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 体調が悪い、と実感したのは翌日のことだ。

 原因はよく分かっている。リカルドに雷管石を渡したいほどの相手がいる。そればかりが頭を巡る。長く勤めたかったはずの屋敷が、どんよりと曇って見えた。

 あの体温が、あの匂いが、あの魔力が別の人のものになる。腹の底が燃えるようで、煤の詰まった胸が苦しい。好き、と呼ぶには黒ずんでしまった感情だった。

 僕が気落ちしているのが分かるのだろう。リカルドもオースティン様も、廊下で見る度に声を掛け、時には食べ物を渡してくる。美味しいはずの菓子を口いっぱいに詰め込むのだが、やがて飲み込んでも吐いてしまうようになった。

 魔術師は大量の魔力を持つ。魔力は波である。感情もまた、波である。溢れんばかりの感情に満たされた僕たちのからだは、気持ちの波にしばし呑み込まれては調子を崩す。

 薄くなったように思える腹を押さえながら、限界を感じて休みを取ることにした。ちょうど発情期が近いこともあり、繋げて長期休暇にしては、と提案される。

 僕は素直に頷いた。発情期前に更に体重を減らすようなら、発情期には病院送りになりかねない。

「…………はぁ」

 住み込みの使用人に与えられる部屋は、屋敷の敷地内にそれぞれが個別の棟として建っていた。それぞれの部屋自体は広くないが、水場など生活が完全に独立して、生活を営める設計になっている。オメガが多く勤める屋敷で、発情期の事故を防ぐためのものだ。

 ここに勤める前に私物の多くを売り払ってしまった部屋は、狭いはずなのにがらんとしている。リカルドから土産に貰った小さな置物や、筆記具などが室内で唯一の色味だ。

 倉庫から持ってきてもらった、なんの飾り気もない簡素な木造りの寝台に寝転がって、薄っぺらくなって色褪せた毛布を巻き付ける。厚着をしているはずなのに、途中で暑いのか寒いのか分からなくなる。

