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第二章

君にさよなら⑶

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 八月十八日、薄雲が広がる昼下がり。ゆかりのない駅を降りて、見慣れない住宅地が続く歩道を歩く。
 細身のジーンズに黒スニーカー。綺麗にネイルを施された爪が見えるレースアップサンダル。グレーのチェック柄短パンに茶色の靴。まばらだった歩幅が三つ、横一列になって足を止めた。

「ほんとに来てくれたんだ。何か起こる確証は、何もないけど」
「あら、約束は約束でしょ。何もしないで後悔するより、無駄足になるくらいが丁度いいの」
「そんなことより、綺原の私服って初めて見るな。その、なんだ、かわ……いいぞ」

 視線を宙に泳がせながら、苗木が頬を染める。

「……ありがと」

 少し戸惑った様子でお礼を言う綺原さん。褒められたのが満更でもないのか、彼女も少し柔らかな表情をした。


『俺、やっぱり綺原のこと好きだわ。なあ、直江。腐れ縁から脱出するために、協力してくれないか?』


 夏休みに入る前の教室で、苗木から言われた言葉を思い出す。
 苗木の不透明な気持ちが確信へ変わった以上、何としても後夜祭でのことは秘密にしておかなければならない。
 分かったと口にしながら、胸の奥がどよんと重くなったのは、彼に後ろめたさを感じたからだと、その時は勝手に思っていた。

「それにしても、よくオッケーもらえたよな。でも、なんでまた急に家庭訪問?」

 目の前に佇むレンガ調の一軒家を見上げながら、苗木が首を傾げる仕草をした。
 僕はここを知っている。前に一度、夢の中で見た事がある。母親に引き止められながら、蓬が飛び出して来た家だ。
 表札を確認して、インターフォンを鳴らす。すぐに返事がして、黒のノースリーブに茶色のスカート姿で日南先生が顔を出した。学校での雰囲気と少し違って、より大人の女性が漂っている。

 リビングに通されて、グラスに注がれた氷入りのオレンジジュースが出された。

「菫先生って、実家から通勤してたんですね」
「ずっとここに住んでるの。結芽高に近いから、一人暮らしするのはもったいなくて。母と二人で住むには、広すぎるんだけどね」

 視線を向けた写真立てには、幼い女の子と父親らしき若い男性が頬を寄せ合い笑っている。

 八月十八日は、実際に日南菫が亡くなった日だ。こうして彼女と会っていると、冷たい人形のように横たわっていた姿は夢だったのではないかと思えて来る。
 持病で亡くなったと聞いていたけど、その気配を感じたことはなく、本人は風邪を引いたことすらないと笑っていた。

 どういった経緯で亡くなって、持病という説明に行き着いたのか不透明だけど、夢にまで出てきて予言したのだ。
 あの時の涙……助けを求めているようにも感じられた。続けて見るのには、何かメッセージがあると思えてならない。

 だから、日南先生の授業を選択している綺原さんに理由を説明して、今日の約束を取り付けてもらったのだ。男子高校生が一人で押しかけるより、女子のいる方が、日南先生も快く承諾してくれると思ったから。

「先生って休みの日何してんの? 彼氏は?」
「女性に向かって、そういう発言をセクハラって言うのよ」
「綺原、何か怒ってんのか? 最近、俺に厳しすぎねぇ?」
「あら、初めからだと思うけど」
「ああ、たしかにな!」

 彼らのやり取りに目を丸くしたあと、日南先生がぷっと笑みをこぼす。目がなくなって、口角がキュッと上を向く。
 大人の魅せつけは皆無で、逆に少女のように無邪気だ。
 やはり、この間僕の前に現れた人物は彼女じゃない。

「残念ながら、先生に彼氏はいません」
「作らないんですか? 菫先生、美人なのに」
「なんでかな。初めて付き合った人と別れてからずっといないの。作らないのか、作れないのか」

 皆川の顔が脳裏を過った。あれ以来、蓬は誰とも付き合うことはなかったのか。
 果たして、僕のしたことは間違っていなかったのだろうかと、少し不安になった。

「そういう綺原さんこそ、校内一美少女と噂を聞くけど、恋人はいるの? それか好きな人とか」

 思いがけない質問返しだったのか、綺原さんは飲んでいたオレンジジュースに少しむせる。
 そのままこちらへ視線を送るから、僕まで動揺して咳が出た。
 後夜祭でのキスを思い出して赤面してしまう。反応に困りながら、ティッシュで口周りを拭った。

