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56、両親との再会
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「おお、イレーネ……!」
メルツ家の屋敷は記憶よりもずいぶんとくたびれていた。何より屋敷の主人が生きながら死んでいるような顔をしていたのだ。イレーネは最初、自分の父親だとわからなかった。それくらい、父は年老いて、精神的にも深い疲労を重ねているのが外見に出ていた。
「イレーネ……どうか、儂を許してくれ……愚かな儂を……まだ十八だったおまえの気持ちも考えずに追いつめてしまった儂を……」
「お父様……」
目の前で膝をついて、落ち窪んだ目から次々と涙を零す父の姿にイレーネは何と声をかければいいかわからなかった。
「おじいさま、すごい泣いてる……」
ぽつりと呟いたエミールの言葉に、父が顔を上げ、まじまじと凝視してくる。
「そ、その子は……?」
「……わたしの息子です。ハインツ・ブレットとの間にできた……あなたの孫です」
おお……と父はまた言葉にならない感情を声に出し、ふらふらと立ち上がるとゆっくりと近づいてくる。その姿があまりにも必死で、イレーネは息子を自分の背中に隠してしまいたくなったが、エミールの方は恐れもせず好奇心渦巻く瞳で自分の祖父を眺めた。
「おまえの、息子……儂の、孫……」
「こんにちは、おじいさま。ぼく、エミールって言います」
「そう、か……エミール……うん、お母さんに、よく似ている……目元なんか、そっくりだ……」
そこまで言うと、父は顔をくしゃくしゃにしてまた涙を流し、がっくりと地面に座り込んだ。そして頭を下げ、喉を震わせながら、「すまなかった」と心から詫びたのだった。
父があれほど懺悔したのは母が死にかけ、ふと自分に残された物が腐る程ある財産の他には何もないことに気づかされたからであった。つまり家族や友人などの親しい者たちに看取られることもなく、独り寂しく死んでいく恐怖に耐えられなくなったのだ。
父のそうした感情はイレーネには意外でもあった。父ならば最期まで太々しく、金と権力にしがみついて生き抜くと思っていたから……。
老いが父をそうしたのだろうか。いや、やはり弱っていく母の姿に何か感じるものがあったのかもしれない。
「まぁ、イレーネ……」
イレーネは母のいる部屋へと案内され、あっさりと再会を果たした。自分とよく似た顔立ちで、髪色は白く染まっているが、もとはたぶん金色だったのだと思われる。青い瞳に涙をいっぱいためて、彼女は自分を見ている。
「お母様……」
昔、母にはもう会えないと言われて、イレーネは泣きじゃくった。それから十年以上経って、今ようやく会うことが叶った。
だがもう二度と会えないだろうと思っていただけに、また記憶の母とはすでに違った、老いた姿だったので、この人が自分の母親なのかと呆然として、現実を受け止めきれずにいた。
しかし母の困ったような、記憶で見たことのあるような泣き顔に、吸い寄せられるように近づいて、膝を折り、皺のある、弱々しくも温かな手を握り、もう一度自分の名前を呼ばれると、不意に目から涙がぽろりと零れ、堰を切ったように溢れ出して、耐え切れず母の手の甲に額を押し付けた。そして子どものように声を上げて泣き始めた。
母は何度もごめんね、と言った。父と同じ言葉を繰り返して、締め出された少女をようやく部屋の中へ招き入れてくれたのだった。
イレーネはエミールも母に紹介して、母は父と同じようにイレーネにそっくりだと微笑んだ。ただ父と違うのは、イレーネとは似ていないところを挙げ――きっと父親に似ているのだろうと言ってくれた点だった。それがイレーネにはとても嬉しかった。
そして母に過去のこと――駆け落ちした時のことを尋ねてみたい気もしたが、母の容態を悪化させたら悪いので、結局やめた。
両親はイレーネがハインツと家を出たことには、一切触れなかった。ただ帰ってきたことを喜び、エミールの存在を歓迎した。それで満足するべきなのかもしれない。
「イレーネ。また、迎えに来る」
ディートハルトは一度所要でグリゼルダに会う必要があるらしく、登城するそうだ。それが終わり次第、彼は以前話したとおり、イレーネを公爵家へ連れて行くことを告げた。
「なんだ。ずっとここにいればいいじゃないか」
父は娘と孫を連れてきたディートハルトに泣いて感謝したが、また別の場所へ連れて行くことには暗に反対した。
「少し我が家を紹介するだけです。一日したら、またお帰しします」
「そうか……? なら、いいんだが……」
不安がる父に、ディートハルトはにこやかな笑みを浮かべた。
「私は一番初めにあなたの所へイレーネとエミールを連れてきました。それはあなたたちに早く安心してほしかったのと、イレーネが望んだことだからです」
「それも、そうだな……おまえさんはやはり、儂の見込んだ通りの男だった」
最悪の事態を回避できた父は、もう以前のようにディートハルトを疑うことはせず、素直に彼の善意を信じた。過去のことを批判する気力も、弱くなった父にはもう残っていなかった。
「ではまた、イレーネ」
「……はい」
