旦那様はとても一途です。

りつ

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第7話

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「それで引き受けてしまったのかい?」

 フランツは信じられないように私を見ていた。

「ええ。だって、可哀そうなんですもの」

 アルベルトはルッツに仕事のことで相談があると言われ、無事に出かけていった。もちろん仕事という話は彼を呼び出すための方便で、リーゼロッテ嬢と会わせるためである。

 初恋の人に会える。しかも彼女が病気で苦しんでいるとなれば、絶対に断るはずがないと私は確信していた。

 これで夫の初恋がようやく叶うなら、安いものである。だが、フランツは納得がいかなそうに口をへの字にしていた。彼にしては珍しく怒った表情である。

「だからって、もし二人が駆け落ちでもしてしまったら、どうするんだい?」

「それはたぶん、ないと思います。リーゼロッテ様は体調も万全ではないでしょうし……それにアルベルトも自分の役目を途中で放棄する人ではありません」

 リーゼロッテ嬢には劣るかもしれないが、私だってアルベルトと一緒に過ごしたのだ。彼がそんな無責任な人間ではないことぐらい理解している。

「だからってね、きみ。年若い男女が一緒にいて、何をするか、想像できないわけじゃないだろう?」

「ええ。大丈夫です。そのへんもきちんとわかって了承しましたから」

「……はあ。僕はどうなっても知らないからね」

 何とも言えない表情でこちらを見るフランツに私は首をかしげる。

「リーゼロッテ様の旦那様にばれた場合ですか? 大丈夫ですよ。こう見えても演技には自信がありますから」

「いや、そういうことじゃなくてね。きみの旦那が、妻であるきみが手引きしたのだと知ったら……」

 バタンと部屋の扉が開き、私たちは一斉に振り返った。息を切らせたアルベルトがまっすぐに私を見つめた。あちゃあ、というフランツのつぶやきが聞こえる。

「クラウディア。きみは、知っていたのか?」

「あら、もう帰りましたの」

 この一週間は帰って来ないとばかり思っていたのに、私は内心驚きつつ、あくまで何でもないように振る舞った。

 だがいまやアルベルトの目線は、茶菓子をのんきにつまむフランツへと注がれていた。それは私が今まで見た中で一番激しいもので、この男もこういう表情ができるのかと場違いにも思ってしまった。

「この男はなんだ?」

「おや、ご存じないのですか。あなたの奥方の友人であるフランツですよ」

 フランツはアルベルトの鋭い物言いもどこ吹く風と涼やかな表情をして答えた。

 だがそれが余計に癪に障ったようで、アルベルトはますます表情を険しくさせた。

「そんなことはどうでもいい。私が聞きたいのは、なぜ夫の留守の間にのこのこと屋敷に来ているのか、ということだ」

「クラウディアが、ぜひ遊びに来てくれと頼むものですから、僕も断れなかったのですよ」

 アルベルトはさっと私の方に、その剣呑な目を向けた。私は誤解だと思った。確かにフランツを遊びには誘ったが、暇だったらと付け加えたし、無理強いするほど頼んだつもりもない。

 フランツもなぜそんな誤解を生むような発言をするのか。ニヤニヤと笑みを浮かべている友人が、今は小憎たらしくて仕方がなかった。

 とりあえずアルベルトの誤解を解かねばならないと思ったが、彼の様子が思った以上に怒っているようで、日頃動じない私も思わずぎくりと身を強張らせてしまった。

「クラウディア、あなたに話したいことがある」
「だったら僕はもうお暇しよう」
「いや、きみは私の妻が招いた大切な客人だ。ここで待っていてくれたまえ」

 「私の妻」というところをひどく強調して彼は言うと、私の腕をさっと掴み、部屋を出ていこうとした。

 助力を願う私の視線にも、友人はどこか楽しそうに手を振って見送ったのだった。

 アルベルトは私を書斎へと招き入れると、誰も入ってこないよう内側から鍵をかけた。

 そこまでしなくても、と思ったが、振り返った彼に壁まで押しやられ、私は異議を唱えることができなくなってしまった。

「どうして私を、リーゼロッテのもとへ行かせたんだ」

「どうしてって……あなたは彼女のことを気も狂わんばかりに愛していたでしょう?」

「だから彼女のもとへ? あなたという妻がいるのに?」

 信じられないとアルベルトは目を見開き、私を糾弾するように睨みつけた。

 私は彼が泣いて喜ぶものだとばかり思っていたので、なぜ彼がそのような態度で、ひどく傷ついた顔をするのか困惑した。

「アルベルトが私を友人として慕ってくれていたのはわかっていましたし、それに私は感謝しているつもりです。形式上の夫としてあなたは十分役目を果たしたと思います。だから、本当に愛する人と愛しあっても、罰は当たらないのではないかと、私は考えました」

 私の言葉にも、アルベルトはむっすりと口を閉ざしたままである。私はまだ彼の機嫌がなおらないことに焦り、さらなる説明を加えた。

「それに、リーゼロッテ様や彼女のお兄様からも、頼まれましたの。報われない恋に彼女は気が塞いでいて、今にも倒れそうだ。一度でいいから、あなたにあわせてやってほしいと」

