75 / 116
75、初恋の人
しおりを挟む
イレーネは取っ手を回して、前へと押していた。扉が開き、一歩前へと進み出る。自然と放された腕から逃げ出して、扉の外でユリウスと向き直った。
「いいえ。それはできません」
「……死んだ夫には許せても、俺には許せないのか」
「夫だから、許したのです」
ハインツを愛しているから。彼と一緒に生きようと決めたから。前へ進むために、逃げる道を選んだのだ。
「ユリウス様はきっと逃げても、逃げられない。今よりも、ずっと苦しくなるだけですわ」
そんなことはないと言いたげであったが、何も言わないということは、彼だって本当はわかっているはずだ。イレーネは途方に暮れたように佇むユリウスの手を取り、両手で包み込んだ。
「あなたは、真面目で優しい人だから……だから戦場に残された爪痕を放って帰ってくることができなかった。孤児であるマリウスを育てた。姫様とマリウスの恋を反対することはできなかった」
初めてイレーネに声をかけてくれた時も、そうだ。
「これからも、あなたはそうあり続ける。優しい人は、ずっとそのままです。そうして生きていくのが定めなんです」
「励まされているようで、呪われているような言葉だな」
ユリウスはそう言いつつ、どこか諦めたような、それでも吹っ切れた表情で笑みを浮かべた。そうして、イレーネに導かれるようにして部屋の外へと出た。
「正直、断られるだろうとは思っていた」
「まぁ」
「だから、せめて一夜だけでも、きみと愛し合いたかった」
あの時は神に仕える戦士だったから……だから今度こそ、想いを遂げたかった。
「わたしは人妻ですわ」
「そうだな……だがきみは、あの男のことを愛しているのか?」
イレーネは微笑んで答えなかった。だがそれで何かを悟った様子で、ため息をついた。
「……きみも、俺と同じ逃げられない定めにいるんだろうな」
「そうかもしれません」
「本当に、大丈夫なのか」
心配させぬよう、イレーネはしっかりと頷いた。ユリウスはまだ何か言いたげな表情をしたが、これ以上踏み込んではいけないと思ったのだろう。グッと堪えた顔をして、わかったと言った。
「何かあったら、言ってくれ。力になろう」
「はい。ありがとうございます」
ユリウスは名残惜しそうにイレーネを見つめていたが、顔を近づけて掠めるような口づけをした。あの日恋い焦がれるように見つめ合った緑の瞳が、寂しさと優しさを込めて今のイレーネに告げる。
「さようなら、イレーネ。きみの幸せを、ずっと願っているよ」
そう言ってユリウスは歩き出した。いつかと違い、今度はイレーネが立ち止まって彼を見送る側だった。ユリウスはイレーネと同じように途中で振り返った。月明かりに照らされた彼の姿にイレーネは手を挙げた。ユリウスは困ったように微笑みながら、振り返した。
今度こそ、本当のお別れだった。
(さようなら、ユリウス様)
初恋だった人の後ろ姿を、闇夜に消えていくまで、イレーネは見守っていた。
「いいえ。それはできません」
「……死んだ夫には許せても、俺には許せないのか」
「夫だから、許したのです」
ハインツを愛しているから。彼と一緒に生きようと決めたから。前へ進むために、逃げる道を選んだのだ。
「ユリウス様はきっと逃げても、逃げられない。今よりも、ずっと苦しくなるだけですわ」
そんなことはないと言いたげであったが、何も言わないということは、彼だって本当はわかっているはずだ。イレーネは途方に暮れたように佇むユリウスの手を取り、両手で包み込んだ。
「あなたは、真面目で優しい人だから……だから戦場に残された爪痕を放って帰ってくることができなかった。孤児であるマリウスを育てた。姫様とマリウスの恋を反対することはできなかった」
初めてイレーネに声をかけてくれた時も、そうだ。
「これからも、あなたはそうあり続ける。優しい人は、ずっとそのままです。そうして生きていくのが定めなんです」
「励まされているようで、呪われているような言葉だな」
ユリウスはそう言いつつ、どこか諦めたような、それでも吹っ切れた表情で笑みを浮かべた。そうして、イレーネに導かれるようにして部屋の外へと出た。
「正直、断られるだろうとは思っていた」
「まぁ」
「だから、せめて一夜だけでも、きみと愛し合いたかった」
あの時は神に仕える戦士だったから……だから今度こそ、想いを遂げたかった。
「わたしは人妻ですわ」
「そうだな……だがきみは、あの男のことを愛しているのか?」
イレーネは微笑んで答えなかった。だがそれで何かを悟った様子で、ため息をついた。
「……きみも、俺と同じ逃げられない定めにいるんだろうな」
「そうかもしれません」
「本当に、大丈夫なのか」
心配させぬよう、イレーネはしっかりと頷いた。ユリウスはまだ何か言いたげな表情をしたが、これ以上踏み込んではいけないと思ったのだろう。グッと堪えた顔をして、わかったと言った。
「何かあったら、言ってくれ。力になろう」
「はい。ありがとうございます」
ユリウスは名残惜しそうにイレーネを見つめていたが、顔を近づけて掠めるような口づけをした。あの日恋い焦がれるように見つめ合った緑の瞳が、寂しさと優しさを込めて今のイレーネに告げる。
「さようなら、イレーネ。きみの幸せを、ずっと願っているよ」
そう言ってユリウスは歩き出した。いつかと違い、今度はイレーネが立ち止まって彼を見送る側だった。ユリウスはイレーネと同じように途中で振り返った。月明かりに照らされた彼の姿にイレーネは手を挙げた。ユリウスは困ったように微笑みながら、振り返した。
今度こそ、本当のお別れだった。
(さようなら、ユリウス様)
初恋だった人の後ろ姿を、闇夜に消えていくまで、イレーネは見守っていた。
212
お気に入りに追加
4,835
あなたにおすすめの小説
進学できないので就職口として機械娘戦闘員になりましたが、適正は最高だそうです。
ジャン・幸田
SF
銀河系の星間国家連合の保護下に入った地球社会の時代。高校卒業を控えた青砥朱音は就職指導室に貼られていたポスターが目に入った。
それは、地球人の身体と機械服を融合させた戦闘員の募集だった。そんなの優秀な者しか選ばれないとの進路指導官の声を無視し応募したところ、トントン拍子に話が進み・・・
思い付きで人生を変えてしまった一人の少女の物語である!
