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過去と先のない未来
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宝物庫にある、祭壇用だと思われる大きな台の上へアニエスを寝かせると、ユーグは小さくため息をついた。
(やりすぎてしまった……)
ずっと恋い焦がれていた人と想いが通じたからとはいえ、あまりにも暴走しすぎてしまったと反省する。
濡れた身体を拭いている時も、意識がない彼女に劣情を抱いてしまう自分が怖くもなった。いっそ眠ったまま襲ってしまおうかという不埒な欲望をどうにか抑えながら服を着せてやると、しばらくの間自分から遠ざけようと宝物庫へ連れてきた。
彼女だけここで寝かせて、自分は泉の方で寝よう。……と決めたのだが、どうにも足が動かない。穏やかに眠り続ける彼女の寝顔をいつまでも見続けていたいと胸の内で自分が切実に訴えている。
(寝顔も、なんて綺麗で凛々しいのだろう……)
そしてとても可愛らしいと、もはやすべての美辞麗句に当てはまるとユーグは嘘偽りなく思った。顔立ちの良さとかではなく(もちろん良いのだが)、アニエスというだけで愛おしく思えるのだ。
「姫様……」
ずっと、手の届かない人だと思っていた。諦めて、幸せを願うことしか自分には許されないのだと。
物心ついた時には、自分の周りにはにこにこと微笑む大人たちばかりだった。反対に母親だけはどこか余所余所しく、自分と接することが辛いとばかりに悲痛な表情を浮かべ、時には涙を滲ませ、その場で泣き崩れることもあった。
今思えば母は我が子の行く末を知っていたからこそ、成長を喜べず、罪悪感に押しつぶされそうな地獄の日々を送っていたのだと理解できるが、当時はなぜこんなにも感情を乱しているのか全くわからなかった。
どこか俯瞰したように母が泣くのを見て、人が哀しみに暮れている時はその痛みに寄り添ってあげるべきだと教会の教えを思い出し、ユーグは大人びた口調で母を慰めた。
そんな息子の態度にますます母は顔を歪め、嗚咽を激しくしたのだが、やはりユーグにはどこか他人事であった。
「母上は、どうしてあんなにも嘆き悲しんでいるのだろうか……」
「猊下。御母上は喜んでおられるのです」
「喜んでいる?」
「はい。自分の産んだ我が子が成長して、その身を神に捧げられることを、この上ない幸せだと、涙を流して感謝しているのです」
アニエスが聞いたら何を寝ぼけたことを言っているのだと激怒して、その司教の頬に強烈な張り手をかましたことだろうが、当時のユーグは特に何も思わず、そうなんだと彼の言葉を信じた。
自分が死ぬために生まれた運命も、幼く、世界を知らない子どもは残酷なほど素直に受け入れることができた。いや、子どもだったとしても――普通の子どもなら、ショックを受け、嫌だと拒否しただろう。
そういう意味では、やはり彼は特別だった。ただ身体を動かすことのできる、でも心は持っていない、空っぽのただの器、人形のような子どもだったのだ。
「猊下。いいですか。神の教えには決して逆らってはいけません」
「猊下はこのダルトワ王国のために生きて、死ぬのです」
司教たちはユーグをそれはそれは大切に扱った。余計な知識を蓄える前に、自分たちにとって都合のいい、生贄としての心構えを懇々と説いていった。言葉を変えて、これは崇高なことだと、とても名誉なことだと、繰り返し、何度も言い聞かせていった。
ユーグが母の前で「心配しないでください、母上。私は自分の運命を受け入れています。立派に役目をはたしてみせます」と告げれば、司教たちはみな喜んでくれた。母は泣き崩れて、その後滅多に顔を見せなくなったけれど、やはりどこか自分には関係ない出来事として、健康を祈った。
肉親でさえこんな状況であったから、赤の他人はもっとユーグにとって意味をなさない人間だった。
ただ一人、アニエスを除いて。
