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週末のお泊まりは、仕事帰りに落ち合うことになった。着替えを詰めた鞄を職場に持参しているが、今日は妙にそわそわする。
勤務場所の都合上、王宮でクレフと会うことはないのだが、会ったらどんな顔をすればいいんだろう。外すことに慣れた敬語を、また掛けるのにも抵抗を覚えそうだ。
退勤時間となり書類の整理をしていると、ヴィナスがばたばたと足音を響かせて駆け寄ってきた。
「ネーベル。あの……」
掌が向けられた先には、扉の隙間から顔を覗かせているクレフがいた。僕を確認すると、扉を開いて歩み寄ってくる。
今日も制服がびしりと整っており、まだ仕事中なのかと錯覚しそうになった。
「あれ? 裏門に集合じゃなかったっけ」
自然と敬語が外れてしまっている僕の横で、ヴィナスがぎょっとしたように目を剥く。だが、続けてクレフが口を開いてしまい、僕は言い訳をする機会を失った。
「荷物があるかと思って顔を出したんだが」
「いや、着替えと本くらいだけど。持ってくれるのか?」
「ああ。…………っと、仕事中じゃないな?」
「待ち合わせの時間より早かったから、時間潰してたとこ。そっちも仕事終わりなら行こっか」
荷物の詰まった鞄を持ち上げ、クレフの腕に渡す。僕が両手で持っていたそれが、軽々と抱え上げられた。彼は鞄を上下すると、まじまじと僕の方を見る。
「本にしては重すぎないか?」
「だって魔術書だし」
そういうものか、とクレフは鞄を持ち直す。
「ありがと」
「いや、助けになれて光栄だ」
堅苦しい返事にも思えたが、目の奥は真剣で茶化すのも躊躇われた。手ぶらでクレフの後を追う前に、ヴィナスに声を掛ける。
「クレフを案内してくれてありがとう。最近ちょっと知り合ってさ」
「…………まさか。神殿?」
「あー……。そのまさか」
「はあ、ふーん。へえ……、お幸せに」
途端ににまにまとした笑みを浮かべた同僚を小突いて、そして手を振る。ヴィナスは表情を変えないまま、手を振り返した。
仕事場を出て、広い廊下を並んで歩く。近衛隊長であるクレフの顔は王宮でも知られており、僕と連れ立って歩いていることに視線を向けてくる人もいた。クレフはそれらの視線を意に介さず、大股で歩いていく。
僕は歩幅の都合で、ちょこちょこ早足で付いていくことになった。そういえば、彼の家に行く道中もこうだったんだよなあ、と察してもらうのは諦めることにする。
「クレフ。あの」
「何だ?」
「ゆっくり歩いてくれてるんだろうけど、それでも速い」
ぴたり、とクレフは廊下の真ん中で立ち止まった。眉は下がっており、やってしまった、という愕然とした気持ちがありありと顔に出ている。
つい笑ってしまい、咳払いをして口元に手を当てる。
「悪い。一応、気をつけているつもりではいたんだ」
「うん、だろうなと思ってた。でも、体格差もあるし、僕も遅い方なんだよ」
隣に並んで、クレフの腕を掴む。そうして、僕が腕を引いたまましばらく歩いた。僕の歩く速度に合わせてみると、これまでの半分近い速さになる。これくらい、と言うと、神妙な顔で頷かれた。
腕から手を離すと、彼の視線が離れた指を追いかける。
「じゃあ、行こっか」
それからは、僕は普段通りの速度で歩くことができるようになった。隣を見ると、かなり注意して速度を揃えているようで、歩みの緩急が酷い。腕でも組んで歩いた方が楽そうだったが、馴れ馴れしすぎるかと提案は飲み込んだ。
途中で食事と菓子を買い込み、歩いてクレフの家に辿り着いた。部屋はこのあいだ来た時よりも更に片付いており、床の埃も払われている。
「おじゃまします」