「……恋愛って難しいですよね。気持ちだけでは、どうにもならない。報われないこともある」

 時が止まったように、リビングが静まった。ここにいるみんなが痛いほど分かる言葉だから。
 何かを紛らわせるように、日南先生が冷蔵庫の前に立つ。用意していたであろうケーキを机に並べる。その面持ちはどこか切なげで、もしかしたら、学生時代の自分を思い出していたのかもしれない。
 口の中に広がるチョコレートは、少しだけほろ苦かった。

「そうだ! 綺原さんに見せたい物があったのよ。男子陣はここで待っててくれる?」

 パンッと手を鳴らす日南先生は、綺原さんを連れてリビングを出て行った。
 残された僕らは、黙々とケーキを食べるしかない。見渡してみると広さの割にはすっきりとした部屋で、二人で暮すには確かに寂しく感じる。
 気を取られていると、あのさと、苗木の低い声が物音のない空間に響いた。

「なあ、直江。変なこと……聞いていいか?」

 持っているフォークを置いた彼の表情は固く、とても聞き辛そうに見える。

「どうした?」

 反射的に僕もフォークを皿に置く。

「綺原の下の名前……、教えてくれないか?」

 ドクンと脈が波打つ音がして、それは心臓から流れ出ているのか入っている音なのか。答えられない。

「どんだけ頭ひねっても、思い出せねぇんだ。知ってるはずなのに、分かんなくて。アイツのこと……好きなのに。最低だよな、俺」
「……同じだよ。僕も綺原さんの名前、思い出せないんだ」
「直江もなのか⁉︎ それって、なんか変だよな? 俺ら二人とも分かんねぇとかさ」

 彼女のことは、誰もが綺原さんと苗字で呼ぶ。それは僕らにとって日常の光景で、今までなんら不思議でもなかった。
 でも、今感じている違和感はなんだろう。最初から、彼女の名を知らないような、おかしな気になるのは。

 リビングのドアが開いて、二人が帰って来た。絵の話をしていたのか、手にはスケッチブックと数枚の紙が持たれている。その綺原さんの表情は、どことなく浮かない。向こうで、なにかあったのだろうか。
 疑問を口にするタイミングはなく、そのまま夕方を迎えた。

 パート先から帰って来た先生の母親に、夕食を誘われてご馳走になった。生徒が訪ねてきたことが嬉しかったようで、頬を緩めながら日南先生の幼少期を語り始める。
 そういえば、葬儀の時、生徒に近い教師だと涙ながらに話していた。この人のためにも、彼女を死なせたくない。
 魚のフライを皿に取り、ひと口だけ頬張る。熱が染み込んできて、ふと向けられている視線に気付いた。
 チクチク刺さるものではなく、見守るような眼差しと言える。斜め向い側に座る母親だ。

「直江くん、だったかな?」
「……はい」
「あなたを見てると、思い出すな。遠い昔、辛くて苦しかった日が終わった夢。あの頃、精神的に不安定だったから。私も菫も、夢と現実の区別が付かなくなってて」
「お母さん、その話はしない約束だよ」

 気まずそうに唇を尖らせた日南先生が話をさえぎる。
 おそらく、皆川との関係を断ち切った時のことだ。夢の中で起こったことは、僕と蓬以外の人にも記憶されているらしい。

 ただ、現実と別の曖昧なものとして残されているようだ。時が過ぎたら、僕自身もそうなるのだろうか。


 午後七時が過ぎ、外は夕闇に包まれていく。警戒していたようなことは何も起こらず、日南先生の行動にも不自然な動きはない。
 あれは、ただの夢だったのか。深読みし過ぎていたのかもしれない。
 遅くなってしまったからと、日南先生が家まで送ってくれる運びになった。
 リビングを出ようとした時、背後で何かガシャンと割れる音がした。振り返ると、ガラスの破片と写真立てのフレーム、外れた裏板が床に散乱していた。