彼女と初めて会った時のことは今でもよく覚えている。忘れられない。まず声が大きく、初対面なのに偉そうに、そしてこちらの態度が気に入らないというように怒っている姿が、今まで出会ってきたどんな人間とも違って、新鮮に映った。
何より、彼女が自分に近づいて、覗き込むように顔を見てきた時。陽光をたっぷりと浴びた夏の葉を思わせる緑の瞳が、自分だけを映した時。
ユーグは自分を覆っていた殻にひびが入るのを感じた。それまでどんな刺激も、良いことも悪いことも、必要なことも、決して与えず触れさせないと守っていた硬い殻が、アニエスによって破られるような、そんな錯覚に陥った。
この少女の前では、どんな堅牢な壁も意味をなさない。
その予感は当たっていた。彼女はこちらが驚くほど強引に、僅かな隙間から見せた自分の手をすかさず掴んで、強く引っ張って、すべて壊し尽くす勢いで、自分をずっと守っていた――意思を持たずに生きることを命じられた囲いから生身を引きずりだそうとした。
彼女の目は、表情は、いつも強く訴えかける。
人形のようなあなたは嫌い。本当のあなたを見せて。わたくしだけを見て、と。
彼女はユーグが空っぽであることを見抜き、司教たちにひたすら言いなりの、人形のような振る舞いを嫌悪していた。
彼女がいつから、どこまでそのことを自覚していたかはわからないが、わざと自分を挑発するような言動をとったのはそのせいだろう。怒らせて、感情を露わにさせようとした。
だがアニエスがいくら望んだところで自分は変わらないままだった。それは本当に空っぽだったということもあるが、一番は、彼女に何を言われても、されても、嫌ではなかったからだ。
いつも自分を見ては無視できない彼女が可愛かった。いつもどこか怒ったように必死に声をかけてくる姿に、自然と笑みを浮かべていた。
失礼なことを口にしては、自分の反応を気にしているのが愛らしかった。そのくせ他の誰かが自分の悪口を言っていると烈火のごとく怒り狂う彼女が、可愛くて仕方がなかった。
愛おしい、という言葉は彼女のためにあるのだとユーグは何度も思った。
一体いつからこんなふうに思うようになったのだろう。わからない。だが気づけばユーグはアニエスに会えることに喜びを感じていた。
中庭へ足を運んでくれると、自分に会いに来てくれたと心が弾み、来なかった日は何か悪いことをしてしまったか、もう自分には飽きてしまったのではないかと、いつまでもくよくよ考えてしまう。
そのうち、彼女に対して重苦しい感情を抱くようになる。最初は彼女のことを考えるだけで羽が生えたようにふわふわと、何でもできそうな温かな気持ちだったのが、いつからかどこにも行かないでほしい、自分だけを見てほしい……そんな醜悪な嫉妬心や独占欲に支配されていく。
「アニエス殿下が隣国の王太子殿下と婚約を結ばれたそうだ」
「遊学と称してこちらに滞在するらしい」
「王太子殿下は一刻も早く結婚を望んでいるみたいだが、国王陛下がまだ早いと渋っているそうだ」
「過保護な父王がいると姫君も苦労なさる」
「幼い頃から幾度となく打診があったのだ。ようやく婚約者となられて、アニエス殿下も早く結婚したいだろうに」
そんな何気ない会話を聞かされるたび、ユーグは心臓を掴まれたように息を呑み、頭の中が真っ白になった。
彼女が見知らぬ男と結婚する。その男とはもうすでに婚約している。そう言えば彼女はいつからか庭へ来なくなった。もう結婚を決めて、その準備をしているということだろうか。自分には、もう会いにきてくれない。手の届かない人になってしまった。
心臓の鼓動が痛いほど早くなり、身体が引き裂かれそうな痛みに襲われる。
(そんなの……)
嫌だ、と思って、自分にはどうにもできない事実に愕然とする。
だって自分なんかが彼女と共に歩めるはずがない。王族でもない。聖王など呼ばれているが、爵位を持っているわけではない。教会の人間がただ王家に対抗しようとして勝手に呼んでいるだけだ。
何よりいずれ死ぬ運命なのだ。そんな人間がどうしてアニエスのそばにいられようか。
「猊下は本当に素晴らしい方です」
「ええ、本当に。孤児院や救貧院に足を運んでくださるとは王族でもなかなかできることではありませんからな」
