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18、戦いの前
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白と黒の騎士団が城を発つまで、あと数日となった。城内は慌ただしく、あちこちに兵や役人が行き来する姿が見受けられる。
ディートハルトも騎士団内では上の役職に任されており、作戦の確認などで忙しく、あの風邪の一件以来、イレーネと顔を合わせることはなかった。おそらく出発当日まで彼は来ないだろう。
命を落とすかもしれない戦争に婚約者が行くというのに、イレーネは心のどこかで安堵する自分がいた。彼が城からいなくなれば、抱かれることも、他の女性と一緒にいる姿を見ることもないからだ。
こんなふうに思ってはいけないとわかっていながら、やはりイレーネはディートハルトの存在が恐ろしかった。彼がいない安寧を享受したかった。たとえそれがわずかな間の平和だとしても――
「イレーネ!」
大きな声で名前を呼ばれ、びくりと肩を震わせた。恐る恐る振り返り、ほっと胸をなで下ろす。
「ユリウス様」
白いマントをたなびかせ、小走りで駆け寄ってくるのはユリウスであった。彼はイレーネの顔を見ると嬉しそうに目を細め、だがすぐに心配そうな表情を浮かべた。
「風邪を引いたときいた。もう大丈夫なのか?」
「はい」
「そうか。それならよかった」
心からそう告げられ、イレーネは胸の内が温かくなった。
「あ、呼びとめてしまってすまない」
「いいえ。ユリウス様こそ、戦の準備でお忙しいのにわざわざ気にかけてくださってありがとうございます」
「そんなの、当たり前じゃないか」
わざわざ礼を述べる必要はないと彼はどこか怒ったように言った。
「でも、」
「でもじゃない。きみと俺はすでに知り合いだし、具合が悪くなったと聞けば、本当にもう大丈夫なのか、気になるに決まっている」
ユリウスの瞳が真剣な色を帯び、イレーネをじっと見つめた。
「きみがいない間、ずっと落ち着かなかった。きみのことばかり、考えていた」
「ユリウス様……」
イレーネの目を見ていた彼はふと我に返った様子で、目を伏せて、すまないと呟いた。
「こんなことを言われても、困るな」
忘れてくれ、と言われて彼は背を向けた。もう、次に会うこともない。数日後には、彼もディートハルトたちと共に城を発ってしまうから。もしかするともう二度と――
「ユリウス様」
だからイレーネは、待ってと自分から彼の大きな腕を掴んでいた。驚いたように振り返られ、緑の瞳を見つめる。
「わたしも、あなたが戦で戦っている間、きっと同じ気持ちになると思います」
彼は目を丸くして、呆けたようにイレーネをしばし見つめていたが、やがてくしゃりと微笑んだ。
「そうか。では、なるべく早く、無傷で帰ってくるとしよう」
「はい。――どうかご武運を」
「ああ」
二人はしばし見つめ合い、イレーネが手を離すと、ユリウスも穏やかな表情をして立ち去っていった。
なぜ彼を引き留め、あんなことを言ってしまったか、イレーネにはわからない。でも、ユリウスも同じだろう。
人は切羽詰まった状況に陥って――もう会えないかもしれないと思った時に初めて、生まれる感情があるのかもしれない。その感情が、以前からずっと抱いていた想いよりも刹那的で、とるに足らないものかどうかは、わからなかった。
そしてとうとう出発前日となった。結局イレーネはそれまでディートハルトに会わなかったし、今夜もおそらく来ないだろうと思った。これから長い戦いが始める。取り返しのつかない怪我を負い、致命傷を負った途中で命を落とすかもしれない。もう二度と、大切な人には会うことができなくなるかもしれない。
だから後悔のない夜にするはずだ。会う人は一人だけだろう。
(ディートハルト様……)
イレーネがそのことを確信したのは昼間、偶然――主であるグリゼルダから、借りていた本を図書室へ返してくるよう命じられ、東の離宮近くまで足を運んでいた時のことだ。
そこで、入り口付近で衛兵と何かを話すディートハルトの姿を見てしまった。彼は警護を任されている兵と何かやり取りをして、中から侍女と思われる女性――以前ディートハルトと親しそうにしていた婦人が出てきて、彼を中へと招き入れた。白亜の宮殿に住まう主は、国王の寵愛した娘、マルガレーテ。
――今夜、ディートハルトは想いを遂げるつもりなのだ。
(そして戦が終われば……)
イレーネは目を伏せて、主のもとへ帰って行った。グリゼルダはどうだったと聞いたが、イレーネは曖昧に微笑んだだけだった。そんな彼女を見て、グリゼルダはつまらなそうな顔をした。彼女はわざとイレーネにあの場面を見るよう仕向けた。そこから導き出される出来事を想像できるように。そしてイレーネが狼狽える様を見たかった。