イレーネだけが、ディートハルトの逃げるなよ、という本心を見抜いていた。
メルツ家の屋敷は記憶よりもずいぶんとくたびれていた。何より屋敷の主人が生きながら死んでいるような顔をしていたのだ。イレーネは最初、自分の父親だとわからなかった。それくらい、父は年老いて、精神的にも深い疲労を重ねているのが外見に出ていた。
「イレーネ……どうか、儂を許してくれ……愚かな儂を……まだ十八だったおまえの気持ちも考えずに追いつめてしまった儂を……」
「お父様……」
目の前で膝をついて、落ち窪んだ目から次々と涙を零す父の姿にイレーネは何と声をかければいいかわからなかった。
「おじいさま、すごい泣いてる……」
ぽつりと呟いたエミールの言葉に、父が顔を上げ、まじまじと凝視してくる。
「そ、その子は……?」
「……わたしの息子です。ハインツ・ブレットとの間にできた……あなたの孫です」
おお……と父はまた言葉にならない感情を声に出し、ふらふらと立ち上がるとゆっくりと近づいてくる。その姿があまりにも必死で、イレーネは息子を自分の背中に隠してしまいたくなったが、エミールの方は恐れもせず好奇心渦巻く瞳で自分の祖父を眺めた。
「おまえの、息子……儂の、孫……」
「こんにちは、おじいさま。ぼく、エミールって言います」
「そう、か……エミール……うん、お母さんに、よく似ている……目元なんか、そっくりだ……」
そこまで言うと、父は顔をくしゃくしゃにしてまた涙を流し、がっくりと地面に座り込んだ。そして頭を下げ、喉を震わせながら、「すまなかった」と心から詫びたのだった。
父があれほど懺悔したのは母が死にかけ、ふと自分に残された物が腐る程ある財産の他には何もないことに気づかされたからであった。つまり家族や友人などの親しい者たちに看取られることもなく、独り寂しく死んでいく恐怖に耐えられなくなったのだ。
父のそうした感情はイレーネには意外でもあった。父ならば最期まで太々しく、金と権力にしがみついて生き抜くと思っていたから……。
老いが父をそうしたのだろうか。いや、やはり弱っていく母の姿に何か感じるものがあったのかもしれない。
「まぁ、イレーネ……」
イレーネは母のいる部屋へと案内され、あっさりと再会を果たした。自分とよく似た顔立ちで、髪色は白く染まっているが、もとはたぶん金色だったのだと思われる。青い瞳に涙をいっぱいためて、彼女は自分を見ている。
「お母様……」
昔、母にはもう会えないと言われて、イレーネは泣きじゃくった。それから十年以上経って、今ようやく会うことが叶った。
だがもう二度と会えないだろうと思っていただけに、また記憶の母とはすでに違った、老いた姿だったので、この人が自分の母親なのかと呆然として、現実を受け止めきれずにいた。
しかし母の困ったような、記憶で見たことのあるような泣き顔に、吸い寄せられるように近づいて、膝を折り、皺のある、弱々しくも温かな手を握り、もう一度自分の名前を呼ばれると、不意に目から涙がぽろりと零れ、堰を切ったように溢れ出して、耐え切れず母の手の甲に額を押し付けた。そして子どものように声を上げて泣き始めた。
母は何度もごめんね、と言った。父と同じ言葉を繰り返して、締め出された少女をようやく部屋の中へ招き入れてくれたのだった。
イレーネはエミールも母に紹介して、母は父と同じようにイレーネにそっくりだと微笑んだ。ただ父と違うのは、イレーネとは似ていないところを挙げ――きっと父親に似ているのだろうと言ってくれた点だった。それがイレーネにはとても嬉しかった。
そして母に過去のこと――駆け落ちした時のことを尋ねてみたい気もしたが、母の容態を悪化させたら悪いので、結局やめた。
両親はイレーネがハインツと家を出たことには、一切触れなかった。ただ帰ってきたことを喜び、エミールの存在を歓迎した。それで満足するべきなのかもしれない。
「イレーネ。また、迎えに来る」
ディートハルトは一度所要でグリゼルダに会う必要があるらしく、登城するそうだ。それが終わり次第、彼は以前話したとおり、イレーネを公爵家へ連れて行くことを告げた。
「なんだ。ずっとここにいればいいじゃないか」
父は娘と孫を連れてきたディートハルトに泣いて感謝したが、また別の場所へ連れて行くことには暗に反対した。
「少し我が家を紹介するだけです。一日したら、またお帰しします」
「そうか……? なら、いいんだが……」
不安がる父に、ディートハルトはにこやかな笑みを浮かべた。
「私は一番初めにあなたの所へイレーネとエミールを連れてきました。それはあなたたちに早く安心してほしかったのと、イレーネが望んだことだからです」
「それも、そうだな……おまえさんはやはり、儂の見込んだ通りの男だった」
最悪の事態を回避できた父は、もう以前のようにディートハルトを疑うことはせず、素直に彼の善意を信じた。過去のことを批判する気力も、弱くなった父にはもう残っていなかった。
「ではまた、イレーネ」
「……はい」
イレーネだけが、ディートハルトの逃げるなよ、という本心を見抜いていた。
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