苦境に立たされている人間の力になりたい、と思ったのは事実だ。
だがどこかで、アニエスの関心を引きたい、認められたいという思いがあったかもしれない。婚約者となった男よりも自分を――。
だがそうした足掻きも、結局何の意味もなさなかった。
「これで猊下も、何の憂いもなく神と同じ世界へ旅立つことができますな」
「ええ。初代ダルトワ王も、きっと猊下の善行に深く感銘を受け、受け入れてくださることでしょう」
生きることは許さない。余計な未来は描くな。
彼らは言外にそう告げてきた。
言われなくてもわかっている。彼女のことを考えるのはもうやめなければならない。それなのに……
(アニエス……)
神に祈りを捧げなければならないのに、彼女の姿がちらついて、ちっとも身が入らない。こうしている間にも、彼女は王太子のそばにいるのだろうか。仲睦まじい様子で、もう夫婦のように周りからは見えるのだろうか。
ユーグは硬く目を瞑って、どうかこれ以上私の心を乱さないでほしいと願った。
どんなに自分を戒めても、諦めきれず、居ても立っても居られない気持ちで、気づけばユーグは毎日庭へと足を運んでいた。彼女がひょっとしたら会いに来てくれるのではないかと、姿だけでも見せてくれるのではないかと微かな可能性に賭けて……。
「アニエスは来ないぞ」
しかし顔を出したのはアニエスの兄であるルドヴィクであった。彼は昔から妹が気にかけるユーグが気に食わないようで、いつも敵意に満ちた目で睨んできた。
アニエスとは違う。本当に、嫌いでたまらない感情がそこには宿っている。
「あいつはおまえみたいな人間じゃなくて、俺と同じ王族の、きちんとしたやつと結婚するんだ」
そんなことをわざわざご丁寧に言いに来たということは、アニエスのことを想うのはいい加減諦めろと命じているのだ。
彼がそう告げるのも理解できた。余計な虫がいつまでも大事な妹の周りをうろついているのは心配で、目障りなのだろう。
それは兄であるルドヴィクだけじゃない。彼女の従兄であるトリスタンも、以前廊下ですれ違った際、「いい加減不相応な夢を見るのは諦めた方がいい」と牽制も兼ねて忠告してきたことがあった。
ルドヴィクとは違い、ユーグの置かれた立場や身分を考えた時に、絶対にアニエスと交わらない――交わっても、不幸になると冷静に見据えているからこそ、愚かな真似はするなと言わずにはいられないのだ。
「アニエスも、今はまだ幼いからきみに執着しているんだろうけれど、距離が空いてしまえば、時間が経てば、いずれは過去のこととなる。その前に、あの子に余計な傷を負わせないでほしいんだ」
「あいつはまだ子どもだからおまえに執着しちまうんだろうが、結婚して幸せに暮らせば、おまえと結ばれなくてよかったと、きっと自分の選択の正しさを確信する。だからこれ以上あいつの心をかき乱すな」
ルドヴィクもまた、乱暴な口調であったが、トリスタンと同じことをユーグに言った。
わかっている。どう足掻いても叶わない恋なのだと諦めた方が正しいのだ。
『ユーグ!』
それでも――
「私が決めることではありません。彼女の人生は、彼女のものです」
自分の気持ちを、彼女への想いを、決して誰にも譲ることはできなかった。
「おまえ……!」
だがユーグの答えはルドヴィクの逆鱗に触れてしまったようで、つかつかと歩み寄られて胸倉を掴まれた。アニエスと同じ緑の瞳が、怒りを込めて自分を射貫く。
「聖王だか神子だか何だかわからないが、おまえなんてただの平民にすぎない。そんなやつが俺の妹を誑かしていると思うと虫唾が走るんだよ!」
黙って相手のされるがままになっていると、さらに怒りを煽ったのか、ルドヴィクは眉根を寄せた。
「それとも何か? あいつに取り入って、王家を乗っ取ろうとでも考えているのか?」
思ってもいなかった話に目を瞬く。ルドヴィクはそれを図星を指されたとでも捉えたのか、口元を歪ませ、見下すように笑った。