「お邪魔されます、か……?」
返す言葉に迷う背をぽんぽんと叩き、そのまま上がり込んだ。手を洗って、食卓の上に買い込んだ食事を並べる。体力勝負の近衛と、魔力消費の激しい魔術師とで食事をするものだから、食事量も二人分のそれではない。
机は色とりどりの食事でいっぱいになり、僕はその眺めに歓声を上げた。
「酒は飲めるか?」
「いいの!?」
答えから酒好きだということは察して貰えたようで、数本の酒瓶とグラスが彩りを添える。冷めた料理を温めたり、水を貰って魔術でぱきぱきと凍らせていると、慣れていないのか随分と驚かれた。
「乾杯!」
「乾杯」
お互いに好きな酒を注いで、グラスを打ち鳴らす。喉を焼かないよう、ちびりちびりと口を付けた。酒に満足すると、串焼きを持ち上げて小皿に取り分ける。揚げ串が届かずに空中で手を振っていると、大きな手が串を中継してくれた。
かぷ、と横から噛み付くと、だらだらと肉汁が零れる。小皿で受け止めながら、もぐもぐと咀嚼した。
「うわ、美味い」
「ああ。脂が多くて塩気があって、酒に合う」
ぐい、と酒を干す喉が、目の前で気持ちがいいほどに波打った。つい口元を綻ばせながら、自分もグラスを引き寄せる。
僕が選ぶには強めの酒だったが、この家にある酒は総じて強いものばかりだった。それすらもクレフはごくごくと飲み干し、手酌で杯も進めている。
僕の酒の強さは平均程度のはずだ。舌が味を感じられなくなる前に、と繊細な味わいの料理を口に運ぶ。しばらくの間、ぽつぽつと仕事の話をしながら食を進めた。
その話題になったのは、神殿の話をしていた時だ。
「────クレフが僕の雷管石に触った時、どんな感じがした?」
僕とは違い、彼は石の魔力に触れて相性がいい、と言った。自分には良いとは思えなかった相性を、彼は良いと感じている。何を以てそう判断したのか、あの時は困惑して聞けなかったそれを聞いてみたい気がした。
クレフは手元のグラスを揺らし、大きめに割った氷を溶かす。
「羽根箒、のような……」
「部屋が綺麗そうってこと?」
茶化すような声音で言うと、違う違う、と目の前で手が振られる。もう片方のグラスの端がカラン、と揺れて音を立てた。
ふふふ、と笑うと、言葉の先を促す。
「ぶれない芯があるのに、その回りをふわふわの羽根で覆われてるから触れていて心地いい、そんな気がした」
「ふぅん。それで、どの辺が『相性がいい』んだ?」
「俺は岩のようだと言われるから、ふわふわしたものが間にあることはいいのかな、と」
「はは、なるほど」
岩か、僕はグラスの中にそびえ立っている氷を見下ろした。まだ溶けきっていないそれは、酒の中央に鋭く居座っている。でもそれより、と自分が触れた石の感想を思い出す。
「僕は、嵐みたいだって思った。岩よりもっと柔軟で、絡め取られるような……」
「含みがあるようにも聞こえるが」
「若干?」
真に受けてしょんぼりとした顔になるクレフに、慌てて言葉を続けた。
「岩ってほど他を傷付ける感じではなかったし、強い風だって上手く乗れば飛べるだろ。僕はクレフをそう思ったってだけ。上手く風に乗れるかは、これからの付き合い次第だと思うよ」
「そうか……」
気分が浮上したらしい様子に、ほっと胸を撫で下ろす。
仕事では部下と普通に会話をしているんだろうし、こうやって冗談を振り続ければそのうち慣れるのだろう。
お互いがお互いの魔力を表現した物同士の組み合わせが悪くないのだから、最初に石に触れたときのあれは、初めてまともにアルファの魔力に触れたことによる過剰反応かもしれない。
氷が溶けた酒に口を付けると、濃い味が薄まってちょうど良い塩梅になっている。気持ちよく喉に流し込むと、軽く喉が焼けた。