 早々に病院へ行くべきなのだろうが、貧乏性が邪魔をする。明らかに病が気から来ている。通院して金を払って、治るものとは思えなかった。

 とはいえ、体調を戻さないまま発情期に入るのは怖い。ただでさえ魔力の波があるというのに、波が荒れ狂って正気を保てなくなるのが怖い。

 例えば与えられた自室の部屋を蹴破って、リカルドの所に向かってしまったら。狂ったフェロモンで彼を巻き込んでしまったら。

「そうしたら……番になるのかな」

 はは、と乾いた笑いを上げる。

 オースティン様とリカルド、二人のすれ違いを見ていて良かった。番でもないのに、僅かな賭けをしようとは思えない。

 見たこともないオースティン様の母親が夢に出るのだ。僕が、彼女なのだと。

『貴方がいなければ』

 オースティン様の生みの母のように、僕もリカルドの番に嫉妬している。

 横になっていると眠たくなって、寝台の上で窓辺を見ながら微睡む。ふ、と視線を上げると、時計の針は見知らぬ時間を指していた。

 なぜ目が覚めたのか。疑問に思って身を起こすと、玄関から呼び鈴が鳴った。おそらく、この音は二度目だ。

 とん、と床に降り、短い廊下を歩く。玄関横の窓から見ると、そこには荷物を持ったリカルドが立っていた。慌てて寝間着姿の服装を整える。

 扉に駆け寄り、鍵を開けた。

「ごめんね。こんな格好で……」

「いや。俺の方こそ急に悪かったな。ロシュが体調が悪くて休んだ、って聞いたから、差し入れを、と思って……」

 彼が提げた籠には、瑞々しい果物が詰まっている。菓子を吐くような体調でも、水分の詰まった果実は食べられるような気がした。

 ありがとう、と受け取ろうとすると、首を横に振られる。

「俺が運ぶよ。入っても大丈夫か?」

「あ……、ありがとう」

 どうぞ、と一歩引くと、リカルドは扉を引いて入ってきた。室内履きは客人用のものがなく、困っていると、彼は察したかのように靴下のまま上がり込む。

 狭い家の構造はすぐに把握したようで、僕が案内する間もなく厨房へ向けて歩いていった。広い背を追って廊下を抜ける。

 厨房は広くなく、調理器具も最低限だ。調理台の上に籠を置くと、中の果物を持ち上げた。果皮が赤く、切り分けるのに労力のかからないものだった。

「腹に物は入りそうか?」

「……はいりそう。さっきまで、うとうとしてたから」

 リカルドはナイフを借りると、皮を剥きはじめた。

 淀みのない所作から、彼は料理ができることが分かる。多少は、と思っていたが、すいすいと最低限の果皮を削いでいく姿は手慣れていた。

 僕がぼうっと見つめていることに気づいたのか、リカルドがいちど視線を寄越した。

「や。あの。貴族のご子息にしては手慣れてるなぁって」

「ああ。遠出することがあるだろ。山の中じゃ飲食店なんてないからな。現地で材料を買って、剥いて食べたりする」

 そう言っている間にも、綺麗に果肉はその姿を見せていった。種を取り、食べやすい大きさに切り分ける。皿を借りて盛り付けると、くう、と中身の無くなった腹が声を上げた。

 普段、人を招かない家は、食事用の机に椅子ひとつだ。寛ぐための椅子は他にない。僕がこの果実を食べようとすれば、リカルドは立たせたままになる。

 まだ居座る気のようで、帰ろうとする気配はなかった。困って室内を歩き回り、小さめの机を寝台の近くに寄せた。預かった皿を机の上に置く。

「ごめん、リカルド。座るところがないから……」

 布団を脇に寄せ、寝台にできた空間へ座るよう提案すると、彼は何も言わずに腰掛けた。ふと、寝台脇の小机に視線を向ける。僕が先行した視線を追うと、机の上には土産として貰った菓子の空き缶が置きっぱなしになっていた。

 手を伸ばしたリカルドが、脇に避けてあった蓋を持ち上げる。箱の中身は、細々とリカルドから貰った物で、飾ると無くしそうなものを入れてあった。ぼうっと中を見つめる様子に、僕は片付けておくんだった、と身を竦ませる。

