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 目覚めると、明るい色のカーテンから陽が差し込んでいた。ぱちぱちと瞼を動かして目を刺すような痛みをやり過ごし、ぐっと伸びをして起き上がる。そろりと扉を開けて廊下に出ると、家自体から物音はしなかった。

 家主はまだ寝ているのだろう、と当たりを付け、キッチンへ向かう。言質も貰ったことだし、と遠慮無く冷蔵庫を開け、昨日買っておいたパンを取り出した。

「オーブンレンジの使い方、分かるかな……」

 画面をピ、ピ、と操作していると、今時の家電らしくなんとなく使い方が分かった。開封したパンを皿に載せ、スタートボタンを押す。

 飲み物ないかな、と冷蔵庫を見直すと、開封済みの牛乳があった。持ち主を思い起こしながら勝手に飲んでも怒らないであろうと判断し、コップも借りて牛乳を注ぐ。

 パンの代わりにコップを中に入れ、またレンジを動かした。待ち時間の間に食卓近くにあるカーテンを開け、光を取り込む。今日は綺麗な晴れ空で、二日酔いの人間には酷なほど日差しが強い。

 俺がカチャカチャやっている音が届いたのか、有菱さんが起きてきたのは牛乳が温め終わるのと同時だった。ドアを開閉する音がして、静かな足音が廊下を通る。

「おはよ」

 レンジからコップを取り出しながら言うと、まだ目をしぱしぱさせながら有菱さんは返事をした。

「おはよう。……喉が痛い」

「だよな。牛乳あたためる?」

「お願いしようかな」

 どのカップがいいか尋ね、大きめのマグカップに牛乳を注いだ。砂糖は要らないとのことで、そのまま覚えた操作でレンジをセットする。

 二個目の牛乳が温め終わると、有菱さんの分のパンもレンジに放り込む。まだ完全に目が覚めていないらしく、俺が動き回る様を見ながらごめん……、と呟いて力なく椅子の背に身体を預けている。