気分の良くなった僕は、クレフへいくらか質問を投げかけた。身体を鍛えることが趣味で、美味い食事と酒が好きで、家具などは自作することを楽しみ、部下には堅いとよく軽口を叩かれる。
岩だのと表現するのも、部下の言葉を真に受けた結果なのだろう。ただ、上司に対してその軽口を叩けるということは、逆に懐かれているのではないだろうか。部下を語るクレフの口ぶりも好きなものを語るそれで、関係が悪いようには思えなかった。
机の上の食事が概ね空になっても、だらだらと酒を酌み交わす。買い置きの食材にまで手を出し、氷を作り直してちびちびとやった。
家の外が暗闇に染まり、真夜中にどっぷりと浸った頃、ようやく寝ようか、という空気になる。
歯だけ磨かせてもらい、風呂は明日の朝にしよう、という提案に乗った。酒を飲む前に身体を洗えば良かったのだろうが、お互いにそこまで頭が回っていなかったのだ。ただ目の前に出された酒瓶が輝いて見えた。
運んでもらった鞄から寝間着を取り出し、ローブを脱ぎ落とす。髪の結い紐を解き、シャツの釦を外していると、どたどたと慌てた足音が遠ざかった。そこまで気にしなくても、とは思うのだが、確かに僕よりも貞操観念はあるようだ。
僕が着替え終わってしばらく経ってから、クレフは声を掛けてきた。着替え終わった、と答えると、ほっとしたように向こうも着替え終えた姿で顔を覗かせる。
「着替えくらい、見ても気にしないのに」
「俺は気にする。から、逃げる時間が欲しい」
がくりと肩を落とす姿を見ると、悪いことをしている気分になる。だが、いくら着替えを別にしたとしても寝台は一緒だろうに、ちぐはぐなことをするものだ。
クレフの先導で寝室に入ると、扉が開いた瞬間に匂いに満たされた。部屋の主が窓辺に近寄っていって開けるまで、鼻腔が好みの匂いに満たされる。外の空気が入ってきて、匂いが薄れていくのを惜しく思った。
僕は床をぺたぺたと歩いて、寝台に腰掛ける。対して、クレフは扉へ向けて身体を反転させた。
「じゃあ。おやすみ」
「おやすみ……?」
部屋を出ていく空気を察して、寝間着の裾を掴む。居間には大きなソファがあり、おそらく家主の方があちらで寝るつもりなのだろう。
クレフは目を丸くして、僕の手を見下ろす。
「いや。客が布団を貰うなんて駄目だろ、それなら僕がソファに行くよ」
「いや。客に椅子で寝かせるなんて、それこそ駄目だ」
相反した意見がぶつかり、目を細める。だが、お互いを思い遣った結果で喧嘩するのは本意ではなかった。
裾を掴んだ指で、くい、と引く。
「僕は一緒に寝るものだと思ってたんだけど」
「はあ!?」
彼にとっては想定外の言葉だったらしい。目を剥いて、言葉にならない声を発して、そして意味の咀嚼のために黙り込む。
僕は掴んだ裾を離さず、じっと答えを待った。
「番候補と同衾というのは…………、外聞が悪いと思うんだが」
「でもそれ、僕が黙ってたら外聞も何も無いんじゃないか?」
クレフはまた黙り込んだ。その様子を眺めていると、酔った頭でも明日までこのアルファが僕になにもしないであろうことが分かる。
くいくい、と裾を引くと、彼は諦めたように僕の隣に座った。
「俺たちは、魔力の相性がいいんだ。事故が起きてしまったら……」
「起きないよ」
ある程度の確信を持って言うのだが、クレフは首を振った。両手に顔を埋め、がくりと背を前に倒す。
「──────……、さっきから、ずっといい匂いがするんだ」
「え? 僕から?」
「おそらく」
もぞもぞと彼の脚は何かを隠すように動いており、その中心に無意識に目をやると、やんわりと持ち上がっているのが見えた。視線の先を察したのだろう、クレフは毛布を引き寄せると、自分の脚の上に被せた。
