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風を食む
しおりを挟む春はあけぼの。
朝、目を覚ます。優しい雰囲気を破壊するスマホのアラーム音が鳴る前にベットから立ち上がった。窓を開けると、カーテンが春風になびく。暖かい匂いがする。大口を開けて、朝の空気を吸い込む。その流れのまま欠伸をしてしまった。頭の中はまだぼやけている。
白いマグカップ、温い風、時計の短針はすでに上向きだった。
何もかもが満ち足りているのに、何もかも足りていない。そう思いながら、柔らかい筆跡で詩を綴る。あの人は今、何をしているだろうか。中身のない言葉をただ、ただ並べる。徒然なるまま、陽が落ちるのを待つように1人で外を眺めていた。今日が何日なのか、何曜日なのか、分からないが、とにかく陽が心地よかった。
雨が降ってきた。全てを吹き飛ばす嵐が来た。空が泣いていた。大口を開けて泣いていた。桃色の風は鈍色に変わる。窓ガラスの向こうに雨の音、既視感の果てに春の匂い。
あの人は今、どこでなにをしているのだろうか。
昼なのに暗い防音室に入る。
ピアノ椅子に座り、指を鍵盤に置く。月光第一楽章。あの人がいつも弾いていた曲を弾いてみる。
ずっと弾いていた。気付くと、陽は落ち、空は泣き止んでいた。椅子から立ち上がり、窓辺に立って外の景色を眺める。
ふと、ピアノ椅子の方を振り返ると、月明かりが差していた。一筋の鋭く温い月明かりがピアノ椅子の上を刺していた。
息をすることすら億劫だ。
あなたはいつもそう言っていた。今なら少しだけ分かるかもしれない。あなたの声だけが頭の中で鮮明にこだまする。
溜息が聞こえた気がした。無機質な部屋の外には綺麗に彩られた景色があった。その遥か上には浮遊する月。
ふと、また溜息が聞こえた気がした。咳が聞こえた気がした。
あなたの顔や声や仕草が鮮やかに思い出される。
幻聴に思わず"さようなら"と言った。
あの時言わせてくれなかった別れの挨拶。すこし気分がすっとした気がした。
「愛を歌えば言葉足らず。」
瞬きさえ億劫に思うほど全身で春を食む。
桜並木を歩いた。
季節は過ぎ去り、夜の空に花が咲いた。
ベランダにある、片割れの椅子の傍で蛍火が待っていた。
季節は過ぎ去り、道には金色のカーペットが敷かれた。
落ち葉を踏みしめる音、ダックスが吠える。
季節は過ぎ去り、風は白く染まった。
一人には大袈裟な、ストーブの温もりを感じることが出来なかった。
そして季節は過ぎ去り、窓は彩られる。
ピアノを深く、暗く、一人でに鳴しているのは、月光、第一楽章。窓の外で夜の桜吹雪が吹きまくるのを眺める背後で、ピアノが鳴る。
春なんてどうなってもいいから、別れの一つくらい言いたかった。
「貴方しか、貴方しか貴方の傷は分からないんだ。売れ残った心でも、それでも私にとっては美しい。」
ピアノの音が小さくなっていき、やがて止まる。
彼女の心臓に月光が刺さる。月光が溢れるように煌めいていた。
「さよならが欲しいだけなんだ。」
陽が昇った後の、桜並木を歩く。桜吹雪が舞っている。いつか貴方と見たかった春吹雪の下で口ずさむ。
明くる日も、明くる日も、桜の下を歩きに行った。その度にあなたの声だけが蘇る。
その声をなぞって、何度も口ずさむ。
桜は次々と舞い、空も木々も青くなっていく。花見の客も少なくなっていく。もう、春が終わる。
川沿いの丘、木陰に座る。おそらく、明日もあなたに会いに来る。
気が付くと、花見は私達だけだった。
花弁が舞う。騒ぐ春吹雪の向こうに既視感。
あの声が聴こえた気がした、花の向こうからか、その中からか。
あなたの声が聴こえた。
散りゆくこの魂よ、ゆっくりと、夏の匂いを引き連れて来てくれないか。
いずれ過ぎていく時間にもう少し暇を乞うてくれ。
「ずっと貴方を待っていました。」
春が先、花ぐわし、散りゆく春の向こうに夏の匂い。
一瞬でいい、あなたの記憶の中に私を残して下さい。
貴方が持っていてくれた私の筆箱の中に、"私の心"を差し入れた。
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