 髪は寝乱れ、顔色も良いとは言えないが、陽光とはかけ離れた色気があった。

「はい、これ。食べられるか?」

「……食べられないって言ったら、千切って食べさせてくれる?」

「は? 食べさせないけど。俺の匂い付くじゃんか」

 がっくりと机に突っ伏す有菱さんの側に、温めた朝食の皿を寄せる。行動自体はわざとらしく、冗談めかしていた。

 向かいに座って、少し冷えた甘いパンを囓る。

「匂いが付いてもいいんだけどなぁ……」

「せっかく温めたんだから食べてくれよ」

 向かいにいる有菱さんは駄々っ子のようで、もう、と言いながらも起き上がってパンを割った。もぐもぐとゆっくり咀嚼して、美味しい、と呟く。

 マグカップも持ち上げて飲み、のんびり喉が動いた。カップを机の上に置き、ひと呼吸おく。

「碌谷さんは匂いが付かないか気にしてくれているけど、昨日からいるんだからもう結構分かるよ」

「あ、そうなのか。やっぱ自分の匂いって自覚しづらいな」

 パジャマの裾に鼻先を当てると、確かに自分の匂いが移ってしまっていた。クリーニングして返そうと決め、裾をていねいに折り直す。

 食卓にはパンの甘い匂いが漂っていて、それでも互いの匂いは確実に主張していた。

「できるだけ掃除して帰るよ。悪いな」

「別に。いい匂いだよ」

 アルファと一緒に、のんびり朝を過ごすのは珍しい。テレビもラジオもなく、飲酒翌日のお互いの体調、という共通の話題で盛り上がった。

 二人とも声が掠れ、さほど声量も出ないままで喋り続ける。

「そういえば、ご家族から連絡あった?」

「起きたらメッセージが入ってた。夜間診療で抑制剤を処方してもらったから、もう戻っても大丈夫になったらしい。けど、念のため戻るのは日曜の夜にしたら、って」

「そっか。じゃあ帰るのは明日の夜だね」

 自然と今日も泊まっていったら、という方向に進められ、俺は眉を下げる。

「あの。流石に今日は帰……」

「一日も二日も一緒だよ」

「まあ、それもそうなんだけど」

 パジャマを貸し与えられ、ゲストルームには携帯の充電器すらあり、会社帰りですぐ泊まりに来たのに、今のところ何も困っていない。

 昨日も二人してぐっすり眠り、色気のある展開なんてこれっぽっちもなかった。

「今日も飲もう、夜」

「……なに飲む?」

「集めてる酒瓶の棚、見てないでしょう」

「それは見せて」

 有菱さんはパンを咥えて立ち上がると、こちらに手招きして歩き始めた。意図に気づき、その後を追う。彼はキッチンまで行くと、その近くにこっそりとある扉を開ける。

 小さめの収納スペースはパントリーとして使われているようで、酒棚があり、多様な瓶が並んでいた。

「ウイスキー、これ十八年物か。高いんじゃないか?」

「数万、……くらい?」

「覚えてないのか」

「飲むつもりで買ってるからねぇ」

 彼のスタンスとして観賞用にするつもりはないようで、数十万するような酒は置いていないとのことだった。

 ただ、数千円のものはまだしも、一万を超えるような酒はごろごろと置いてある。俺が十八年ものの瓶を持ったままでいると、有菱さんは俺の手元を指さす。

「今夜、それ飲む?」

「い、要らないって……! こんな高いもの」

「未開封なら価値はあるだろうけど、開けちゃってるから一緒だよ。昨日でおつまみ切らしたから、暇だったら買いに出ようか」

 俺が断り切れないまま瓶を元の位置に戻すと、彼はガラス扉を閉じた。

 連れ立ってパントリーを出て、食事の席に戻る。俺は飲み残していた牛乳に口をつける。

「折角だし、買い出しついでにうちのブランドがやってるショップに寄らない?」

「……言ってたな。でも悪いよ。値段的に買えない、かもだし」

「買わせたい訳じゃない。うちのブランドがどんなことをしているか、知ってほしいんだ。ほら、碌谷さん自身が買わなくても、お知り合いとかにご縁があるかもしれないし」

 確かに、金銭的に余裕のある父母や、兄達なら好むかもしれない。

 反射的に断ってしまったことを詫び、連れて行ってくれるよう頼んだ。ふと、昨日はスーツしか着てこなかったことを思い出す。

「あ、外出用の服が要るな。ちょっと家と連絡とってみるよ」

「え? 貸すよ?」

「貸せるもんか?」

「身長差は少しあるけど、何かしら着られるものはあると思う」

 朝食を空にすると、二人で食器を流し台に運んだ。洗おうとすると、彼は据え置き型の食器洗浄機を指さす。

 洗い物も少なかったため、濯いでその中に入れておく。

「あとでまとめて洗っておくよ」

 彼はそう言い、クローゼットへと俺を案内した。ウォークインクローゼット、と呼べるであろう広い空間は、成程、服飾に関わる会社の社長の家らしい。

 中にある服も大量で、お気に入りの服は芸術品のようにディスプレイされていた。

