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嘘月
しおりを挟む春嵐、それは冬よりも鋭く、夏よりも激しく揺れ、花を吹かせる。
春の陽だまりを突如、支配する黒い雲。稲妻が鳴り、雨が唸るように降り続ける。
こんな春、散らしてしまえ、吹き飛ばしてしまえ。
空が泣き叫ぶ中、昼なのに薄暗い防音室へ入る。
ピアノ椅子に座り、指を鍵盤に置く。だが、弾く気は起きない。
ずっと座っていた。陽が落ち、空が泣き止むまでずっとそうしていた。これからもずっとそうして居たかった。
月明りが差していた。俺の胸に一つ、刺さっていた。
息をすることすら億劫だ。今日でさえ、明日になればもう過去だし、未来なんてない。あるのは過去の連続。
そう、あなたも過去の一部だ。声ももう忘れた。想い出すことも、想い出に”さようなら”と言うことも億劫で仕方がない。
溜息を吐く。こんな何もない部屋にも等しく春は来る。暑苦しい程の色彩の季節だ。
風よ、嵐よ、雨霰よ。この春を吹き飛ばしてしまえ。夏が見たいのだ。全部のことに”さようなら”と俺の代わりに言ってくれ。
ピアノ椅子に座って、夜を吞んでいた。月光を呑んでいた。こんなにも良い月を一人で。溜息を吐いても、一人。咳をしても、一人。ありまる愛を、底が抜けた柄杓で吞んでいる。あの輝いていた自分も過去のことだ。あの時の気持ちも、思想も、音楽も、言葉も、全て宝石だった。それはあなたがいたから。
桜並木を歩く。
季節は過ぎ去り、夜の空に花が咲いた。
ベランダに出て、片割れの椅子へ蛍火と共に座った。
季節は過ぎ去り、道には金色のカーペットが敷かれた。
懐かれていない、ダックスを連れて道端を歩いた。
季節は過ぎ去り、風は白く染まった。
一人には大袈裟な、ストーブを付けた。
そして、季節は過ぎ去り、窓は彩られる。
月光、第一楽章。深く、低く、ピアノが鳴る。窓の外で夜の桜吹雪が吹きまくるのを見ないふりをするように、ピアノが鳴る。
春なんてどうなってもいいから、別れの一つくらい言いたかった。
「君の目を覚えていない。君の口を描いていない。君の鼻を知らない。君の頬を想っていない。君のことは待っていない。」
ピアノの音が小さくなっていき、やがて止まる。
彼の頬を月光が伝う。月光が溢れるように煌めいていた。
「さよならが欲しいだけなんだ。」
陽が昇った後の、桜並木を歩く。桜吹雪が舞っている。あなたと引き換えの桜など見たくもない。早く散ってしまえ。俯いて歩く。
明くる日も、明くる日も、桜の下を歩きに行った。その度にあなたの言葉だけが蘇る。
その美しい言葉に、己の踏む韻さえ億劫に感じる。
桜は次々と舞い、空も木々も青くなっていく。花見の客も少なくなっていく。また、夏が来る。
川沿いの丘、木陰に座る。おそらく、明日も会いに来る。いや、誰にだろう。
気が付くと、花見は僕らだけだった。
花弁が舞う。騒ぐ春吹雪の向こうにあなたが居る気がする。
手と手が触れ合う感触、花の向こうか、その上か。
あなたが居た。
嗚呼、散るな。まだ散るな、春吹雪。
どうか、どうかこの時間を奪わないでくれないだろうか。
「いつまでも君を待っている。」
春を盾にして、時を奪う。さながら、泥棒のような何かよ。
どうかあと一瞬だけ、春を返してくれ。どうか。
家に帰り、筆箱を開けると、そこには"花弁"というあなたが居た。
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