春泥棒

那須与二

文字の大きさ
上 下
2 / 3

風を食む

しおりを挟む



春はあけぼの。



朝、目を覚ます。優しい雰囲気を破壊するスマホのアラーム音が鳴る前にベットから立ち上がった。窓を開けると、カーテンが春風になびく。暖かい匂いがする。大口を開けて、朝の空気を吸い込む。その流れのまま欠伸をしてしまった。頭の中はまだぼやけている。


白いマグカップ、温い風、時計の短針はすでに上向きだった。


何もかもが満ち足りているのに、何もかも足りていない。そう思いながら、柔らかい筆跡で詩を綴る。あの人は今、何をしているだろうか。中身のない言葉をただ、ただ並べる。徒然なるまま、陽が落ちるのを待つように1人で外を眺めていた。今日が何日なのか、何曜日なのか、分からないが、とにかく陽が心地よかった。



雨が降ってきた。全てを吹き飛ばす嵐が来た。空が泣いていた。大口を開けて泣いていた。桃色の風は鈍色に変わる。窓ガラスの向こうに雨の音、既視感の果てに春の匂い。


あの人は今、どこでなにをしているのだろうか。


昼なのに暗い防音室に入る。
ピアノ椅子に座り、指を鍵盤に置く。月光第一楽章。あの人がいつも弾いていた曲を弾いてみる。
ずっと弾いていた。気付くと、陽は落ち、空は泣き止んでいた。椅子から立ち上がり、窓辺に立って外の景色を眺める。
ふと、ピアノ椅子の方を振り返ると、月明かりが差していた。一筋の鋭く温い月明かりがピアノ椅子の上を刺していた。

息をすることすら億劫だ。

あなたはいつもそう言っていた。今なら少しだけ分かるかもしれない。あなたの声だけが頭の中で鮮明にこだまする。
溜息が聞こえた気がした。無機質な部屋の外には綺麗に彩られた景色があった。その遥か上には浮遊する月。
ふと、また溜息が聞こえた気がした。咳が聞こえた気がした。
あなたの顔や声や仕草が鮮やかに思い出される。
幻聴に思わず"さようなら"と言った。
あの時言わせてくれなかった別れの挨拶。すこし気分がすっとした気がした。

「愛を歌えば言葉足らず。」

瞬きさえ億劫に思うほど全身で春を食む。

桜並木を歩いた。



季節は過ぎ去り、夜の空に花が咲いた。
ベランダにある、片割れの椅子の傍で蛍火が待っていた。

季節は過ぎ去り、道には金色のカーペットが敷かれた。
落ち葉を踏みしめる音、ダックスが吠える。

季節は過ぎ去り、風は白く染まった。
一人には大袈裟な、ストーブの温もりを感じることが出来なかった。

そして季節は過ぎ去り、窓は彩られる。

ピアノを深く、暗く、一人でに鳴しているのは、月光、第一楽章。窓の外で夜の桜吹雪が吹きまくるのを眺める背後で、ピアノが鳴る。

春なんてどうなってもいいから、別れの一つくらい言いたかった。

「貴方しか、貴方しか貴方の傷は分からないんだ。売れ残った心でも、それでも私にとっては美しい。」

ピアノの音が小さくなっていき、やがて止まる。
彼女の心臓に月光が刺さる。月光が溢れるように煌めいていた。


「さよならが欲しいだけなんだ。」


陽が昇った後の、桜並木を歩く。桜吹雪が舞っている。いつか貴方と見たかった春吹雪の下で口ずさむ。
明くる日も、明くる日も、桜の下を歩きに行った。その度にあなたの声だけが蘇る。
その声をなぞって、何度も口ずさむ。

桜は次々と舞い、空も木々も青くなっていく。花見の客も少なくなっていく。もう、春が終わる。
川沿いの丘、木陰に座る。おそらく、明日もあなたに会いに来る。

気が付くと、花見は私達だけだった。
花弁が舞う。騒ぐ春吹雪の向こうに既視感。
あの声が聴こえた気がした、花の向こうからか、その中からか。
あなたの声が聴こえた。

散りゆくこの魂よ、ゆっくりと、夏の匂いを引き連れて来てくれないか。
いずれ過ぎていく時間にもう少し暇を乞うてくれ。


「ずっと貴方を待っていました。」


春が先、花ぐわし、散りゆく春の向こうに夏の匂い。
一瞬でいい、あなたの記憶の中に私を残して下さい。


貴方が持っていてくれた私の筆箱の中に、"私の心"を差し入れた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ただ君に晴れ

那須与二
現代文学
ヨルシカさんのただ君に晴れのインスパイア小説です。 自分なりの考察も交えています。自己満です。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

就職面接の感ドコロ!?

フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが小さな公園のトイレをみんなで使う話

赤髪命
大衆娯楽
少し田舎の土地にある女子校、華水黄杏女学園の1年生のあるクラスの乗ったバスが校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれてしまい、急遽トイレ休憩のために立ち寄った小さな公園のトイレでクラスの女子がトイレを済ませる話です(分かりにくくてすみません。詳しくは本文を読んで下さい)

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

処理中です...