「あ、あの。別にリカルドから貰った物を特別に、って訳じゃなくて。……僕、ここに来るときに私物をけっこう処分しちゃったから、そもそも持ち物が少ないんだ」

「…………あぁ。物が少ない部屋だと思ってた。それでも、大事にしてくれて嬉しいよ」

 伸びてきた腕が僕の頭を撫でる。伝わってくる魔力は優しくて、涙がこみ上げそうになった。匂いも分かる。以前より、もっと好みの匂いになってしまった。

 誤魔化すように、切り分けられた果物を持ち上げる。カシ、と歯を立てると、じゅわりと果汁が口を満たした。さっぱりとした味わいには嘔吐くことなく、少しずつ食べ進める。

「リカルドも食べる?」

 あ、と当然のように口を開けるアルファに、苦笑しながら果実を運ぶ。器用に口で齧り付き、あっさりと口内に収めてしまった。シャクシャクと軽快な音が響く。

 美味しくて、次に、次に、と食べ進めていくと、皿はすぐ空になる。

「まだ食べられそうなら、もう一個剥くけど」

「最近、食が細くなってたから、お腹いっぱいかも」

 腹を撫でると、リカルドは空の皿を厨房まで運んでいった。戻ってくると、また同じ場所に腰掛ける。

 お茶くらい出してあげたかったが、病人であることを理由に制されそうだ、と諦める。

「病院には行ったか?」

「いや。…………でも、原因は分かってるから」

 治りようがないことも、また理解している。僕は話を切り上げたかったが、眉を顰めたリカルドが食い下がった。

「他の原因かもしれないし、できれば医者にかかってほしい。金銭的に困っているのなら、屋敷から援助するよ」

 声は柔らかく、咎めるような響きはなかった。ただ、心配だけが滲み出る声音に、心が悲鳴を上げる。

「病院に行くくらいのお金はあるよ。そうじゃなくて……」

 言葉を迷っていると、隣にいるそのひとは、あからさまに肩を落とした。一度口を開けて、閉じて。明らかに躊躇いながら、それでも言葉を紡ぐ。

「────失恋でもしたか?」

 図星過ぎて、びく、と身体を震わせてしまう。誤魔化す言葉を浮かべては沈めた。僕が黙りこくっていることに察したのか、リカルドは苦笑する。

「ごめんな。俺のせいで」

「え…………」

 気持ちが感づかれてしまったのか。僕が呆然としていると、リカルドは僕の両肩を包み込む。

「兄貴の気持ちをはっきりさせておきたかったのは、俺の都合だった。もし、ロシュが兄貴を好きだったとしても、傷が浅く済むかと……」

「なんの話……?」

 心の底から疑問に思ったのが、声にもはっきりと表れた。あれ、と顔を上げた先にいるリカルドも驚いている。

 無言が場を満たした。

「…………ロシュの片思いの相手、兄貴なんじゃないかって」

「ちがう。……けど」

 肩に掛かった彼の指から、急に力が抜けた。目の前のアルファはがっくりと頭を落とし、あぁ……、と力ない声を漏らす。

 よろよろと傾く身体を受け止める。僕の肩に額を当て、リカルドは考え込むように目を閉じた。

「……他の相手、思いつかないんだけど」

 ぽそぽそと発せられる声は、普段の彼からは想像できないほど掠れて消えそうだ。抱き返してしまいそうになって、指に変に力が入る。

「そりゃ、隠してるもん」

 わざとらしい笑い声を上げて、肩をぽんと叩く。またリカルドは黙り込んだ。

「…………雷管石、欲しいか?」

 唐突で、聞き覚えのある問いだった。

 以前にもこうやって尋ねられたな、と変わってしまった関係を懐かしむ。声を跳ねさせて、震えを隠した。

「貰えるものなら、貰うよ」

 確か、こう答えたんだったか。ふふ、と作り物の笑い声を付け足すと、リカルドは神妙な顔をしたまま頭を起こした。

 懐へと手を突っ込み、中から箱を取り出す。小箱の側面には天鵞絨のような布が張られ、彼が蓋を取ると、中には見慣れた色の雷管石が入っていた。

「やるよ。見た瞬間ロシュの瞳の色だ、って思っちまって……だから他の奴に、これはやれないから」

 力を失った僕の手のひらを持ち上げて、小箱を握らせた。ずっしりと重たいはずの箱なのに、指先には感覚がない。

 声はただひたすらに優しいのに、指先から伝わる彼の魔力は、偶に大振りに揺れては、感情の乱れを伝えてくる。

「魔力を込めて、神殿に預けてもいい。売り払って、片思いの相手と添い遂げるための資金にしてもいい。……ただ、受け取ってくれるか?」

 目の前が真っ暗になった。また、まただ。オースティン様に僕を好きかと尋ねた時と同じだ。

 引こうとした指先を捕まえる。はっとしたように見上げてくる瞳に、半泣きになりながら縋り付いた。

「……欲しくない」

「はぁ……!?」

「だって、魔力を込めたとして、別の人と相性が良かったら、僕はどうしたらいいの……!? 僕、リカルド以外と番うのはいやだよ……!」

 渡さないで、ぽつりと呟いて、振り払うように箱を押し返す。箱は重心を崩し、ぽすんと寝台の上に転がった。

 ぼたぼたと涙をこぼし、何度もしゃくり上げる。目の前の人以外の運命なんていらない。番が別の人かもしれない可能性なんて欲しくない。

 この可哀想な感情は、どこにも捨てようがないのに。

「ロシュ……」

「なんで、ずっと、僕と別の人を番わせようとするの……!? 自分を選ぶって思ってくれないの……! リカルドは、素敵なひとだよ……? なんで、僕の匂いも、魔力も。……届かないの…………」

