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10、怪我
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オズワルドは犬を飼いたいと頼んできたマティルダに何も言わなかった。ただ以前シェイラの散歩を断った理由はきちんと覚えていたようだ。
「犬は嫌いではなかったのですか」
と哺乳瓶でミルクをあげているマティルダに尋ねてきたから。彼女は必死に飲んでいる子犬から目を離さず、嫌いではありませんと答えた。
「この子は小さくて、わたしにちっとも吠えませんもの」
「……まだ子犬だからでしょう」
「いいえ。きっと大きくなっても、吠えませんわ」
確信めいた口調で断言すると、マティルダは振り返ってオズワルドに微笑んだ。彼は何も言わなかった。
マティルダは犬の名前をポーリーと名付け、可愛がった。ポーリーはすくすくと育っていき、マティルダの後をちょこちょこと懸命について回ってきた。
つぶらな瞳で自分を見るポーリーにマティルダはすっかり骨抜きにされてしまい、あれこれと世話を焼いてやり、この子のために散歩にも連れて行ってやろうと嫌がっていた外出をするようになった。
ただ大型犬を連れたシェイラと鉢合わせするのはまだ子犬であるポーリーには良くないだろうと、彼女たちが屋敷を留守にした後で外へ出た。
(屋敷の外まで行かなくても、庭先で十分かも)
ポーリーは最初マティルダの足元から離れようとしなかったが、彼女がしゃがんで大丈夫だと背中を撫でたりしているうちに慣れてきたのか、芝生の上をぐるぐる駆け回り始めた。ボールを投げてやると嬉しそうに追いかけ、また投げてというように持ってくる。
しばらくそうして遊んでやり、そろそろ戻ろうかと思って腰を上げると、彼女は驚いた。散歩から帰ってきたシェイラがこちらを見ていたのだ。
マティルダは何も言わず、ただ頭を下げて戻ろうとした。だがシェイラが「待って!」と呼びとめる。
「あ、あの、私、きゃっ」
ポーリーをずっと見ていた犬たちが我慢できなかった様子で、シェイラの手からリードを放させた。
「ポーリー……!」
シェイラたちが飼っている犬は大型犬だ。狩猟犬でもあった。
ただじゃれあうつもりでも、体格差で怪我させてしまうかもしれない。ポーリーも自分より図体の大きい犬が一直線に向かってくるのに恐怖を抱いたのか、マティルダの方へ逃げてくる。しかし背中を向けて逃げられたことで狩猟本能が刺激されたのか、さらに加速して犬たちは追いかけてくる。
『主人へ向ける私の敵意にとうとう気づいたのか、ある日犬たちは私に襲いかかってきた』
マティルダは気づいたら走り出していて、あと少しで捕まえようとした犬たちに体当たりするかたちでポーリーを腕の中に抱き込んだ。
これで大丈夫かと思えば、犬たちはぶつかられたことと、獲物を横取りされたことでマティルダを敵だと認定したのか、――あるいは単にじゃれ合うつもりだけだったかもしれないが、マティルダに威嚇するように唸り、吠えて背中に飛びかかってきた。
「マティルダ!」
必死に抵抗する途中で彼女は腕に鋭い痛みを感じた。犬たちに噛まれたのだ。その手をどかして子犬を寄越せと。
「っ……」
マティルダは絶対に渡したくないと地面に蹲ってポーリーを守り抜く。
「やめなさいっ! 誰かっ……!」
シェイラが何とか犬たちを止めようとしても、華奢な彼女の力ではとても止めることができない。必死で助けを呼び、庭師がようやく気づいて慌てて助けに入った。
――それからは、いろいろあったがよく覚えていない。
ただ左腕に白い包帯が巻かれているのを見て、ポーリーが心配した様子で頬を舐めてくると、涙が零れてきた。
『利き腕じゃなかったことに安堵するべきか』
身体の痛みよりも、誰かに――動物であっても、牙を剥かれたことは、心に深い傷を負わせた。
「ごめんなさい。ずっと会えない間、あなたのことが心配で気になって……。犬を飼い始めたと聞いたから、それでお話できないかと思って……あなたと、仲良くなりたかったの。でもこんなことになってしまって……本当にごめんなさい」
見舞いにきたシェイラは泣きそうな顔で――実際目を潤ませながらそうマティルダに謝罪した。シェイラの表情や態度に、まるで自分の方が悪いことをしてしまったような気にさせられて、すごいなと思った。
「わたしは気にしていません」
「でも……」
「でも、この子にはもう二度とあの犬たちを近づけさせないでください」
ポーリーはマティルダを守るために、小さな身体を震わせながらシェイラを威嚇していた。
「マティルダ。私は……」
「この子をもう、傷つけないでください」
それだけは譲れないときっぱり告げれば、諦めたように彼女は帰って行った。寝台に仰向けになって、怪我した方の腕を持ち上げる。