「俺は深くオメガと関わったことがない上に、君とは魔力も合う。君に性的な魅力を感じるし、鼻がずっと匂いを追うんだ」
おそらく、いま僕が酔っていなかったら、素直にその言葉を受け入れて離れていただろう。
けれど、酔った頭ではその言葉に対しても、なんで一緒に寝てくれないのだ、という思いしか浮かばない。寝室に満ちていたあの匂いも窓から逃れてしまって、目の前のアルファに近寄らなければ匂いがしない。だというのに、このアルファは寝室から出ていこうとするのだ。
彼は僕から、あの匂いを取り上げようとする。
「だから?」
「君に、手を出してしまうかもしれないぞ……?」
おずおずと出た言葉に、説得力などなかった。僕はへえ、と半眼になると、立ち上がり、クレフに向かい合う。
踏み込むように、助走をつけてその胸に飛び込んだ。流石の近衛隊長でさえも、そのまま寝台に倒れ込む。すん、と鼻から息を吸うと、あの匂いでいっぱいになった。支えるように掴まれた腕から、びりびりと魔力が流れ込んでくる。
魔力は僕を絡め取ろうとするのに、最後の一線だけは守っていた。そこから先には、侵入してこようとはしないのだ。
「手なんて出さないよ。クレフは」
ほう、と息を吐き、そのまま目を閉じた。酔っているとき特有の眠気が、とろとろと瞼の境界を溶かす。
このまま眠ってしまいたい、と欠伸をして、腕を絡めたまま微睡んだ。
「ネーベル……、もしかして、このまま寝たりは……」
悲壮感さえ伝わる声が上の方でした。けれど、僕はずいぶんと眠たくて、その低い声を無視する。ぎゅ、と力を込め、このまま動くな、と身体を繋ぎ止めた。
しばらくして、大きな溜め息が聞こえる。
僕の全身を寝台に持ち上げると、布団が被せられる。その覆いの中の身体が逃げることはなく、毛布越しに好ましく思った匂いに包まれながら眠りに落ちた。
勤務場所の都合上、王宮でクレフと会うことはないのだが、会ったらどんな顔をすればいいんだろう。外すことに慣れた敬語を、また掛けるのにも抵抗を覚えそうだ。
退勤時間となり書類の整理をしていると、ヴィナスがばたばたと足音を響かせて駆け寄ってきた。
「ネーベル。あの……」
掌が向けられた先には、扉の隙間から顔を覗かせているクレフがいた。僕を確認すると、扉を開いて歩み寄ってくる。
今日も制服がびしりと整っており、まだ仕事中なのかと錯覚しそうになった。
「あれ? 裏門に集合じゃなかったっけ」
自然と敬語が外れてしまっている僕の横で、ヴィナスがぎょっとしたように目を剥く。だが、続けてクレフが口を開いてしまい、僕は言い訳をする機会を失った。
「荷物があるかと思って顔を出したんだが」
「いや、着替えと本くらいだけど。持ってくれるのか?」
「ああ。…………っと、仕事中じゃないな?」
「待ち合わせの時間より早かったから、時間潰してたとこ。そっちも仕事終わりなら行こっか」
荷物の詰まった鞄を持ち上げ、クレフの腕に渡す。僕が両手で持っていたそれが、軽々と抱え上げられた。彼は鞄を上下すると、まじまじと僕の方を見る。
「本にしては重すぎないか?」
「だって魔術書だし」
そういうものか、とクレフは鞄を持ち直す。
「ありがと」
「いや、助けになれて光栄だ」
堅苦しい返事にも思えたが、目の奥は真剣で茶化すのも躊躇われた。手ぶらでクレフの後を追う前に、ヴィナスに声を掛ける。
「クレフを案内してくれてありがとう。最近ちょっと知り合ってさ」
「…………まさか。神殿?」
「あー……。そのまさか」
「はあ、ふーん。へえ……、お幸せに」
途端ににまにまとした笑みを浮かべた同僚を小突いて、そして手を振る。ヴィナスは表情を変えないまま、手を振り返した。