「初代王朝の子孫だから、自分にも王になる資格があるとでも思っているんだろう? 国王の娘であるアニエスと結婚すれば、さらに箔付けもできるしな。そうするよう、教会の連中に命じられて育てられてきたんだろう? アニエスも、俺が国王になるのは認めたくないからおまえを上手く利用して、いつっ――」
ユーグは最後まで聞けずにルドヴィクの腕を掴んで力を込めていた。たまらなくなって手を放した彼から距離を取り、きっぱりと告げる。
「彼女はそんな不敬な気持ちを抱いておりません」
自分は何と言われようが構わない。だが彼女を悪し様に言われるのは耐えられなかった。彼女が本当のところどう思っているかはわからない。彼の言う通り、王として相応しいのは他にいると考えているかもしれない。
だが、誰かを利用してまで王位に即くことは絶対にしないと誓って言える。
「彼女はそんな卑怯な真似はしません。もし女王として即位するつもりならば、正々堂々と、貴方に立ち向かっていくはずですから」
「はっ、どうだか。おまえはあいつを神聖視しているみたいだが、しょせんは同じ人間で、女だ。いくらでも小賢しく立ち振る舞える。俺を排除するのも、何の躊躇もないはずだ」
「……殿下はアニエス様のことを何も知らないのですね」
家族なのに。妹なのに。信じてやらないのだなとユーグが失望も露わに呟くと、ルドヴィクはカッと頬を染めた。
激昂するかと思いきや、むしろ感情が抜け落ちた表情でこちらを見てきたので、内心ひやりとする。
「おまえに何がわかる。役目を期待されて、それに上手く応えられないもどかしさや、誰かに奪われるかもしれないという恐怖が、最初からお膳立てされたおまえにわかるものか」
その言葉には王位継承者として育てられてきたルドヴィクの苦悩が込められている気もしたが、ユーグは特に知りたいとも思わなかった。
ルドヴィクも興が削がれたのか、舌打ちして背を向ける。
「とにかく、もうこれ以上あいつに関わるな」
関わったら容赦しない、という捨て台詞と共に去っていく彼の後ろ姿をただぼんやりと見ながら、ユーグは心の中で先ほどの問いかけに返す。
(では貴方にはわかるのですか。愛する人と未来を歩めない辛さが)
ルドヴィクの悩みなど、未来のないユーグからすればひどくちっぽけなものにしか思えなかった。
(やりすぎてしまった……)
ずっと恋い焦がれていた人と想いが通じたからとはいえ、あまりにも暴走しすぎてしまったと反省する。
濡れた身体を拭いている時も、意識がない彼女に劣情を抱いてしまう自分が怖くもなった。いっそ眠ったまま襲ってしまおうかという不埒な欲望をどうにか抑えながら服を着せてやると、しばらくの間自分から遠ざけようと宝物庫へ連れてきた。
彼女だけここで寝かせて、自分は泉の方で寝よう。……と決めたのだが、どうにも足が動かない。穏やかに眠り続ける彼女の寝顔をいつまでも見続けていたいと胸の内で自分が切実に訴えている。
(寝顔も、なんて綺麗で凛々しいのだろう……)
そしてとても可愛らしいと、もはやすべての美辞麗句に当てはまるとユーグは嘘偽りなく思った。顔立ちの良さとかではなく(もちろん良いのだが)、アニエスというだけで愛おしく思えるのだ。
「姫様……」
ずっと、手の届かない人だと思っていた。諦めて、幸せを願うことしか自分には許されないのだと。
物心ついた時には、自分の周りにはにこにこと微笑む大人たちばかりだった。反対に母親だけはどこか余所余所しく、自分と接することが辛いとばかりに悲痛な表情を浮かべ、時には涙を滲ませ、その場で泣き崩れることもあった。
今思えば母は我が子の行く末を知っていたからこそ、成長を喜べず、罪悪感に押しつぶされそうな地獄の日々を送っていたのだと理解できるが、当時はなぜこんなにも感情を乱しているのか全くわからなかった。
どこか俯瞰したように母が泣くのを見て、人が哀しみに暮れている時はその痛みに寄り添ってあげるべきだと教会の教えを思い出し、ユーグは大人びた口調で母を慰めた。
そんな息子の態度にますます母は顔を歪め、嗚咽を激しくしたのだが、やはりユーグにはどこか他人事であった。
「母上は、どうしてあんなにも嘆き悲しんでいるのだろうか……」
