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 宿の部屋に戻ってから顔を洗い、目元を濡らした布で冷やす。

 赤みを落ち着けてから幼馴染みのいる場所まで戻ると、苦笑とともに出迎えられた。彼は、両手を軽く開く。

「なに?」

「旅行中は、接触を持つんだろ?」

 そうだった、と思いつつ、そろそろと広げられた腕の間に入る。

 昔はこんな接触もしていたが、成長した今では気恥ずかしい。広げられた相手の両脚の間に腰掛ける形で落ち着くと、腹の前に腕が絡みつく。

 混ざっていく魔力の相性は悪くないのに、いずれ彼はもっと相応しい番を得る。

「……ティリアは、俺が別の番を得てもいいのか」

「うちの家のこと? アーキズが来てから人手が増えて沢山新しい取り組みができているし、お父様も喜んでいるけど。でも、うちみたいな貧しくて小さい領地を、アーキズが統べるなんて勿体ないよ」

 彼の生家であるオーク家は、高位貴族の家柄だった。今は祟りの影響で傾いてはいるが、彼の弟もいる。いずれ力を取り戻すんだろう。

 あちらの領地と比べると、私の家は何十分の一、という規模でしかない。新しい道の開通といい、豊かになる兆しが見えているのは有難いが、それでも比較するには遠いのだ。

「俺は、数ヶ月この地で暮らしてきて、愛着を持っている。昔から、よく訪れていた土地だったしな」

「気持ちは、嬉しいよ」

 肩の上に、彼の顔が乗った。ぽそり、と私にしか聞こえない声で、低く呟く。

「…………ずっとこのままじゃ、駄目か」

 番になれなくとも、傍に置いてくれることが嬉しかった。その気持ちを閉じ込めて、首を横に振る。

 今度は泣かないと決めた。涙を引っ込めて、笑みを作る。

「私は。アーキズを、幼馴染みを、『神に祟られた人』のままにしたくないな」

「ティリアは、強いな」

 はは、と何かを吹っ切ったような笑い声が響いた。

 ぎゅう、と強く抱き込まれ、跳ねた波が身体を満たす。伝えられなくとも分かる、これは喜び、だ。

 私は彼に向かって、口を開こうとした。

「────こんばんは」

 コンコン、と扉を叩く音と共に、外から声が掛けられる。

 私は絡んでいた腕を外すと、その場に立ち上がった。アーキズの腕が私を庇うように割って入り、先に扉に近づく。

「なんの用だ?」

 外から聞こえた声は、ガウナーのものだった。彼の視線が、置いたばかりの剣を確認する。

 相反して、外から聞こえる声は、朗らかなものだった。

「いい酒を手に入れたんですが、ご一緒しませんか」

「…………」

 アーキズは黙って、私に視線を送った。こくん、と頷き返す。

 まだ、今までの材料ではっきりと叩き出すには、時期尚早に思える。

 幼馴染みの手で扉が開かれると、確かにそこには、片腕に酒瓶を抱えたガウナーが立っていた。

「宿屋の厨房からグラスも借りてきました」

 彼の手には、グラスが二つ握られている。

 アーキズは酒瓶を預かると、扉を大きく開いて相手を迎え入れる。

 二人は長椅子に向かい合うように腰掛ける。一歩出遅れた私は、そろそろと幼馴染みの隣に座った。

 注がれたのは、濃い赤色の液体だった。いっそ、黒に見えるほど濃い色をしている。

「乾杯」

「…………乾杯」

 二人の間でグラスが打ち鳴らされた。ガウナーは中身を勢いよく飲み干し、手酌で中身を注ぎ足す。

 アーキズもまた、グラスを口に運んだ。私のグラスは用意されていないが、強い方ではない。助かった、と二人を眺める。

 口火を切ったのは、青年神官のほうだった。

「実は、私は神官ではないんですよ。……分かっていらしたでしょう」

 あっさりと明かした事に目を瞠りつつも、アーキズはグラスを机に置く。

 私は無意識に、視線を幼馴染みの剣に向ける。位置は遠く、振るう為にはまず移動する必要があった。

「武芸の心得がある人間の動きをしていたのに、それを明かさないから疑ってはいた」

「ああ。そうらしいですね。実は、息子の真似をしていたんですが、そっくり真似たら、こういう動きになってしまって」

 にっこり、と浮かべる笑顔は、初対面で見た表情と似ている。

 誰かに見せるための笑顔。心から浮かぶ、という感情を知らない存在が浮かべる、作り物めいた動きをしていた。

 腹の底から寒気が這い上がって、長椅子の表面に爪を立てる。

「大神官も協力者か?」

「『大神官様』は嫌々従っているだけですよ。自分が従属する神よりも、私の方が力を持っているから。従わざるを得ない」

 目の前の人物は、人ですらないようだった。

 そして、大神官が従属する神はニュクス神の筈だ。自国の守護神よりも力を持つ存在、必死に頭を巡らせる。

 アーキズが何かに思い当たったかのように、唇を噛んだ。

「何が目的だ?」

「実は、息子と賭けをしましてね。十年ほど前に、力の使い方を誤って祟ってしまったものを、放っておいたらあまりにも変質してしまって戻せない、と。そう情けないことを言うものですから────」

 私の隣で、幼馴染みの身体が傾いだ。

 胸を掻き毟りながら息を吐いたアーキズの口から、飲み込んだ筈の赤い液体が滴り落ちる。

 赤い水滴は床を汚し、彼の体も続けて転がった。

「賭けに勝ったら、私が祟りを消してやろう、と言いました」

「アーキズ!」

 縋り付こうとした私を、強い衝撃が突き飛ばす。

 弾け飛んだ格好になり、数秒宙に浮いて床に転がった。痛む腕を庇いながら視線を上げると、意識を失ったアーキズを、男が抱え上げたところだった。

「賭けって、なに!?」

「『明日。日が一番高く昇る時刻までに、神の泉へ辿り着くこと』できなければ、私は力を貸しません。加えて…………」

 あはは、と笑う声は、心底楽しそうに響いた。

 窓が開け放たれ、神官の姿をしていた筈の輪郭が揺らぐ。四つ脚で顕現したのは、黒い色をした大狼だ。

 顎がアーキズの服を噛む。

『報酬として人ひとりを、貰い受ける』

 高層階だったはずの窓から、狼は身を躍らせる。慌てて身体を起こし、窓の外を見ると、二人の姿はどこにもなかった。
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