「す…………っごいな。こんなに大量の服」

「付き合いで買うことも多くて。なかなか減らないんだよね。……例えば、この服とか丈感を短めに着るものなんだけれど」

 彼が体に当てると足下がよく見えるのだが、俺に与えられると急にぴったりに近い長さになった。

 隣に立ってみると、有菱さんの脚の長さがよく分かる。

「改めて見ると、有菱さん、スタイル良いんだな」

「ありがとう。お飾りの社長って評判だよ」

「飾って見栄えがいい社長には、価値があると思うぞ」

「はは。嬉しいな。確かに、取材によく呼んでもらえるんだ」

 会話しながらも、彼の視線は服に向いている。いくらか服を俺に宛がい、色味を確認していく。

 最終的に柔らかい色味の服で揃えられた。試着してみたが、多少のサイズの不一致はあれど、出かけて目立つほどでもない。

「丈は仕方ないけど。色とデザインは似合ってるよ」

「ありがと。じゃあ、これ借り…………」

 言い掛けて一つの問題に思い至り、眉を下げた。

 俺の様子に気づいた有菱さんは、選ばなかった服を戻し、こちらに歩み寄る。

「匂いがつかないように気をつけてたのに、……あんたの服の近くに寄っちまった」

「……ああ。気にしてたの?」

「うちの兄が匂いの選り好み激しくて、嫌いな匂いに当たりが強いから」

「俺は気にしないほう、ではないけれど。碌谷さんの匂いは嫌だとは思っていない、って言ったでしょう。嫌なら連れてこないよ」

「次は、気をつける」

「碌谷さんは、申し訳ないと思うときだけ表情豊かだね」

 彼はついでに自分の服を選び、その場で着替え始める。

 体付きはアルファの典型的なそれで、腹にも筋肉の筋が見えた。つい柔々な自分の腹を摘まんで悲しい気持ちになってしまう。

 有菱さんは手早くアクセサリーを身につけ、こちらに向き直った。

「どう? 似合う?」

 ばちっと合った丈の明るいセットアップを身に付けた有菱さんは、春を先取りしたように上品で華やかだ。

「似合うよ。顔もいい」

「アルファは全部同じ顔に見えるんじゃなかった?」

「そりゃ。アルファはみんな顔にも服にも気を遣ってるしな」

「そこは否定してよ」

 クローゼットから出て、洗面台に向かう。歯を磨き終えると、有菱さんから髪を梳かされた。続けてワックスで形を整え、顔に日焼け止めと顔色を良くするためのクリームを塗られる。

「目の下の隈すっごいよ」

 長い指が、丁寧に肌の上を滑る。少し、心臓の音が速くなった。

「酒飲むと眠りが浅いからじゃないか」

「いや、会ったときから。寝具とか気にしてる?」

「し、…………てる」

「表情が変わらないのに、嘘は下手なんだね」

 間近に顔を寄せた有菱さんは、楽しそうに笑った。くしゃり、と変化する表情は、昨日の夜、飲みながら見たいと思った顔そのものだ。

 完璧そうな男の抜けたところを喜ぶなんて、俺は意地が悪いのだろうか。

「はい、できた。どう? 顔色良くなったでしょう」

「おお。すごい」

 彼の手で丁寧に塗られたおかげで隈も目立たなくなり、顔色が一段階明るくなった。

 髪もふんわりと整えられ、服装の明るさも相俟って垢抜けて見える。隣で自分の顔を整えた有菱さんに叶うはずもないが、普段の俺と比べれば雲泥の差だ。

 服と、髪と、肌。ほんの少しの手入れで、ここまで違うものか。

「なあ。今日の俺、顔よくないか?」

「いいよ。というか、碌谷さん雑に扱いすぎなだけで顔自体は悪くないしね」

「雑な、扱い……」

 洗面台に化粧水の瓶を置くような、この男に言われては頷くほかない。

 彼はこちらを見て満足そうに唇を上げ、楽しそうな声音で言う。

「本当に。素敵な顔だよ、大事にして」

「…………おう」

 妙に高価そうなお出かけ用の鞄も貸してもらい、仕事鞄から荷物を移す。

 靴だけは履いてきた仕事靴しかない、と思っていたが、有菱さんは俺の元々履いてきた靴を裏返し、サイズを確認する。そして、シューズクロークに入っていき、取り出した一足の靴に中敷きを詰めはじめた。

 置かれたのはオフホワイトのスニーカーだ。

「これ、ちょっと履いてみて」

 恐るおそる足を通す。彼と俺の足のサイズは少し違うのだが、靴下の厚みと中敷きのお陰で隙間が埋まり、滑りにくくなっている。

 広い玄関を歩いてみると、違和感はなかった。

「あ。楽に歩ける」

「足のサイズ、そこまで違わないみたいで良かったね」

 彼はすみれ色をした靴を取り出すと、足を通した。

 行こう、と促されて外に出る。朝に感じた眩しさは少しも衰えておらず、つい目を細めてしまう。

 逃れるように視線を向けた先にも、これまた変わらず眩しい男がいた。




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