「猊下。御母上は喜んでおられるのです」
「喜んでいる?」
「はい。自分の産んだ我が子が成長して、その身を神に捧げられることを、この上ない幸せだと、涙を流して感謝しているのです」
アニエスが聞いたら何を寝ぼけたことを言っているのだと激怒して、その司教の頬に強烈な張り手をかましたことだろうが、当時のユーグは特に何も思わず、そうなんだと彼の言葉を信じた。
自分が死ぬために生まれた運命も、幼く、世界を知らない子どもは残酷なほど素直に受け入れることができた。いや、子どもだったとしても――普通の子どもなら、ショックを受け、嫌だと拒否しただろう。
そういう意味では、やはり彼は特別だった。ただ身体を動かすことのできる、でも心は持っていない、空っぽのただの器、人形のような子どもだったのだ。
「猊下。いいですか。神の教えには決して逆らってはいけません」
「猊下はこのダルトワ王国のために生きて、死ぬのです」
司教たちはユーグをそれはそれは大切に扱った。余計な知識を蓄える前に、自分たちにとって都合のいい、生贄としての心構えを懇々と説いていった。言葉を変えて、これは崇高なことだと、とても名誉なことだと、繰り返し、何度も言い聞かせていった。
ユーグが母の前で「心配しないでください、母上。私は自分の運命を受け入れています。立派に役目をはたしてみせます」と告げれば、司教たちはみな喜んでくれた。母は泣き崩れて、その後滅多に顔を見せなくなったけれど、やはりどこか自分には関係ない出来事として、健康を祈った。
肉親でさえこんな状況であったから、赤の他人はもっとユーグにとって意味をなさない人間だった。
ただ一人、アニエスを除いて。
彼女と初めて会った時のことは今でもよく覚えている。忘れられない。まず声が大きく、初対面なのに偉そうに、そしてこちらの態度が気に入らないというように怒っている姿が、今まで出会ってきたどんな人間とも違って、新鮮に映った。
何より、彼女が自分に近づいて、覗き込むように顔を見てきた時。陽光をたっぷりと浴びた夏の葉を思わせる緑の瞳が、自分だけを映した時。
ユーグは自分を覆っていた殻にひびが入るのを感じた。それまでどんな刺激も、良いことも悪いことも、必要なことも、決して与えず触れさせないと守っていた硬い殻が、アニエスによって破られるような、そんな錯覚に陥った。
この少女の前では、どんな堅牢な壁も意味をなさない。
その予感は当たっていた。彼女はこちらが驚くほど強引に、僅かな隙間から見せた自分の手をすかさず掴んで、強く引っ張って、すべて壊し尽くす勢いで、自分をずっと守っていた――意思を持たずに生きることを命じられた囲いから生身を引きずりだそうとした。
彼女の目は、表情は、いつも強く訴えかける。
人形のようなあなたは嫌い。本当のあなたを見せて。わたくしだけを見て、と。
彼女はユーグが空っぽであることを見抜き、司教たちにひたすら言いなりの、人形のような振る舞いを嫌悪していた。
彼女がいつから、どこまでそのことを自覚していたかはわからないが、わざと自分を挑発するような言動をとったのはそのせいだろう。怒らせて、感情を露わにさせようとした。
だがアニエスがいくら望んだところで自分は変わらないままだった。それは本当に空っぽだったということもあるが、一番は、彼女に何を言われても、されても、嫌ではなかったからだ。
いつも自分を見ては無視できない彼女が可愛かった。いつもどこか怒ったように必死に声をかけてくる姿に、自然と笑みを浮かべていた。
失礼なことを口にしては、自分の反応を気にしているのが愛らしかった。そのくせ他の誰かが自分の悪口を言っていると烈火のごとく怒り狂う彼女が、可愛くて仕方がなかった。
愛おしい、という言葉は彼女のためにあるのだとユーグは何度も思った。
一体いつからこんなふうに思うようになったのだろう。わからない。だが気づけばユーグはアニエスに会えることに喜びを感じていた。
中庭へ足を運んでくれると、自分に会いに来てくれたと心が弾み、来なかった日は何か悪いことをしてしまったか、もう自分には飽きてしまったのではないかと、いつまでもくよくよ考えてしまう。
