かった。
 雅弥は得意げに鼻でも鳴らすのかと思いきや、意外にも、うろたえたような顔をして、

「……説教は後だ。それにまだ、何も終わっていない」

 鋭い視線が、促すようにして前方を向く。
 つられて視線の先を追うと、数メートル先の街頭下には、うつ伏せに倒れこんだ高倉さんの姿。

「ちょ、ちょっと雅弥! 高倉さんは人間なんだけど! いくら私を助けるためとはいえ、あんなトコまで吹っ飛ばしたら大怪我もいいトコ――」

「アレはもう、ただの人間じゃない。見ろ」

 途端、高倉さんがひたりと地に手をつき、鈍くも思える動きで立ち上がった。
 が、痛みに呻くことも、傷ついているはずの身体を気にする素振りもない。

(わあー……なんか、ゾンビ映画みたい)

 って、そうじゃない。

「ねえ、ただの人間じゃないって――」

 刹那、直立不動で佇む高倉さんが、にたりと気味の悪い笑みを貼り付けた。

「駄目じゃない。邪魔したら」

「――っ!」

 ぞくり、と。瞬時に悪寒が背をかけ上がる。
 なに、これ。高倉さんなのに、高倉さんじゃない。

「っ、高倉さん」

「無駄だ。おそらく今のアレには、ヒトとしての理性も感情もない。あるのは"念"に増幅された、アンタを"排除"するという目的だけだ」

「"念"? それってもしかして、あの黒い靄のことだったり……?」

「……なんだと?」

 驚愕に、黒い双眸が見開く。

「アンタ、見えているのか」

「え? うん、バリバリ見えるけども……やっぱりこれって、普通は見えない系のやつ?」

「なっ……。蓋が、開いたのか」

「蓋?」

「ものの例えだ。あやかしや霊と接触することによって、見えなかったモノが見えるようになることがある」

「ということは……私、これから普通にあやかしとか霊とか、見えちゃうってこと?」

「……程度にもよるが、可能性としては否定できない」

 わあ、そんなことが。
 私が感嘆の声を上げるよりも早く、雅弥が「その話は後だ」と話題を切った。

「ひとまず、アレを祓うぞ」

 鞘に収められていた刀身を引き出し、抜く。
 私は慌てて、

「まさか高倉さんを斬るだなんて――!?」

「人は斬らない。俺が斬るのは、あの"念"だ。ただ――、っ!」

 雅弥が途中で言葉を飲み込んだのは、左手に持つ鞘で、咄嗟に受け身を取ったからだ。
 風のような速さで飛び込んできた高倉さんの手には、どこからか取り出した鋭利なハサミ。
 防ぐ雅弥の鞘に力一杯突き立て、憐れむように笑む。

「アナタも、偽りの美に惑われているの?」

「……っ、惑われているのは、お前だ!」

 腹部を狙った容赦のない蹴りが、高倉さんの身体を吹き飛ばす。
 思わず「高倉さん!」と声を上げてしまったが、やはり彼女は能面のような笑みのまま、むくりと身体を起こした。

 傷の増えた身体を覆う、黒い靄。
 まるでその靄が、高倉さんを人形のように動かしているような――。

「さっきの続きだが」

「!」

 雅弥の声に、私は思考を引き戻す。

「アンタも感づいているだろうが、あの女はすでに随分と根深く"取り込まれて"いる。このまま"念"を斬れば、おそらく、本体も無事では済まないだろう」

「それって、高倉さんも死んじゃうってこと?」

「死にはしない。だが……地中深く根を張った大樹を、引き抜くようなものだ。精神も肉体も、相当の揺さぶりを受ける。早期に目覚めれば運がいいが、それでも心は回復出来ないままという可能性も……」

「だ、だめよ!」

 私は咄嗟に首を振った。

「そんな……だって、高倉さんだって被害者なのよ? ただちょっと私にはドコがいいのかさっぱりわからない面倒な相手を好きになっちゃって、どうしてなのか一ミリも理解できないけれど、なんとか振り向いてほしいって思っちゃってて、おまけに迷惑極まりないけども、その恋心が若干間違った方向に爆発しちゃっただけなのに!」

「……呪文か?」

「違う! つまりその……こんなことで一生を棒を振るなんて、わりにあわないって言いたいの!」
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