「ごめんなさい」

 しゃがみ込んだ綺原さんの手を止めて、「危ないから、僕が拾うよ」と、写真を手に取る。
 幼い少女と父親らしき人が、木枠の中で微笑みかけている。とても幸せそうだ。
 なにげなく写真を裏返した瞬間、息を吸うことを忘れた。

 ──よもぎ・二才。
 鉛筆で書かれた文字が頭の中を駆け巡って、僕の思考を奪う。
 よもぎ、蓬……? 大きなガラスの破片を拾いながら、何度も心の中で名前を呟いた。
 写真の中で無邪気な笑みを浮かべる【蓬】というこの少女は、一体……誰だ。

 黒いベールに覆われた景色を走り抜ける。今宵こよいは、居待月いまちづきと呼ぶらしい。ゆっくり待つうちに月が出てくる、と言う意味だとか。
 二人を送り届けた車中は、僕と日南先生だけになった。明らかに、彼らがいた時とは違う空気が流れている。互いの口数は減り、会話も譫言うわごとのようなものばかりに聞こえた。
 彼女も僕も、本当は別の話をしたいと思っている。

 信号待ちで停車した。ここを右折して、後はひたすらに直進して行けば十分もかからないで僕の家に着く。

「さっきの写真、裏見た……よね?」

 探り探りな声色で、チラリと僕に視線を向ける。

「……蓬って、ほんとは誰なんですか?」

 夢で会った蓬と名乗る少女は、日南先生の偽名だったことが分かった。でも、蓬という人物は実在した。
 僕が会っていたのは、写真の中の少女だったのか?

「さっき写真に写っていた子は、蓬は、私の妹なの」
「……妹?」

 違和感しかなかった。
 なぜなら、日南菫の葬儀では喪主を務めた母親以外に、親族は叔父や叔母しかいなかったからだ。妹と呼ばれる女性の姿はなかった。
 青信号に変わり、車が発進するのと同じタイミングで彼女は口を開く。

「私が幼い頃、突然父が蒸発したの。その時、二歳だった妹を連れて出たみたい。妹はお父さんっ子だったらしいから、父は相当可愛がっていたって」
「今どこにいるか、お互い知らないんですか?」
「一切ね。私でさえ、あの子の記憶はほとんど無いの。なんとなく一緒に遊んでた子がいたかなぁくらいよ。だから、姉がいると教えられていなければ、私の存在すら知らないと思う」

 言葉が出て来なかった。聞きたかったことが、ゴクリと唾を飲み込む度に胸の奥へ流れてしまう。
 タイヤが坂を上がり、見慣れた街の風景を追い抜いていく。そのまま、僕の家の前で停車した。
 隣りに佇む歯科医院は、まだ灯りが付いていて人の気配も多い。暗闇に包まれている寂しげな我が家とは雲泥うんでいの差だ。意味もなく、ため息が出そうになる。

「今日は夕食までご馳走してもらって、ありがとうございました」

 ドアを開けようとした時、右手をグッと掴まれた。声のない呼びかけに、心臓が跳ね上がる。

「八月十八日……今日は、私の命日なんだよね? だから来てくれたの?」

『八月十八日、私は死ぬ。夢だと思う?』

 一瞬、脳裏を掠めた映像をかき消す。
 少し間を開けて、小さくうなずいた。

「……ありがとう。それから、梵くんが会っていた蓬は私だから」

 どうして今、彼女と同じ呼び方をするんだ。
 小さな鼓動が大きくなって、潤んだ瞳から目が離せなくなる。重なっていた蓬が消えて、吸い込まれるように影が近付く。
 これも夢なのか。体が石のように動かない。
 自転車のライトが差し込んで、とっさに顔を背けた。魔法が解けたみたいに、体が自由になる。
 なんだ、今のは。すごく変な空気だった。

「じゃあ、また休み明けに学校でね」

 何もなかったように、日南先生が鍵を開ける。

「……おやすみなさい」

 軽く頭を下げて、車が見えなくなるのを見送った。
 さっきの光景を思い出して、少しホッとしている。おかしなことにならなくて良かった。それと同時に、疑問が浮かび上がる。

 顔が近く瞬間、どうして──、後夜祭の花火に照らされた彼女の横顔を思い出したのだろう。
 夜の闇に溶けるように、月が僕をぼんやりと映す。何かを知らしめるように。
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