そのうち、彼女に対して重苦しい感情を抱くようになる。最初は彼女のことを考えるだけで羽が生えたようにふわふわと、何でもできそうな温かな気持ちだったのが、いつからかどこにも行かないでほしい、自分だけを見てほしい……そんな醜悪な嫉妬心や独占欲に支配されていく。
「アニエス殿下が隣国の王太子殿下と婚約を結ばれたそうだ」
「遊学と称してこちらに滞在するらしい」
「王太子殿下は一刻も早く結婚を望んでいるみたいだが、国王陛下がまだ早いと渋っているそうだ」
「過保護な父王がいると姫君も苦労なさる」
「幼い頃から幾度となく打診があったのだ。ようやく婚約者となられて、アニエス殿下も早く結婚したいだろうに」
そんな何気ない会話を聞かされるたび、ユーグは心臓を掴まれたように息を呑み、頭の中が真っ白になった。
彼女が見知らぬ男と結婚する。その男とはもうすでに婚約している。そう言えば彼女はいつからか庭へ来なくなった。もう結婚を決めて、その準備をしているということだろうか。自分には、もう会いにきてくれない。手の届かない人になってしまった。
心臓の鼓動が痛いほど早くなり、身体が引き裂かれそうな痛みに襲われる。
(そんなの……)
嫌だ、と思って、自分にはどうにもできない事実に愕然とする。
だって自分なんかが彼女と共に歩めるはずがない。王族でもない。聖王など呼ばれているが、爵位を持っているわけではない。教会の人間がただ王家に対抗しようとして勝手に呼んでいるだけだ。
何よりいずれ死ぬ運命なのだ。そんな人間がどうしてアニエスのそばにいられようか。
「猊下は本当に素晴らしい方です」
「ええ、本当に。孤児院や救貧院に足を運んでくださるとは王族でもなかなかできることではありませんからな」
苦境に立たされている人間の力になりたい、と思ったのは事実だ。
だがどこかで、アニエスの関心を引きたい、認められたいという思いがあったかもしれない。婚約者となった男よりも自分を――。
だがそうした足掻きも、結局何の意味もなさなかった。
「これで猊下も、何の憂いもなく神と同じ世界へ旅立つことができますな」
「ええ。初代ダルトワ王も、きっと猊下の善行に深く感銘を受け、受け入れてくださることでしょう」
生きることは許さない。余計な未来は描くな。
彼らは言外にそう告げてきた。
言われなくてもわかっている。彼女のことを考えるのはもうやめなければならない。それなのに……
(アニエス……)
神に祈りを捧げなければならないのに、彼女の姿がちらついて、ちっとも身が入らない。こうしている間にも、彼女は王太子のそばにいるのだろうか。仲睦まじい様子で、もう夫婦のように周りからは見えるのだろうか。
ユーグは硬く目を瞑って、どうかこれ以上私の心を乱さないでほしいと願った。
どんなに自分を戒めても、諦めきれず、居ても立っても居られない気持ちで、気づけばユーグは毎日庭へと足を運んでいた。彼女がひょっとしたら会いに来てくれるのではないかと、姿だけでも見せてくれるのではないかと微かな可能性に賭けて……。
「アニエスは来ないぞ」
しかし顔を出したのはアニエスの兄であるルドヴィクであった。彼は昔から妹が気にかけるユーグが気に食わないようで、いつも敵意に満ちた目で睨んできた。
アニエスとは違う。本当に、嫌いでたまらない感情がそこには宿っている。
「あいつはおまえみたいな人間じゃなくて、俺と同じ王族の、きちんとしたやつと結婚するんだ」
そんなことをわざわざご丁寧に言いに来たということは、アニエスのことを想うのはいい加減諦めろと命じているのだ。
彼がそう告げるのも理解できた。余計な虫がいつまでも大事な妹の周りをうろついているのは心配で、目障りなのだろう。
それは兄であるルドヴィクだけじゃない。彼女の従兄であるトリスタンも、以前廊下ですれ違った際、「いい加減不相応な夢を見るのは諦めた方がいい」と牽制も兼ねて忠告してきたことがあった。