 ちょうど彼女の夫が所用で一週間留守にするそうなので、これが最後のチャンスだと懇願するように頼まれ、私もアルベルトのどんよりした顔を思い出し、まあいいかと引き受けたのである。

「まあいいか!? まあいいかで、あなたは夫を他の女に軽々と譲り渡したのか? 彼女と出会って、私がどうにかなるのではないかと不安に思わなかったのか!?」

「別に、私は構いませんわ」

「なっ……」

 今度こそアルベルトは声を失ったように絶句した。

 そして彼がリーゼロッテ嬢と離れ離れにならなければならないと知らされた時と同じくらい、とても悲愴な顔をして私を見つめた。

 その表情があまりにも痛々しく、私は思わず目を逸らしてしまった。

「それよりも、アルベルト。リーゼロッテ様とはお会いしたのですか?」

「……ああ。きちんと会った」

 そのそっけなさに私は違和感を覚えた。

「本当にお会いしたのですか? お話なさったのですか?」
「……ああ」

 そんなことはどうでもいいとばかりの淡白な返事にますます不安になった。

「本当ですか?」

 しつこく尋ねる私に、アルベルトは観念したようにうなずいた。

「ああ、本当だ。これからはそれぞれお互いの道を歩いていかなければならないと、きちんと彼女に別れを告げてきた」

「お別れって……もう彼女のことは諦めるつもりですか?」

 あんなに恋い焦がれていたのに? 彼女のためならば何をしてもいいとおっしゃるくらい必死だったのに?

 私は目の前の彼が本当にあのアルベルトなのだろうかと不安になり、確かめるように頬をぺたぺたと触った。彼は非常に不愉快だと顔をしかめたので、私は本物だと認めた。

 だが、それにしても、本当に信じられない。

「……私に遠慮なさっているのならば、気にしないで下さい」

「遠慮なんかしていない」

「今からでも、遅くはありませんわ。戻って、リーゼロッテ様と思う存分愛を育んで下さい。私はここで……」

「いい加減にしてくれ! 私はリーゼロッテの所へは戻らないし、あなた以外と愛を育むつもりはない!」

 私は彼の大声にではなく、その内容に耳を疑った。

「アルベルト……あなた、自分を犠牲にしてまで、私を愛そうとしなくていいのよ? あなたが役目を全うしようとする姿はたいへん立派だけど、見ていてとても痛々しいわ」

 アルベルトはなぜかがっくりと肩を落とした。

 なぜそのように疲れた表情をしているのだろうか。捨てられた子犬のような目で、私を見上げるのだろうか。

「クラウディアは、私を愛してはいないのか?」
「いいえ、愛していますよ」
「嘘だ!」

 彼は子どもの癇癪のように、大声で怒鳴り、私を睨んだ。彼を落ち着かすように、私は優しく言った。

「私は嘘をつくのが嫌いです。特に信用した相手には。だからこれは私の正直な気持ちですわ。クラウディアはアルベルトを好いております」

「異性として? 恋人として? 夫として?」

 畳みかけるような質問に、思わず苦笑いする。

「はい。すべてですよ」

 アルベルトはまだどこか疑わしい目つきで私の目を調べていたが、やがてそれが嘘でないようだとわかると、今度は疲れた声で尋ねた。

「わからない。なら、どうしてクラウディアは、私をリーゼロッテのもとへ行かせたりしたんだ? 愛する者が、別の者と愛するなんて、そんなの、私だったら気が狂いそうになる」 

「そこが私とあなたとの違いですよ。私はたとえ愛する者が他の誰かを愛しても、そこまで気が狂いはしません」

 ただほんの少し傷つき、休息を要するだけである。そしてその後どうすることが最善かを考え、対策を講じることが、私にはよほど効果的なのである。

 それに、と私は微笑む。

「あなたの今までの真っ直ぐな想いが、ほんのひと時でも報われて欲しいと思いましたの」

 私にとってアルベルトは、今まで築いてきた私の価値観を大きく揺さぶる存在だった。こんなにも激しく人を愛する人がいて、その愛をどこか最後まで見届けたいような気持ちになった。