仕事場を出て、広い廊下を並んで歩く。近衛隊長であるクレフの顔は王宮でも知られており、僕と連れ立って歩いていることに視線を向けてくる人もいた。クレフはそれらの視線を意に介さず、大股で歩いていく。
僕は歩幅の都合で、ちょこちょこ早足で付いていくことになった。そういえば、彼の家に行く道中もこうだったんだよなあ、と察してもらうのは諦めることにする。
「クレフ。あの」
「何だ?」
「ゆっくり歩いてくれてるんだろうけど、それでも速い」
ぴたり、とクレフは廊下の真ん中で立ち止まった。眉は下がっており、やってしまった、という愕然とした気持ちがありありと顔に出ている。
つい笑ってしまい、咳払いをして口元に手を当てる。
「悪い。一応、気をつけているつもりではいたんだ」
「うん、だろうなと思ってた。でも、体格差もあるし、僕も遅い方なんだよ」
隣に並んで、クレフの腕を掴む。そうして、僕が腕を引いたまましばらく歩いた。僕の歩く速度に合わせてみると、これまでの半分近い速さになる。これくらい、と言うと、神妙な顔で頷かれた。
腕から手を離すと、彼の視線が離れた指を追いかける。
「じゃあ、行こっか」
それからは、僕は普段通りの速度で歩くことができるようになった。隣を見ると、かなり注意して速度を揃えているようで、歩みの緩急が酷い。腕でも組んで歩いた方が楽そうだったが、馴れ馴れしすぎるかと提案は飲み込んだ。
途中で食事と菓子を買い込み、歩いてクレフの家に辿り着いた。部屋はこのあいだ来た時よりも更に片付いており、床の埃も払われている。
「おじゃまします」
「お邪魔されます、か……?」
返す言葉に迷う背をぽんぽんと叩き、そのまま上がり込んだ。手を洗って、食卓の上に買い込んだ食事を並べる。体力勝負の近衛と、魔力消費の激しい魔術師とで食事をするものだから、食事量も二人分のそれではない。
机は色とりどりの食事でいっぱいになり、僕はその眺めに歓声を上げた。
「酒は飲めるか?」
「いいの!?」
答えから酒好きだということは察して貰えたようで、数本の酒瓶とグラスが彩りを添える。冷めた料理を温めたり、水を貰って魔術でぱきぱきと凍らせていると、慣れていないのか随分と驚かれた。
「乾杯!」
「乾杯」
お互いに好きな酒を注いで、グラスを打ち鳴らす。喉を焼かないよう、ちびりちびりと口を付けた。酒に満足すると、串焼きを持ち上げて小皿に取り分ける。揚げ串が届かずに空中で手を振っていると、大きな手が串を中継してくれた。
かぷ、と横から噛み付くと、だらだらと肉汁が零れる。小皿で受け止めながら、もぐもぐと咀嚼した。
「うわ、美味い」
「ああ。脂が多くて塩気があって、酒に合う」
ぐい、と酒を干す喉が、目の前で気持ちがいいほどに波打った。つい口元を綻ばせながら、自分もグラスを引き寄せる。
僕が選ぶには強めの酒だったが、この家にある酒は総じて強いものばかりだった。それすらもクレフはごくごくと飲み干し、手酌で杯も進めている。
僕の酒の強さは平均程度のはずだ。舌が味を感じられなくなる前に、と繊細な味わいの料理を口に運ぶ。しばらくの間、ぽつぽつと仕事の話をしながら食を進めた。
その話題になったのは、神殿の話をしていた時だ。
「────クレフが僕の雷管石に触った時、どんな感じがした?」
僕とは違い、彼は石の魔力に触れて相性がいい、と言った。自分には良いとは思えなかった相性を、彼は良いと感じている。何を以てそう判断したのか、あの時は困惑して聞けなかったそれを聞いてみたい気がした。
クレフは手元のグラスを揺らし、大きめに割った氷を溶かす。
「羽根箒、のような……」