私が死んで満足ですか?
マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。
ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。
全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。
書籍化にともない本編を引き下げいたしました
【完結】愛する人にはいつだって捨てられる運命だから
SKYTRICK
BL
凶悪自由人豪商攻め×苦労人猫化貧乏受け
※一言でも感想嬉しいです!
孤児のミカはヒルトマン男爵家のローレンツ子息に拾われ彼の使用人として十年を過ごしていた。ローレンツの愛を受け止め、秘密の恋人関係を結んだミカだが、十八歳の誕生日に彼に告げられる。
——「ルイーザと腹の子をお前は殺そうとしたのか?」
ローレンツの新しい恋人であるルイーザは妊娠していた上に、彼女を毒殺しようとした罪まで着せられてしまうミカ。愛した男に裏切られ、屋敷からも追い出されてしまうミカだが、行く当てはない。
ただの人間ではなく、弱ったら黒猫に変化する体質のミカは雪の吹き荒れる冬を駆けていく。狩猟区に迷い込んだ黒猫のミカに、突然矢が放たれる。
——あぁ、ここで死ぬんだ……。
——『黒猫、死ぬのか?』
安堵にも似た諦念に包まれながら意識を失いかけるミカを抱いたのは、凶悪と名高い豪商のライハルトだった。
☆3/10J庭で同人誌にしました。通販しています。
【短編集】恋愛のもつれで物に変えられた男女の運命は!?
ジャン・幸田
恋愛
短編のうち、なんらかの事情で人形などに変化させられてしまう目に遭遇した者たちの運命とは!?
作品の中にはハッピーエンドになる場合とバットエンドになる場合があります。
人を人形にしたりするなど状態変化する作品に嫌悪感を持つ人は閲覧を回避してください。
異世界転生令嬢、出奔する
猫野美羽
ファンタジー
※書籍化しました(2巻発売中です)
アリア・エランダル辺境伯令嬢(十才)は家族に疎まれ、使用人以下の暮らしに追いやられていた。
高熱を出して粗末な部屋で寝込んでいた時、唐突に思い出す。
自分が異世界に転生した、元日本人OLであったことを。
魂の管理人から授かったスキルを使い、思い入れも全くない、むしろ憎しみしか覚えない実家を出奔することを固く心に誓った。
この最強の『無限収納EX』スキルを使って、元々は私のものだった財産を根こそぎ奪ってやる!
外見だけは可憐な少女は逞しく異世界をサバイバルする。
わたしは不要だと、仰いましたね
ごろごろみかん。
恋愛
十七年、全てを擲って国民のため、国のために尽くしてきた。何ができるか、何が出来ないか。出来ないものを実現させるためにはどうすればいいのか。
試行錯誤しながらも政治に生きた彼女に突きつけられたのは「王太子妃に相応しくない」という婚約破棄の宣言だった。わたしに足りないものは何だったのだろう?
国のために全てを差し出した彼女に残されたものは何も無い。それなら、生きている意味も──
生きるよすがを失った彼女に声をかけたのは、悪名高い公爵子息。
「きみ、このままでいいの?このまま捨てられて終わりなんて、悔しくない?」
もちろん悔しい。
だけどそれ以上に、裏切られたショックの方が大きい。愛がなくても、信頼はあると思っていた。
「きみに足りないものを教えてあげようか」
男は笑った。
☆
国を変えたい、という気持ちは変わらない。
王太子妃の椅子が使えないのであれば、実力行使するしか──ありませんよね。
*以前掲載していたもののリメイク
逢瀬はシャワールームで
イセヤ レキ
BL
高飛び込み選手の湊(みなと)がシャワーを浴びていると、見たことのない男(駿琉・かける)がその個室に押し入ってくる。
シャワールームでエロい事をされ、主人公がその男にあっさり快楽堕ちさせられるお話。
高校生のBLです。
イケメン競泳選手×女顔高飛込選手(ノンケ)
攻めによるフェラ描写あり、注意。
【短編集】人間がロボットになるのも悪くないかも?
ジャン・幸田
大衆娯楽
人間を改造すればサイボーグになる作品とは違い、人間が機械服を着たり機械の中に閉じ込められることで、人間扱いされなくなる物語の作品集です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる