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聖女の願い
聖女
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いつも置物のように気配を消している侍女が、この時ばかりは動揺したように息を呑んでいた。彼女は数日前にわたしに仕えるようになったばかりで、前の侍女とは天と地程の優秀さを示してくれたが……さすがの彼女も、王族の突然の訪問には緊張するらしい。
「せ、聖女様」
いかがいたしましょうか、と縋るような目で助けを請う。わたしは気にしなくていいと伝え、椅子から動こうとはしなかった。
「し、しかし……」
「やぁ、失礼するよ」
まごまごしている間に一人の男が部屋へ入ってきた。癖のない金色の髪にエメラルドのような綺麗な緑の瞳をした青年。遠くから見ても美形だとわかる顔つきは、間近で見るとさらに迫力があり、目を奪われてしまう。侍女もぽうっとした表情で彼を見上げていた。視線に気づいた彼は困ったように微笑む。
「すまないが、少しの間席を外してもらえないだろうか」
「あっ、はい! 申し訳ありませんでした!」
一瞬のうちに顔を羞恥で染め、足早に彼女は部屋を出て行った。その慌てぶりに彼はくすりと笑いを零し、わたしの方へその目を向けた。
「ミレイ。おはよう」
みんなが「聖女さま」と呼ぶ中、彼だけはわたしのことを名前で呼ぶ。
「……今日の朝食も、口に合わなかっただろうか」
国中からいろんな料理人を探してわざわざ作らせた品を、わたしはほんの少ししか口にしていない。
「いいえ、たいへん美味しかったです」
故郷とは違う、異国の味がした。馴染みのない味付けでも、彼らが試行錯誤して、わたしの舌を満足させようと努力したことがわかる料理だった。でもすべてを食べ終わる前にスプーンとナイフをテーブルの上にわたしは置いてしまった。
「お腹が空かないので、食べる気になれないだけです」
そう言うと、彼は痛ましそうな、申し訳なさそうな表情を浮かべる。これが演技だったら、たいそう立派なもので、もし心からの同情であったとしても、たいした方だと思う。
「今度また、違うものを作らせよう」
「いいえ、もう十分ですわ」
作らせるだけ無駄だ。空腹を訴えないこの身体は、食事をすることの楽しさをわたしから奪っていったのだから。
「……今度の侍女はどうだろうか」
「ええ、大変よくしてくれます」
以前のようにわたしに嫌味を言わない。暴言を吐かない。腹の中は何を考えているかはわからないけれど、あからさまな敵意を向けてくることはしない。
それだけで、ずいぶんと過ごしやすくなった。
「他に何か要望があるなら、遠慮せず言ってくれ」
懇願するような声で彼は頼む。わたしが無理難題を押し付けても、何としてでも叶えようとするだろう。国一つ揺るがすような高価な宝石や職人泣かせのきらびやかなドレスをねだっても、彼は文句一つ言わないで用意する。
その方が、ずっと楽だから。
いいや、それが自分にできるせめてもの償いだと思っているから。
「わたしの願いは何もありません」
「ミレイ……」
優しそうな顔が苦痛に歪むのを、もう何度見たことだろう。罪悪感をかつては覚えていたけれど、もういつの間にか消えてしまった。今やわたしの顔は仮面を張りつけたかのような無表情であろう。やめた侍女が不気味で魔女みたいだと言っていた。
「そういえば、近々キャサリン様とご結婚なさるようですね」
ふと思い出したと話を変えれば、彼はわずかに目を瞠った。
「どこでそれを、」
「彼女が教えてくれたんです」
わざわざこんな離宮まで足を運んでくれて。
『アーサー様ともうすぐ結婚しますの。聖女さまも、そろそろお一人で自立することを考えたらいかがかしら』
彼に近づくな。彼の同情心を愛だと勘違いするな。
扇子で口元を隠して、目だけで雄弁に訴えかけた彼女は公爵家のご令嬢で、目の前の彼の婚約者であった。幼い頃からずっと彼のことを慕っており、王妃として彼を支えてあげたいと熱のこもった口調でわたしに教えてくれた。
「彼女はわたしがあなたに近づくことが気に入らないのでしょう」
「……貴女が私に近づいているのではない。私が貴女に会いに来ているのだ」
そうだ。その通りだ。
「ではもう、ここへは来ないで下さい」
きっぱりと告げれば、彼の瞳が揺れる。
「ミレイ。けれど私は、」
「殿下には、わたしの願いを叶えることはできません」
彼だけではない。この国に、わたしの願いを本気で叶えようとする者はいない。
「わたしが元の世界に帰れば、この国は滅びるんですもの」
「せ、聖女様」
いかがいたしましょうか、と縋るような目で助けを請う。わたしは気にしなくていいと伝え、椅子から動こうとはしなかった。
「し、しかし……」
「やぁ、失礼するよ」
まごまごしている間に一人の男が部屋へ入ってきた。癖のない金色の髪にエメラルドのような綺麗な緑の瞳をした青年。遠くから見ても美形だとわかる顔つきは、間近で見るとさらに迫力があり、目を奪われてしまう。侍女もぽうっとした表情で彼を見上げていた。視線に気づいた彼は困ったように微笑む。
「すまないが、少しの間席を外してもらえないだろうか」
「あっ、はい! 申し訳ありませんでした!」
一瞬のうちに顔を羞恥で染め、足早に彼女は部屋を出て行った。その慌てぶりに彼はくすりと笑いを零し、わたしの方へその目を向けた。
「ミレイ。おはよう」
みんなが「聖女さま」と呼ぶ中、彼だけはわたしのことを名前で呼ぶ。
「……今日の朝食も、口に合わなかっただろうか」
国中からいろんな料理人を探してわざわざ作らせた品を、わたしはほんの少ししか口にしていない。
「いいえ、たいへん美味しかったです」
故郷とは違う、異国の味がした。馴染みのない味付けでも、彼らが試行錯誤して、わたしの舌を満足させようと努力したことがわかる料理だった。でもすべてを食べ終わる前にスプーンとナイフをテーブルの上にわたしは置いてしまった。
「お腹が空かないので、食べる気になれないだけです」
そう言うと、彼は痛ましそうな、申し訳なさそうな表情を浮かべる。これが演技だったら、たいそう立派なもので、もし心からの同情であったとしても、たいした方だと思う。
「今度また、違うものを作らせよう」
「いいえ、もう十分ですわ」
作らせるだけ無駄だ。空腹を訴えないこの身体は、食事をすることの楽しさをわたしから奪っていったのだから。
「……今度の侍女はどうだろうか」
「ええ、大変よくしてくれます」
以前のようにわたしに嫌味を言わない。暴言を吐かない。腹の中は何を考えているかはわからないけれど、あからさまな敵意を向けてくることはしない。
それだけで、ずいぶんと過ごしやすくなった。
「他に何か要望があるなら、遠慮せず言ってくれ」
懇願するような声で彼は頼む。わたしが無理難題を押し付けても、何としてでも叶えようとするだろう。国一つ揺るがすような高価な宝石や職人泣かせのきらびやかなドレスをねだっても、彼は文句一つ言わないで用意する。
その方が、ずっと楽だから。
いいや、それが自分にできるせめてもの償いだと思っているから。
「わたしの願いは何もありません」
「ミレイ……」
優しそうな顔が苦痛に歪むのを、もう何度見たことだろう。罪悪感をかつては覚えていたけれど、もういつの間にか消えてしまった。今やわたしの顔は仮面を張りつけたかのような無表情であろう。やめた侍女が不気味で魔女みたいだと言っていた。
「そういえば、近々キャサリン様とご結婚なさるようですね」
ふと思い出したと話を変えれば、彼はわずかに目を瞠った。
「どこでそれを、」
「彼女が教えてくれたんです」
わざわざこんな離宮まで足を運んでくれて。
『アーサー様ともうすぐ結婚しますの。聖女さまも、そろそろお一人で自立することを考えたらいかがかしら』
彼に近づくな。彼の同情心を愛だと勘違いするな。
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「彼女はわたしがあなたに近づくことが気に入らないのでしょう」
「……貴女が私に近づいているのではない。私が貴女に会いに来ているのだ」
そうだ。その通りだ。
「ではもう、ここへは来ないで下さい」
きっぱりと告げれば、彼の瞳が揺れる。
「ミレイ。けれど私は、」
「殿下には、わたしの願いを叶えることはできません」
彼だけではない。この国に、わたしの願いを本気で叶えようとする者はいない。
「わたしが元の世界に帰れば、この国は滅びるんですもの」
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