だがイレーネには最初からすべてわかっていたことで、動揺も怒りもなかった。
ただその先のことを考えると、ひどく気が重かった。
ディートハルトも騎士団内では上の役職に任されており、作戦の確認などで忙しく、あの風邪の一件以来、イレーネと顔を合わせることはなかった。おそらく出発当日まで彼は来ないだろう。
命を落とすかもしれない戦争に婚約者が行くというのに、イレーネは心のどこかで安堵する自分がいた。彼が城からいなくなれば、抱かれることも、他の女性と一緒にいる姿を見ることもないからだ。
こんなふうに思ってはいけないとわかっていながら、やはりイレーネはディートハルトの存在が恐ろしかった。彼がいない安寧を享受したかった。たとえそれがわずかな間の平和だとしても――
「イレーネ!」
大きな声で名前を呼ばれ、びくりと肩を震わせた。恐る恐る振り返り、ほっと胸をなで下ろす。
「ユリウス様」
白いマントをたなびかせ、小走りで駆け寄ってくるのはユリウスであった。彼はイレーネの顔を見ると嬉しそうに目を細め、だがすぐに心配そうな表情を浮かべた。
「風邪を引いたときいた。もう大丈夫なのか?」
「はい」
「そうか。それならよかった」
心からそう告げられ、イレーネは胸の内が温かくなった。
「あ、呼びとめてしまってすまない」
「いいえ。ユリウス様こそ、戦の準備でお忙しいのにわざわざ気にかけてくださってありがとうございます」
「そんなの、当たり前じゃないか」
わざわざ礼を述べる必要はないと彼はどこか怒ったように言った。
「でも、」
「でもじゃない。きみと俺はすでに知り合いだし、具合が悪くなったと聞けば、本当にもう大丈夫なのか、気になるに決まっている」
ユリウスの瞳が真剣な色を帯び、イレーネをじっと見つめた。
「きみがいない間、ずっと落ち着かなかった。きみのことばかり、考えていた」
「ユリウス様……」
イレーネの目を見ていた彼はふと我に返った様子で、目を伏せて、すまないと呟いた。
「こんなことを言われても、困るな」
忘れてくれ、と言われて彼は背を向けた。もう、次に会うこともない。数日後には、彼もディートハルトたちと共に城を発ってしまうから。もしかするともう二度と――
「ユリウス様」
だからイレーネは、待ってと自分から彼の大きな腕を掴んでいた。驚いたように振り返られ、緑の瞳を見つめる。
「わたしも、あなたが戦で戦っている間、きっと同じ気持ちになると思います」
彼は目を丸くして、呆けたようにイレーネをしばし見つめていたが、やがてくしゃりと微笑んだ。
「そうか。では、なるべく早く、無傷で帰ってくるとしよう」
「はい。――どうかご武運を」
「ああ」
二人はしばし見つめ合い、イレーネが手を離すと、ユリウスも穏やかな表情をして立ち去っていった。
なぜ彼を引き留め、あんなことを言ってしまったか、イレーネにはわからない。でも、ユリウスも同じだろう。
人は切羽詰まった状況に陥って――もう会えないかもしれないと思った時に初めて、生まれる感情があるのかもしれない。その感情が、以前からずっと抱いていた想いよりも刹那的で、とるに足らないものかどうかは、わからなかった。
そしてとうとう出発前日となった。結局イレーネはそれまでディートハルトに会わなかったし、今夜もおそらく来ないだろうと思った。これから長い戦いが始める。取り返しのつかない怪我を負い、致命傷を負った途中で命を落とすかもしれない。もう二度と、大切な人には会うことができなくなるかもしれない。
だから後悔のない夜にするはずだ。会う人は一人だけだろう。
(ディートハルト様……)
イレーネがそのことを確信したのは昼間、偶然――主であるグリゼルダから、借りていた本を図書室へ返してくるよう命じられ、東の離宮近くまで足を運んでいた時のことだ。
そこで、入り口付近で衛兵と何かを話すディートハルトの姿を見てしまった。彼は警護を任されている兵と何かやり取りをして、中から侍女と思われる女性――以前ディートハルトと親しそうにしていた婦人が出てきて、彼を中へと招き入れた。白亜の宮殿に住まう主は、国王の寵愛した娘、マルガレーテ。
――今夜、ディートハルトは想いを遂げるつもりなのだ。
(そして戦が終われば……)
イレーネは目を伏せて、主のもとへ帰って行った。グリゼルダはどうだったと聞いたが、イレーネは曖昧に微笑んだだけだった。そんな彼女を見て、グリゼルダはつまらなそうな顔をした。彼女はわざとイレーネにあの場面を見るよう仕向けた。そこから導き出される出来事を想像できるように。そしてイレーネが狼狽える様を見たかった。
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