ルドヴィクとは違い、ユーグの置かれた立場や身分を考えた時に、絶対にアニエスと交わらない――交わっても、不幸になると冷静に見据えているからこそ、愚かな真似はするなと言わずにはいられないのだ。
「アニエスも、今はまだ幼いからきみに執着しているんだろうけれど、距離が空いてしまえば、時間が経てば、いずれは過去のこととなる。その前に、あの子に余計な傷を負わせないでほしいんだ」
「あいつはまだ子どもだからおまえに執着しちまうんだろうが、結婚して幸せに暮らせば、おまえと結ばれなくてよかったと、きっと自分の選択の正しさを確信する。だからこれ以上あいつの心をかき乱すな」
ルドヴィクもまた、乱暴な口調であったが、トリスタンと同じことをユーグに言った。
わかっている。どう足掻いても叶わない恋なのだと諦めた方が正しいのだ。
『ユーグ!』
それでも――
「私が決めることではありません。彼女の人生は、彼女のものです」
自分の気持ちを、彼女への想いを、決して誰にも譲ることはできなかった。
「おまえ……!」
だがユーグの答えはルドヴィクの逆鱗に触れてしまったようで、つかつかと歩み寄られて胸倉を掴まれた。アニエスと同じ緑の瞳が、怒りを込めて自分を射貫く。
「聖王だか神子だか何だかわからないが、おまえなんてただの平民にすぎない。そんなやつが俺の妹を誑かしていると思うと虫唾が走るんだよ!」
黙って相手のされるがままになっていると、さらに怒りを煽ったのか、ルドヴィクは眉根を寄せた。
「それとも何か? あいつに取り入って、王家を乗っ取ろうとでも考えているのか?」
思ってもいなかった話に目を瞬く。ルドヴィクはそれを図星を指されたとでも捉えたのか、口元を歪ませ、見下すように笑った。
「初代王朝の子孫だから、自分にも王になる資格があるとでも思っているんだろう? 国王の娘であるアニエスと結婚すれば、さらに箔付けもできるしな。そうするよう、教会の連中に命じられて育てられてきたんだろう? アニエスも、俺が国王になるのは認めたくないからおまえを上手く利用して、いつっ――」
ユーグは最後まで聞けずにルドヴィクの腕を掴んで力を込めていた。たまらなくなって手を放した彼から距離を取り、きっぱりと告げる。
「彼女はそんな不敬な気持ちを抱いておりません」
自分は何と言われようが構わない。だが彼女を悪し様に言われるのは耐えられなかった。彼女が本当のところどう思っているかはわからない。彼の言う通り、王として相応しいのは他にいると考えているかもしれない。
だが、誰かを利用してまで王位に即くことは絶対にしないと誓って言える。
「彼女はそんな卑怯な真似はしません。もし女王として即位するつもりならば、正々堂々と、貴方に立ち向かっていくはずですから」
「はっ、どうだか。おまえはあいつを神聖視しているみたいだが、しょせんは同じ人間で、女だ。いくらでも小賢しく立ち振る舞える。俺を排除するのも、何の躊躇もないはずだ」
「……殿下はアニエス様のことを何も知らないのですね」
家族なのに。妹なのに。信じてやらないのだなとユーグが失望も露わに呟くと、ルドヴィクはカッと頬を染めた。
激昂するかと思いきや、むしろ感情が抜け落ちた表情でこちらを見てきたので、内心ひやりとする。
「おまえに何がわかる。役目を期待されて、それに上手く応えられないもどかしさや、誰かに奪われるかもしれないという恐怖が、最初からお膳立てされたおまえにわかるものか」
その言葉には王位継承者として育てられてきたルドヴィクの苦悩が込められている気もしたが、ユーグは特に知りたいとも思わなかった。
ルドヴィクも興が削がれたのか、舌打ちして背を向ける。
「とにかく、もうこれ以上あいつに関わるな」
関わったら容赦しない、という捨て台詞と共に去っていく彼の後ろ姿をただぼんやりと見ながら、ユーグは心の中で先ほどの問いかけに返す。
(では貴方にはわかるのですか。愛する人と未来を歩めない辛さが)
ルドヴィクの悩みなど、未来のないユーグからすればひどくちっぽけなものにしか思えなかった。
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