「部屋が綺麗そうってこと?」
茶化すような声音で言うと、違う違う、と目の前で手が振られる。もう片方のグラスの端がカラン、と揺れて音を立てた。
ふふふ、と笑うと、言葉の先を促す。
「ぶれない芯があるのに、その回りをふわふわの羽根で覆われてるから触れていて心地いい、そんな気がした」
「ふぅん。それで、どの辺が『相性がいい』んだ?」
「俺は岩のようだと言われるから、ふわふわしたものが間にあることはいいのかな、と」
「はは、なるほど」
岩か、僕はグラスの中にそびえ立っている氷を見下ろした。まだ溶けきっていないそれは、酒の中央に鋭く居座っている。でもそれより、と自分が触れた石の感想を思い出す。
「僕は、嵐みたいだって思った。岩よりもっと柔軟で、絡め取られるような……」
「含みがあるようにも聞こえるが」
「若干?」
真に受けてしょんぼりとした顔になるクレフに、慌てて言葉を続けた。
「岩ってほど他を傷付ける感じではなかったし、強い風だって上手く乗れば飛べるだろ。僕はクレフをそう思ったってだけ。上手く風に乗れるかは、これからの付き合い次第だと思うよ」
「そうか……」
気分が浮上したらしい様子に、ほっと胸を撫で下ろす。
仕事では部下と普通に会話をしているんだろうし、こうやって冗談を振り続ければそのうち慣れるのだろう。
お互いがお互いの魔力を表現した物同士の組み合わせが悪くないのだから、最初に石に触れたときのあれは、初めてまともにアルファの魔力に触れたことによる過剰反応かもしれない。
氷が溶けた酒に口を付けると、濃い味が薄まってちょうど良い塩梅になっている。気持ちよく喉に流し込むと、軽く喉が焼けた。
気分の良くなった僕は、クレフへいくらか質問を投げかけた。身体を鍛えることが趣味で、美味い食事と酒が好きで、家具などは自作することを楽しみ、部下には堅いとよく軽口を叩かれる。
岩だのと表現するのも、部下の言葉を真に受けた結果なのだろう。ただ、上司に対してその軽口を叩けるということは、逆に懐かれているのではないだろうか。部下を語るクレフの口ぶりも好きなものを語るそれで、関係が悪いようには思えなかった。
机の上の食事が概ね空になっても、だらだらと酒を酌み交わす。買い置きの食材にまで手を出し、氷を作り直してちびちびとやった。
家の外が暗闇に染まり、真夜中にどっぷりと浸った頃、ようやく寝ようか、という空気になる。
歯だけ磨かせてもらい、風呂は明日の朝にしよう、という提案に乗った。酒を飲む前に身体を洗えば良かったのだろうが、お互いにそこまで頭が回っていなかったのだ。ただ目の前に出された酒瓶が輝いて見えた。
運んでもらった鞄から寝間着を取り出し、ローブを脱ぎ落とす。髪の結い紐を解き、シャツの釦を外していると、どたどたと慌てた足音が遠ざかった。そこまで気にしなくても、とは思うのだが、確かに僕よりも貞操観念はあるようだ。
僕が着替え終わってしばらく経ってから、クレフは声を掛けてきた。着替え終わった、と答えると、ほっとしたように向こうも着替え終えた姿で顔を覗かせる。
「着替えくらい、見ても気にしないのに」
「俺は気にする。から、逃げる時間が欲しい」
がくりと肩を落とす姿を見ると、悪いことをしている気分になる。だが、いくら着替えを別にしたとしても寝台は一緒だろうに、ちぐはぐなことをするものだ。
クレフの先導で寝室に入ると、扉が開いた瞬間に匂いに満たされた。部屋の主が窓辺に近寄っていって開けるまで、鼻腔が好みの匂いに満たされる。外の空気が入ってきて、匂いが薄れていくのを惜しく思った。
僕は床をぺたぺたと歩いて、寝台に腰掛ける。対して、クレフは扉へ向けて身体を反転させた。