「あなたは……変わっている」

「私もそう思います。でも、これが私の性分なのです。うじうじといつまでも悩むよりも、割り切って一つの答えを出す方が合っているのです」

 アルベルトは私の考えをじっと聞くと、まだ私を腕の中に閉じ込めたまま、先ほどよりもうんと苦しそうな、そしてどきりとするほど熱のこもった目で私を見つめた。

「私は、悩んでほしい。愛する人に、私のことで四六時中頭を悩ませ、苦しんで、助けを請うて欲しい」

 私は、そこでようやく、なぜ彼がリーゼロッテ嬢との密会を蹴って、屋敷へと引き返してきたのか、今、狂おしいまでに彼が私を見ているのか、謎が解けたのである。

「アルベルト、あなたは私を愛しているんですね?」

「……ああ、愛しているんだ!」

 半ばやけくそになったように叫ぶと、彼は私をきつく抱きしめた。驚いて引き離そうとすると、ますますきつく抱きしめ、私を窒息させようとする。

 彼の情熱に飲み込まれそうになりながらも、私は必死に距離をとり、物事をはっきりさせようとした。

「いつから私のことを好いていましたの?」
「もうずっと前からだ!」

 そのずっと前、というのを詳しく聞きたくて、私はさらに尋ねた。

「でも、私がリーゼロッテ様のことはもういいのですか、と聞いた時はまだ好きだったのでしょう?」

 今までの燃え上がらんばかりの勢いが急速にしぼんでいくかのように、彼は暗い表情をした。

「……私は、これまでのいきさつを踏まえると、あなたに対して申し訳なかった。今まで散々リーゼロッテと比較したり、彼女を未練がましく思う姿を見せたり……それなのに、今さらあなたを好きになってしまったなど、どうして言える」

「私は別にそんなこと気にしませんわ」

 むしろさっさと言いだしてくれなかったからこそ、ここまでこじれてしまったと思うのだが。

「きみとの関係が壊れてしまうのも、怖かった。きみは、私を友人としては受け入れていても、恋人としては求めていないと思ったから。拒絶されたらと思ったら、今のままでいいと逃げてしまったんだ」

 私はつくづく面倒な人だなと思った。

 子どもみたいにいじけるかと思うと、まるで恋する乙女のようにうじうじと考えるし、ずっと目が離せない、どうしようもない人だ。

 それでも、と私は彼の頬に手を添えて顔を上げさせた。

「結婚しているんですから、拒絶なんてするわけないでしょう?」
「結婚しているから、か。それが嫌だったのかもしれない」

 彼は私の手をそっと取ると、掌にそっと自分の唇を押し付けた。

「私はあなたを愛している」

 柄にもなく、私はその言葉で自分の心がどうしようもなく震えたのを感じ取った。彼は私から目を逸らさず、じっと見つめたまま愛の言葉を語りかける。

「流されるようにして結婚したが、あなたの優しさや、たくましさ、明るさに触れて、どん底だった私は再び生きる気力がわいてきた。たまに見せる無邪気な笑顔や、不器用な手つきも、今の私にはすべて好ましく思える」

 どうしてそんな恥ずかしい言葉を照れることなくスラスラ言えるのだろう。

 そしてどうして私もそれを悪くないと思ってしまうのだろう。

「気づいた時には、あなたを好きになっていたんだ。でも、こんなにもあなたを欲したのは、リーゼロッテの口から、あなたが勧めたと言われた時さ。夫婦だと思っていたのは、好きだと思っていたのは私だけだったのかと。あの時、とんでもなく腹が立って、あなたに問い詰めてやりたいと思ったんだ。そして急いで帰ってみると、あなたとあの間男が楽しそうに話しているじゃないか。あなたがリーゼロッテを僕に宛がう代わりに、あなたはあの間男とよろしくやる。そのためにリーゼロッテに頼んだと思ったら、あの男を殺して、あなたを監禁してやろうかと思ったくらいだ」

 突然出てきた物騒なワードに、私はぎょっとした。穏やかな人だと思っていたが、なかなか過激な人らしい。

「それは誤解です。私とフランツはただの友人です。そして、リーゼロッテ様と彼女のお兄様から先に私に頼んだんですわ」

「そう。それは、さっき聞いた。でも、私はあなたに断って欲しかった。嫉妬の炎を燃やして、私を引き留めて欲しかった」

「これからは、そうしますわ」

「本当に? クラウディア? あなたは、私一人だけの妻になると誓ってくれるかい? 私にあなたを愛することを許してくれるかい?」

 この人はいちいち表現が大げさだなと思いながらも、私はしっかりと約束した。

「つまり私とあなたは両想いということですね。これで本当の夫婦となれたわけです」

 リーゼロッテ嬢のことをまだ愛しているのかと思っていたが、今は私を愛しているというならば、もうこんな面倒な頼みを引き受ける理由はない。

 一時はどうなったことかと思ったが、やれやれ、どうにか丸く収まってくれて安心した。

「さっ、アルベルト。フランツが心配していると思うので、戻りましょう」

 けろりとした顔で述べた私を、夫はどこか小憎たらしい表情で見つめていた。腕をどかさない彼に、私は聞こえていなかったのかともう一度繰り返す。

「アルベルト、もう和解は済んだのですから、客間に戻りましょう。フランツが待っています」

「いいや、それはだめだ」

 私がまだ怒っているのかと彼の方を見ると、アルベルトは爽やかな笑みで私に迫っていた。

 慌てて逃げ出そうとするも、彼は素早く私を捕まえ、抱きしめた。そして耳元で、溶けそうなほど甘い声で、私にささやいたのだった。

「本当の夫婦となったんだから、思う存分愛し合おう」

 あっけにとられている私を軽々と抱きかかえ、アルベルトは寝室へと向かい、私はその日たっぷりと彼に可愛がられたのだった。



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