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第三章

名前のない物語⑵

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 家へ戻り、しばらくぼんやりして、ベッドに転がり買ったばかりの本を開いた。最近SNSで話題になっていたから、単なる興味本位だった。
『夢とシンクロニシティ』と題された本には、夢を通じて誰かと繋がることが可能になると書かれている。
 実際に、同じ夢を見たと発言する人たちもいるけど、確かめる手段がない以上なんとでも言える。
 やり方に目を通しながら、胡散臭くなって読むのをやめた。

 月の満ち欠けだとか、よく分からない単語がずらりと並んでいたのと、もうこの世にいない人と夢をみることなど不可能だから。
 窓の外には、不知夜いざよい月が浮かんでいる。疲れていたのもあって、いつの間にか本を持ったまま眠りについていた。


 ゆらゆら、ふわふわ。体は自分のままなのに、まるで蝶にでもなったみたいに空を飛んでいる。
 羽根を休めるために降り立ったのは、学校の屋上らしき場所。
 自然のプラネタリウムが頭上に広がるように、青い空から星の代わりに虹色の雨が降り注いでくる。

「…………きれい」

 視線の先にあるフェンスに、見知らぬ制服を着た人がいる。
 不安定な鉄格子に腰を下ろす少年。その鉄の柵を歩く少女は、幻想的な世界に描かれた絵画のように見えた。
 少女が落ちそうになる。助けようとした少年が、なぜか反転した世界の柵の向こう側で落下しそうになっていた。

 その光景を、私は黙って見ている。
 瞬きをした次の瞬間、屋上から落ちて行く彼の手を取って、風を切りながら空を飛んでいた。ゆったりとした宙の波に流れるようにして。

「君の背中には、見えない羽根があるの?」

 ガラス玉のように透き通るような瞳で、少年は問い掛けてくる。
 どうしてか、彼のことを知っている気がしていた。

「そのようね。もしかしたら、あなたを助けるための物だったのかしら」
「ありがとう、 X Xさん」

 どうして、この子が私の名前を……。
 肌が七色に輝いて、星屑のようにキラキラと空を泳いでいく。足、体、腕へと星の粉は広がって、私と彼の手は消え去る最後の瞬間まで繋がっていた。


 朝の日差しのような心地良さを受けて、目を覚ました。
 体のあちこちに筋肉痛のような痛みを感じる。寝違えたのか、首と背中がひどく疲れている。

 首筋を伸ばしながら、ようやく周りの違和感に気付く。
 目の前には懐かしい黒板、教卓、五月のスケジュールと書かれた表がある。学校の教室と思われる場所で、休み時間なのか賑やかな生徒らしき声が聞こえてきた。
 知らない制服を身にまとって、仮装でもしている気分で気恥ずかしくなる。腕を押さえて、体を縮こめた。
 これは……、夢の続き?

「腹でも痛いのか? おい、大丈夫かー? ちゃんと出すもん出せよ?」

 隣でハスキーな男子の声がした。デリカシーのない台詞を、悪びれもなく堂々と浴びせてくる。

「失礼な人ね。あなたの心配なんて要らなくてよ」

 誰かしら、この人。
 プイっと窓の外を向いて、私は息を呑んだ。空のガラスに反射して映る後ろの席に、見覚えのある少年がいたから。
 夢で手を繋いで消えた人。今思えば、あの時の肌の感触はとてもリアルで、まだ暖かく心臓が動いていた彼の手のひらに似ていた気がした。

「なおっちー、数学の宿題見せてくれない?」
「おっ、俺にも見せて! 難しくってさ」
「いいよ。でも、関路先生に見つかると厄介だから、気を付けて」
「はーい! ありがとう。さすがクラス委員長のノート! 完璧だね」

 後ろの席に数名の生徒が群がってきた。どうやら、少年はクラス委員長をしているらしい。
 窓ガラスにちらりと視線を送ってみる。
 誰かと話す度にさらさらと動く黒髪、優しそうな瞳に小ぶりの鼻。唇からこぼれる笑みが、どことなく誰かに似ている気がして。

「直江梵だよ」

 そう、彼は婚約者だった直江梵に似て……。
 目を丸くしながら、後ろへ視線を向ける。

「そうそう! クラス委員長って言ってるから、なかなか名前が覚えられなくて」
「僕の名前、覚えづらいよね。クラス委員長でいいよ」
「サンキュー!」

 クラスメイトに向ける笑顔は、何度もデートで見た偽りの微笑みと同じ。だから、目の前にいる少年があの人なのだと確信出来た。


 意識がはっきりとしてから、どれだけの時間が経ったのかしら。
 覚めない夢の中で分かったのは、この教室は結芽岬高等学校の二年二組で、私はここの生徒。
 隣の席に座っているデリカシーのない男子は苗木なえき大祐たいすけという名で、後ろの席がクラス委員長の直江梵。
 黒板に記されている年号からして、私は八年前の五月十日にいるということ。

 教室を漂う空気の匂い、机の木材やノートの少しざらついた感触もやけに現実味がある。ここまで繊細な夢を見たことがない。
 ご丁寧に、私の名前が記された私物まである。よく出来た夢だと感心した。
 きっと、疲れているのだろう。そのうち目が覚める。

 すっかり忘れてしまった高校生の授業を受けて、放課後になっても意識はそのまま。
 教室を出て行く彼の後を追って、屋上へ辿り着いた。
 夢で見た景色と同じ空の下に、高校生の彼は立っている。私が知り得るはずのない直江梵がいる。
 空を見上げてため息を落とす後ろ姿でさえ、興味しかなかった。

「みんなに愛想を振りまいて、疲れない?」

 隣に立った時、彼はどんな反応をするのだろう。また偽りの顔で、私に笑いかけるのかしら。
 彼は、面白いと顔に書くように、少年のあどけなさが垣間かいま見える表情で私を見た。

「それって、遠回しに僕が八方美人だって言ってる?」
「否定はしないわ」
「そこしないのか。なんでだろう。みんなから良く思われたいから……かな。なんでそんなこと聞くの? えっと、名前……」
「綺原 X Xよ。なんでかって、それはあなたが一番知ってることでしょ」
「どうゆう意味?」

 ふわっと心地良い風が吹いて、木や鳥たちの声を運んでくる。
 どうして私は、もういなくなってしまった彼の前に高校生として立っているのかしら。

「あなたのことを、もっと知りたいからとでも言っておけば納得してもらえる?」
「……うん、まあ。綺原さんって、不思議な子だね」

 また唇を上げて素直に微笑む。
 知らない。こんな自然に笑いかけてくれる顔は、初めて見た。
 胸がキュッと狭くなって、息が苦しくなるような感覚。学生時代、まわりの女子が話していた恋という単語を思い出した。

 あろうことか、婚約者だった直江梵の高校時代に、ときめいてしまった。
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