「じゃあ。おやすみ」
「おやすみ……?」
部屋を出ていく空気を察して、寝間着の裾を掴む。居間には大きなソファがあり、おそらく家主の方があちらで寝るつもりなのだろう。
クレフは目を丸くして、僕の手を見下ろす。
「いや。客が布団を貰うなんて駄目だろ、それなら僕がソファに行くよ」
「いや。客に椅子で寝かせるなんて、それこそ駄目だ」
相反した意見がぶつかり、目を細める。だが、お互いを思い遣った結果で喧嘩するのは本意ではなかった。
裾を掴んだ指で、くい、と引く。
「僕は一緒に寝るものだと思ってたんだけど」
「はあ!?」
彼にとっては想定外の言葉だったらしい。目を剥いて、言葉にならない声を発して、そして意味の咀嚼のために黙り込む。
僕は掴んだ裾を離さず、じっと答えを待った。
「番候補と同衾というのは…………、外聞が悪いと思うんだが」
「でもそれ、僕が黙ってたら外聞も何も無いんじゃないか?」
クレフはまた黙り込んだ。その様子を眺めていると、酔った頭でも明日までこのアルファが僕になにもしないであろうことが分かる。
くいくい、と裾を引くと、彼は諦めたように僕の隣に座った。
「俺たちは、魔力の相性がいいんだ。事故が起きてしまったら……」
「起きないよ」
ある程度の確信を持って言うのだが、クレフは首を振った。両手に顔を埋め、がくりと背を前に倒す。
「──────……、さっきから、ずっといい匂いがするんだ」
「え? 僕から?」
「おそらく」
もぞもぞと彼の脚は何かを隠すように動いており、その中心に無意識に目をやると、やんわりと持ち上がっているのが見えた。視線の先を察したのだろう、クレフは毛布を引き寄せると、自分の脚の上に被せた。
「俺は深くオメガと関わったことがない上に、君とは魔力も合う。君に性的な魅力を感じるし、鼻がずっと匂いを追うんだ」
おそらく、いま僕が酔っていなかったら、素直にその言葉を受け入れて離れていただろう。
けれど、酔った頭ではその言葉に対しても、なんで一緒に寝てくれないのだ、という思いしか浮かばない。寝室に満ちていたあの匂いも窓から逃れてしまって、目の前のアルファに近寄らなければ匂いがしない。だというのに、このアルファは寝室から出ていこうとするのだ。
彼は僕から、あの匂いを取り上げようとする。
「だから?」
「君に、手を出してしまうかもしれないぞ……?」
おずおずと出た言葉に、説得力などなかった。僕はへえ、と半眼になると、立ち上がり、クレフに向かい合う。
踏み込むように、助走をつけてその胸に飛び込んだ。流石の近衛隊長でさえも、そのまま寝台に倒れ込む。すん、と鼻から息を吸うと、あの匂いでいっぱいになった。支えるように掴まれた腕から、びりびりと魔力が流れ込んでくる。
魔力は僕を絡め取ろうとするのに、最後の一線だけは守っていた。そこから先には、侵入してこようとはしないのだ。
「手なんて出さないよ。クレフは」
ほう、と息を吐き、そのまま目を閉じた。酔っているとき特有の眠気が、とろとろと瞼の境界を溶かす。
このまま眠ってしまいたい、と欠伸をして、腕を絡めたまま微睡んだ。
「ネーベル……、もしかして、このまま寝たりは……」
悲壮感さえ伝わる声が上の方でした。けれど、僕はずいぶんと眠たくて、その低い声を無視する。ぎゅ、と力を込め、このまま動くな、と身体を繋ぎ止めた。
しばらくして、大きな溜め息が聞こえる。
僕の全身を寝台に持ち上げると、布団が被せられる。その覆いの中の身体が逃げることはなく、毛布越しに好ましく思った匂いに包まれながら眠りに落ちた。
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