 うわぁん、と声を上げ、彼の胸元に縋り付く。強張っていた掌から力が抜け、僕の背をゆっくりと抱き返した。

 ぽん、ぽん、と宥めるように背が叩かれる。文句を言おうと口を開くのに、嗚咽で言葉にならない。

 だが、流れ込んでくる魔力は急かすことなく、掌と同じように撫でてくる。

「なぁ」

 言葉を返そうとして、しゃくり上げることしか出来ない僕の目元を違う指先が拭う。こんなに必死になっているのに、リカルドは何故か目尻を垂らし、込み上げる喜びを噛み殺すように唇を震わせていた。

 こつん、と額が触れる。ぴん、と魔力の波が振れる。

「俺のこと好きなの?」

「……うん」

「素直」

 ふふ、と心からの笑い声が聞こえる。傾いた唇が、涙で濡れた唇にかるく触れた。目を閉じる暇もなかった。

「なんで俺が雷管石をロシュにあげたいか、分かんなかった?」

「…………目の色と同じだから……」

「違う。『好きな子の、』目の色と同じだから」

 寄りかかった顔が、とすん、と僕の肩に乗った。耳のすぐ近くで、跳ねるように喉を鳴らす。

 きゅう、と抱きつく力は柔らかく、逃れられるはずなのに僕は大人しく腕の中にいる。好きな匂いに包まれることが、見知らぬ安堵を与えてくる。

「僕のこと、……好き?」

「ずっと前から目で追ってた。好きだよ、綺麗な雷管石をあげたくなるくらい」

 顔が持ち上がり、ちゅ、とつむじに唇が落ちる。広い胸に沈み込んで、思う存分呼吸をした。

 オメガが巣、とも呼ぶ場所。絶対的に守られる腕の中。甘えても、ただ受け止められることを信じられる。そんな相手を得たのは初めてだった。

 目を閉じて、今度はゆっくりと唇を受け止める。皮膚で触れるよりも近しい感覚、粘膜の上がぴりぴりした。

「どうした?」

 指を唇に添え、黙り込んだ僕にリカルドが問いかける。

「なんか。しびれる、かんじ……」

「嫌だった?」

 首を横に振る。

「好き」

 にま、と笑った唇が近づいて、また柔らかく触れた。頬に、こめかみに、と触れさせては魔力を乱す相手を、くすぐったく思いながら受け止める。

 しばらく触れ合いを楽しんでいたが、ふと、思い出したように声が上がる。

「あ」

 リカルドは転がっていた小箱を持ち上げ、中から雷管石を取りだした。そろ、と持ち上げた手のひらの上に、石が転がされる。

 もう障壁がなくなっているであろう稀少な色の雷管石は、以前よりも透き通った輝きを放っている。

 眺めていると、魔力が持ち上がる感覚があった。

「え…………?」

 僕の魔力が舞い上がると、竜巻のように渦を巻き、ある一点を機に石に向かってまっすぐ集束した。感じ取れたのは、僕だけだったに違いない。

 一瞬のうちに、雷管石は魔力に染まってしまった。ちかちかと窓の明かりを受けて光る表面だけが、余韻を残している。

 そろそろと表面に触れると、中に魔力を感じた。どうしよう、と石とリカルドを交互に見る。

「僕、これ。魔力……込めるつもりは……!」

「ああ、そういうことか。あげたものだから、気にするな」

「でも…………」

 僕の困惑ごと包み込むように、広い腕が身体に絡み付く。耳元から愛の言葉が囁かれる。石をどうにかしなくてはいけないのに、彼は、もうどうでもいいのだ、と言う。困ってしまって、うう、と言葉を漏らした。

 手のひらの上にある石は、満足げにちかちかと瞬いていた。




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