『腕の痛みよりも、妻がオズワルドと一緒になって謝る姿の方が辛かった』
白い包帯に唇を押し当てた。痛みを少しでも慰めるように。
「犬は嫌いではなかったのですか」
と哺乳瓶でミルクをあげているマティルダに尋ねてきたから。彼女は必死に飲んでいる子犬から目を離さず、嫌いではありませんと答えた。
「この子は小さくて、わたしにちっとも吠えませんもの」
「……まだ子犬だからでしょう」
「いいえ。きっと大きくなっても、吠えませんわ」
確信めいた口調で断言すると、マティルダは振り返ってオズワルドに微笑んだ。彼は何も言わなかった。
マティルダは犬の名前をポーリーと名付け、可愛がった。ポーリーはすくすくと育っていき、マティルダの後をちょこちょこと懸命について回ってきた。
つぶらな瞳で自分を見るポーリーにマティルダはすっかり骨抜きにされてしまい、あれこれと世話を焼いてやり、この子のために散歩にも連れて行ってやろうと嫌がっていた外出をするようになった。
ただ大型犬を連れたシェイラと鉢合わせするのはまだ子犬であるポーリーには良くないだろうと、彼女たちが屋敷を留守にした後で外へ出た。
(屋敷の外まで行かなくても、庭先で十分かも)
ポーリーは最初マティルダの足元から離れようとしなかったが、彼女がしゃがんで大丈夫だと背中を撫でたりしているうちに慣れてきたのか、芝生の上をぐるぐる駆け回り始めた。ボールを投げてやると嬉しそうに追いかけ、また投げてというように持ってくる。
しばらくそうして遊んでやり、そろそろ戻ろうかと思って腰を上げると、彼女は驚いた。散歩から帰ってきたシェイラがこちらを見ていたのだ。
マティルダは何も言わず、ただ頭を下げて戻ろうとした。だがシェイラが「待って!」と呼びとめる。
「あ、あの、私、きゃっ」
ポーリーをずっと見ていた犬たちが我慢できなかった様子で、シェイラの手からリードを放させた。
「ポーリー……!」
シェイラたちが飼っている犬は大型犬だ。狩猟犬でもあった。
ただじゃれあうつもりでも、体格差で怪我させてしまうかもしれない。ポーリーも自分より図体の大きい犬が一直線に向かってくるのに恐怖を抱いたのか、マティルダの方へ逃げてくる。しかし背中を向けて逃げられたことで狩猟本能が刺激されたのか、さらに加速して犬たちは追いかけてくる。
『主人へ向ける私の敵意にとうとう気づいたのか、ある日犬たちは私に襲いかかってきた』
マティルダは気づいたら走り出していて、あと少しで捕まえようとした犬たちに体当たりするかたちでポーリーを腕の中に抱き込んだ。
これで大丈夫かと思えば、犬たちはぶつかられたことと、獲物を横取りされたことでマティルダを敵だと認定したのか、――あるいは単にじゃれ合うつもりだけだったかもしれないが、マティルダに威嚇するように唸り、吠えて背中に飛びかかってきた。
「マティルダ!」
必死に抵抗する途中で彼女は腕に鋭い痛みを感じた。犬たちに噛まれたのだ。その手をどかして子犬を寄越せと。
「っ……」
マティルダは絶対に渡したくないと地面に蹲ってポーリーを守り抜く。
「やめなさいっ! 誰かっ……!」
シェイラが何とか犬たちを止めようとしても、華奢な彼女の力ではとても止めることができない。必死で助けを呼び、庭師がようやく気づいて慌てて助けに入った。
――それからは、いろいろあったがよく覚えていない。
ただ左腕に白い包帯が巻かれているのを見て、ポーリーが心配した様子で頬を舐めてくると、涙が零れてきた。
『利き腕じゃなかったことに安堵するべきか』
身体の痛みよりも、誰かに――動物であっても、牙を剥かれたことは、心に深い傷を負わせた。
「ごめんなさい。ずっと会えない間、あなたのことが心配で気になって……。犬を飼い始めたと聞いたから、それでお話できないかと思って……あなたと、仲良くなりたかったの。でもこんなことになってしまって……本当にごめんなさい」
見舞いにきたシェイラは泣きそうな顔で――実際目を潤ませながらそうマティルダに謝罪した。シェイラの表情や態度に、まるで自分の方が悪いことをしてしまったような気にさせられて、すごいなと思った。
「わたしは気にしていません」
「でも……」
「でも、この子にはもう二度とあの犬たちを近づけさせないでください」
ポーリーはマティルダを守るために、小さな身体を震わせながらシェイラを威嚇していた。
「マティルダ。私は……」
「この子をもう、傷つけないでください」
それだけは譲れないときっぱり告げれば、諦めたように彼女は帰って行った。寝台に仰向けになって、怪我した方の腕を持ち上げる。
『腕の痛みよりも、妻がオズワルドと一緒になって謝る姿の方が辛かった』
白い包帯に唇を押し当てた。痛みを少しでも慰めるように。
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